身邊時事

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十二
明治43年5月3日

 美術展覽會場建設に盡力せられた代議士を、精養軒に招待した席上、福井三郎氏の言ふのには『吾輩の祖父は書畫を澤山買込んで置いた、父の代になつて、これを賣つても一萬や二萬にはなると常に言ふてゐたが、いよいよホントーに賣らねばならぬ事になって、京都から鑑定家を頼んで見て貰ったら、全部僞物で、一萬はおろか鑑定人の族費も六つかしいといふ結果になつたので、父は、それを不殘村の寺へ寄附して仕舞つた。さて、寺では、毎年蟲干しに陳列して村人に見せる、そのお蔭で、應擧だ、華山だ、雪舟だ、元信だと、とに角昔からの名人の名前位ひに小さな子供迄も知つてゐる。それが、道一筋を界して、隣村となると、村長さへも碌に書畫のことを知らない、寺に美術品のあるといふことは、教育の上にもよいことだ、タトへ贋物でも其功は大したものだ』と。
 趣味の普及は、書物や言語よりも、まのみたり美術品を見せ、それに親しますに限る。この意昧に於て、時々各地に、展覽會の開かるゝに結構なことだと思ふ。
 

小川の水車塲河合新藏筆

 如何なる勞働でも厭はぬ、繪の勉強を爲度から先生のお宅に置いて頂きたい|こんな手紙は不相變月に二三通は來る。去年も『國府津たより』に言つて置たが、今日の西洋畫家で、書生を養つて勉強させてやる程の餘裕のある人は殆と無い。私にしても若しそのやうな金があつたら、一人の爲めでなく、(眞の天才なら知らぬこと)研究所なり『みづゑ』になり注ぎ込んで、多くの人のために使ふ。斯かる希望を述べて、頼んで來る人それ自身には、必ず幾多同情すベき事情があるに相違ない、その點は諒としても、一體、今の世の中に人の家に寄食して勉強しやうなどといふ虫のよい考を持つてゐるのは間違だ。私に言はせると、其人の將來のためにも甚だよくない。他人の家に厄介になるといふことは、自然詰らぬ事にも頭を使はねばならぬ、多少主人一家の御機嫌も取らなければならぬ、種々な點から、品性が卑劣になつて、社會へ出てから後も、いつ迄もついて廻る、碌なものにはなれない。苦學はよい、苦學するなら、宜し獨立獨行、他人の御世話にならず、他人に迷惑をかけず、自分で職業を見出して、充分やり遂げる决心で出京するがよい、一身を睹してかゝれば、ドンナ山奥の人にでも、都會にはそれ相應の職業がある、それ丈けの勇氣があり覺悟があつて、まづ衣食丈け自分でやつてゆける人なれば、修業の手段方法については、私に出來るだけ助けも爲やう、力にもならう、最初から衣食の世話迄は、私などには到底出來ない。
 東京府主催美術及美術工藝展覽會を上野に見た、一番振つてゐるのが日本畫、次は寫眞で、工藝品も見そぼらしいが、酉洋畫と彫刻は、ほんの申譯だけに薄暗い部屋に列んでゐる。水彩畫の出品に十餘點もあらう、格別評するほどの物もない。文部省の展覽會へ玉葱を出品し、白馬會に卵子を出口して、忠實なる靜物畫家として知られた柴田節藏氏は、こゝにも二點の靜物畫が出てゐる、進歩か退歩か、私にば前に見た時ほどに感興が起らなかつた。竹内久子嬢の鴨はよい、樂器は一段劣ろやうだ。
 洋畫は何故に振はなかつたか、それは時期の惡いのと、府の當局の失策とが原因であらう。五月には白馬會が開かれる、殆と時を同ふして、同一の建物内に太平洋畫會の展覽會がある、此二つの會は、現に吾國に於ける兩大關で、技術の上では飽迄競爭せねばならぬ、會員は銘々自分の會へ立派なものを出す義務がある、それで、會の有力者は相警めて一枚も出品しなかつた併し、若しも府の當局が、早くより準備し、作家とも相談して此計畫をやつたのなら、少しば繪も集まつたらうが、陳列する處さへ出來れば、繪は何時でも集まるものと考えてゐたのが大間違で、佳い繪といふものは、右から左と左樣に手易く出來るものではない。

この記事をPDFで見る