ラスキンの山岳論[六]
小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ
小島烏水
『みづゑ』第六十二 P.2-7
明治43年5月3日
ラスキンの山岳論〔六〕
小島烏水
それから、高山性の山丘、低山性の山岳、山麓、となつて山の實相を講じてゐます、あまり長くなるから、こゝには山岳の雪が、如何に多く畫家に、怠られてゐたかといふ點に就いて、述べてあることを、御話いたしませう。山岳の形體を、考察することは、勿論必要であるが、高山には、所謂萬年雪と稱して、消えない雪がある、その不斷の雪のために、山形が幾分か變化してゐることを、認めなければならぬ、冬景色の畫は、月夜の風景畫と同じく、有り觸れてゐるが、ラスキンに佼ると、ハントや、デ、ウイントの作品に、やゝ見るべきものを認めた外、まるで不可い。
ラスキン説いて曰く、凡そ自然の無機體の中で、温かい光線の下で見る、新らしく、深く、積もつた雪ほど、完全に美くしいものは無からう、その彎曲は完全で變化があつて、その表面と透明は、極美に近く、不盡の變幻ある光と影、その蔭は鋭く、蒼く天色があり、反射したる光は、烈しく無數で、刹那々々の飛び交ふ光と、混じてゐる、その壯嚴は、人間の手で近寄れないが、その形體と光線に注意すれば、研究次第では、暗示することが出來る、今アルプス高山の雪に就いて、稀に畫かれれものを見るに、その形態は白い岩でなければ、岩の上を輕く雪で粉抹したのに止まつてゐる、ハァヂングの、バイロンの詩に挿繪として描いれ高山の雪は、比較的最も佳いが、それでも眞の解剖が出來て居らぬ、スタンフイルドのは、雪の代りに白い岩を寫したといふまでだ、雪は素より山の形體に依つて積むのであるから、下地の山の物質からして、看破しなければならぬ、雪はその後で落していゝのだ。併し雪は、單に外套のやうに、被せられてゐるのでは無い、雪は岩が持ち切れなくなる程度までは、積もつてゐる、その殘りものも、冬には氷つてゐるから轉げ落ちない、一ッの高山が荷つてゐる雪は、一と冬一定の場所に降る雪の分量よりも多いのである、さうして春の雪融の頃、崩雪となつて墜ちるのだ、それからも、強い日光に當てゝ、岩が持て餘した雪が、少しづゝ墜ちて、谷間や崖の緩斜面へ落ちるのである、だから山の深雪となると、岩の原形を、必ずしも表現しないのである、峰から峰へと繋がつた花環のやうに懸つてゐる、さうして風向きの如何によつて、山形の彎曲と、大さ次第に依て、變形をしてゐるのである。
更に順序を立てゝ述べると、山から直ぐ剥かれるやうな外套の雪は、高い山に、暴風雨の後始めて見るもので、粉抹したやうに閃いてゐるのが、それで、高山雪の第一期だ、それが畫に融解し、夜は再び凝結したりしてやゝ動揺しながら、山の★しい傾斜側に、殻皮を作つてゐるやうになるのが第二期である、その上に雪が高嶺の秀拔した岩に冷結して、舊雪の上に新雪が加はり、或は山稜の窪所に停滞したりして、岩とも雪とも區別のつかない雪壁が出來る、最後に山脈が雪に没せられて、深く滑らかに、拂拭的に、凹凸なく、只だ大體の山の輪廓に從つて、雪線を作るのである、故に畫家は、高山の雪を簡單に、自い山と思つて描いてはゐけない|今日、そんな無造作な考で作畫する人は無からうが|さうして雪の堆積を荷つてゐる山岳の群落と思つて、岩石の粗剛な、刺々しいギザ々々と、雪の微妙なる彎曲との、反對と一致の境地に着眼して欲しい、それまで細かく研究して描いた作が、今まで又見當らないから、作例に照らして、説明するわけににゆかないと斷つてある。
ラスキンは、瑞西を好む、小舎も、三脚も、牛鈴も、乳酪も、何にも要らないが、天と地の間の結合線なる、純潔神聖の山岳が、欲しいばかりだ、と氣焔を吐いてゐる。日本アルプスで言ヘば、白馬岳附近の連嶺には、夏でも猶猫このやうな雪の光景を、認め得られるかも知れないが、南アルプスの白峯赤石連嶺では、冬期だけにのみ、覗はれる現象である、併し冬は、これ等の山に近寄ることが出來ないから、このやうな微細が、果して雪の畫に、読明し得らるゝ事なるかは、明言出來ない。
第四巻に於て、ラスキンは山岳の材料を説き、結晶片岩や、粘粉岩やに就いて、硬軟岩石の結合を檢査し、次に高山、低山に分ちて、山の彫刻を説明し、次いで部分々々の形式美に遷つて、針峯、山冠、絶壁、岸、石等に、名章を分つて、研究し、最後に、山岳の暗黒方面と、光明方面とを「山岳の幽暗」及び「山岳の光榮」の二章で、至つて可感的の方式で描いてゐる、こゝへ來ると、ラスキンは科學者でも、自然主義の作家でも無く、熾烈な感情を有するローマンチストのやうになつて、燃え盛りの燭を乘つて匹邊眩ゆく、振り廻してゐるのが解る。私は『日本アルプス』の著者なるウオルタアウヱストン氏が、「山岳の光榮」の一節を額にして、柱に飾つて、私に愛山宗の信徒になるべく、読明してくれれことを憶ひ起す。
私は、ラスキンと、その偉大なる感化力を信ずる。併しラスキンの山岳論が、全部そのまゝで我等に認容されないのは、根本的に各人に存する、所見の相遠は素よりとして、地球の冷却によつて出來た、所謂褶曲性のアルプス大山嶺と、火力によつて出來た、火山なるものゝ多い我國の山岳との、性質上の相違であります。それにもう一ッは、アルプスは、一體に日本の中央大山系(甲斐、信濃、飛騨、越中、越後に亘る山、所謂日本アルプス)に比べて、山が高い上に、緯度の關係上、概して干七百米突、即ち加賀白山位の高さからは、雪線に入つてゐる、雪線とは、御承知の通り、雪が恒に存在して、夏が來ても、融解しないほどの、高さの境界線を言ふのであるから雪が氷るなり、氷がその粘滑性のために、徐々と流動する氷河になつて、これがアルプスでは一ッの恐ろしい造山力になつてゐる、山の斷崖でも、山稜でも、又谷河でも、湖水でも、この氷河の造營したものが多い、これが日本の山岳には、絶無で、白山より一千米突も高い富士山ですら、氣候が温か過ぎて、未だ雪線に入らない程であるから、其外は、推して知られる。
即ち日本山谷形體の起因は、主として風化作用から來る浸蝕から生ずるので、又火山では爆裂から來るので、アルプスのやうな、褐曲に、萬年雪に、氷河と、三ッ重なつたものから來てゐるのとは、大きに違ふ、私はアルプスを親しく視たことは無いが、一體に向ふの山は、角度が鋭くて、氷河の堆積のために、山形が日本に於けるよりも、より多く堆積物に左右せられてゐるのでは無いかと思はれる、隨つてラスキンのやうな議論も、出て來るのであらう。
假令それが無いとしてからが、アルプスには水成岩の高山が多い、其一例を擧げると、日本では石灰岩の山は、皆低いものばかりであるが、先方では石灰岩の變化した白雲石から、成立してゐるドロマイトなどといふ、一萬尺以上の高山があつて、高山絶壁の標本とも言ふべき断崖を作つてゐる、が日本には見られない現象である、從つて水の色から、山の容から、違ふ點が大分多い、日本の山岳は、概して火山や水成岩の、緩角度の彎曲が、曲形を成してゐるやうで、低い代りに、どこか悠つたりと落ちついてゐるやうだ。
從つてラスキンの議論を、成るたけ多く宛て嵌めて行かうとするには、地質學者ナウマンが、構造アルプス山にょく肖てゐると言つた、四國山系へでも持つて行つて、對照して見る方が、近いであらうが、これとて、小規模で、且つ雪が無いから、どこまで併論していゝかは、疑問である。
最後に我等が如何にラスキン先生に、負ふところがあるかといふ點を、説きたいと思ひます、ラスキンは十九世紀の過ぎ去ると共に、十九世紀が遺留した世界最後の丈豪となつて、世を去りましたが、その敎訓は、未だ殘つて居ます、二十世紀となりました、空は煤煙で黑くなり、自然の顔は蜘蛛の巣のやうな電線の綱や、鐵道の絲で、張られました、空には禽の聲が浩えて、殺人器械の呻きや、火の粉が飛んでゐる、勿論生存競争の激甚や、人類の進歩は、物質器械に、多く負ふところもあるから、夢のやうな空想や、美の情緒などに、未練を殘してゐられぬ世の中となつたでありませう、併しながら、人類の本然は、未だ器械化されるほどに、冷酷乾燥では居られませむ、我等ば今、やつと二十世紀の門戸に逮したばかりである、門の中には、何が藏せられてあるか、誰にも解らない、併しながら線日で、植木の一鉢も買って來るだけの飴裕の、失くならない限り、我等に、ラスキンの敎へを待たなければならない、否、失くならうとすればする程、ラスキンに、自然に封する眼を開けて、もらふ必要がある。
丈藝にまれ、美術にまれ、かういつた精神的の事業は、形式や算數で、證明の出來ない事が多いから、ラスキンの感化が、これだけであつたと、指すことは出來ないけれど、生存中に、ラスキン研究の團體が、方々に出來たことは、今まで其例が、絶えて無かつたことであると言はれてゐる。初めてのラスキン、ソサイヱチイは、一千八百七十九年に、マンチヱスタアに出來て、それから倫敦、グラスゴー、リパァプールにも出來た、是等は今猶現存してゐるといふことであります、一千八百八十七年では、ラスキンの生國スコツトランドで、ラスキン讀書會が成立しまして、英蘭土や、愛爾蘭土にも支部を有して居ます、さうして未だ存在してゐるかどうか知りませぬが、ラスキンの文學及び社會の見地を、研究する機關として、イグドラシル(Igdrasil)といふ雑誌まで、出來ました、最もその外にカアライルや、トルストイのやうな、ラスキンと略ぼ同見地に立つた、人道の戦士をも、併てこの雑誌では研突してゐるやうであります、それから米國に渡りましては、流石に同文の國だけに、ラスキン研究の倶樂部や、階級が多く設立されたのであります、猶亜米利加のケンネツシイ州では、社會黨の立てた町があります、この住民の中の勞働者は、ラスキン聯合協會の名の下に團結して、町の名を「ラスキン」とつけたさうです、斯の如く無數量の人々は、蜜蜂のやうに、ラスキンといふ花に蔟つて、その甘味を吸つたり醉つたりして飽かないのであります。
ラスキンの書は、外國では、あまり飜譯されてありませむ、それにラスキンの文體が、飜譯に困難であるといふ理由のみならず、ラスキンの心底からの叫びを、打ち明けて聞いてくれるものは、やはり英語を話す國民であらうといふ信念から、ラスキンが多くの場合に、反對したからでもあります、併しながらラスキンは、ヴヱニスや、アルプスを紹介したゝめに、伊太利國民は、最も多くラスキンを徳として、認識して居ます、隣國の佛蘭西では、猶多くラスキンが紹介されました、孰れも有力の人々によつて、ラスキン研究が、彼地の有力な紙上で、發表されてからLe Ruskinisme(ラスキン好み)が、巴里流行の中心になつたこともあつたといふことです。
日本でも、ラスキンの飜譯は、文學では「近世畫家論」の抄譯や、斷片譯が、少しばかり出た位であつて、道徳に關する講話の一二種は、譯されたかも知れませぬが、先づ甚だ乏しいやうであります、今の日本の文學界は|おそらく美術界も||大體に於てラスキンを一旦通過して來なかつた哀しさには、自然研究が隨分疎そかで、人間方面から比べると、際立つて劣つてゐるやうに思はれます、下駄を片跛足に穿いて、大道を歩いてゐるやうに見えることがあります。
併し全く無いではない、島崎藤村氏の「雲の研究」徳富蘆花氏の「自然と人生」それから蒲原有明氏の或散文の作品などに、ラスキンの影響は認められるやうに思ひます、又志賀重昂氏の「日本風景論」が出たのも、所謂科學と文學とを調和したと稱する、自然主題の類書が頻に出たりするのも、日本山岳曾の成立も、各自に於て意識すると否とに係はらず、ラスキンの影響を受けないとは、言はれないであらうと思ひます。
ラスキンは、永久に忘れられない人です。(完結)