歌川廣重傳[三]


『みづゑ』第六十二
明治43年5月3日

 同十二年、四月廣重獨行、甲斐に赴き、山間の奇勝を探り、十一月江戸に歸る。
  按するに、廣重が京師に赴きし時の旅日記に、既に某の有とな りたり、其の他に諸國に遊びし時の日記ありし由なるが、今 其の所在詳かならず、惜むべし、傳へて其の家にあるは、僅 に甲斐、安房、上總に往きし時の日記のみ、甲斐の旅日記は、 天保十二年四月二日より始まり、廿三日に至り中絶し、同年十一月十三日より再び日記して、廿二日に至りて終はる、文 長ければ、略して載すること、左のごとし、
  (上略)四日晴天 野田尻を立て、犬目峠にかゝる、此坂道富 士を見て行く、座頭ころばしといふ道あり、犬目峠の宿しか らきといふ茶屋に休む、此茶屋、當三月一日見世ひらきしよし 女夫共江戸新橋者仕立屋職人なりとの話、食客一人、これも 江戸者なり、だんご、桂川白酒、ふじのあま酒、すみさけ、 みりんなと賣る、見世少々きれいなり、犬目より上鳥澤まで 歸馬一里十二町乘る、鳥澤にて下り、猿はしまて行道廿六町 の間、甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流 れ、清麗なり、十歩二十歩の間にかはる絶景、言語に絶えた り、拙筆に寫し難し、駒はしまて十六町、一谷川を右になし、 高山遠近につらなり、近村の人家、まばらに見えて、風景たぐひなし、猿橋向ふ茶屋にて、畫食、やまめの焼びたし、菜びたしなり、大月の宿、富士登山の追分あり、右へ行て坂を下り、大なる橋あり、谷川流れすさまじく、奇石多し、岩石そびえ、樹木しげり、四方山にして、屏風を立てしごとく、山水面白く、また物凄し、此大橋朽損じて、わきにかりに掛しと見える橋あり、これを渡りて道左右に分れあり、がてんゆかず、聞くべき人家もなく、往來もたえてなし、途方にくれて、しばらくたゝずみゐる、しばらくして山中より材木を背負ひ來る人にきゝて、下花咲に至り、又繩手を隔てゝ上花咲に至り、休む、かしくといふ茶屋なり、初狩の手前にて休む、江戸品川の人四人連に逢ふ、上初狩宿はづれに、茶屋あり、だんご、四本食ふ、この所の女房、甲府八日町の生れにて、江戸へも行きしとなり、且珍敷茶釜にて茶を煮る、白野宿へ一里、天神坂を越えて、宿へ入る、夫よりよしが窪といふ所あり、此に毒蛇濟度の舊地と記せし碑あり、一町程のほりて、百姓勝左衛門といへる者の家に立寄り、休み、右毒蛇の由來を尋ぬれば、奥より老婆出で物語る、昔此所に、小股左衛門といふ大百姓あり、其の娘およしは、至て美女なれども、心あしく、けんどん邪見にて、つひに蛇身となり、其頃此邊に大沼あり、よなよな出でゝ里人をなやます、親鸞上人來り給ひて、これを教化し給ひしより、此憂止みしとなり、小俣の家今にありて、二里程わき、今澤といふ所の一向宗の寺より、右の縁記を出だすよし、此老婆七十七八にて、去年信州善光寺より江戸見物、江の島・鎌倉、大山へ参り歸るよし、尤も一人にて歩きしなり、其外いろいろ物語る、粉麥の燒餅を馳走になる、此所を出て、黑野田宿、扇屋へ行く、斷る故若松屋といへるに泊る、此家古今きたなし、前の小松屋に倍して、むさいことにいはん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれどもほこり埋み、蛛の巣まとひしやれあんどん、かけ火鉢一ツ、湯呑形の茶碗のみ、家にすぎたり、黑野田泊、料理獻立、
  皿(めざしいわし四ッ)汁、平(わらび、牛蒡、豆腐、いも、飯、皿(牛蒡さゝかし、醤油かけ)汁、平(豆腐、赤はら干物)飯、此日江戸品川の人三四人と度々出合、少々はなしする、きざあるゆゑ、はづす。
  五日晴天、黑野田を立て、さゝご峠にかゝる、半分程のぼりて休む、江戸男女姉弟連、遠州掛川の人、男女三人づれ、甲州市川在、禪坊主と俗一人にあひ、ものいふ、夫より又のぼりて、矢立の杉、左にあり、樹木生茂り、谷川の音、諸鳥の聲いと面白く、うかうかと峠を越えて休み、下りにかゝる、
  行くあしをまたとゞめけり杜鵑
 鶴瀨を宿を過ぎ、細き山道十三町行きて、つるをの番所を通る、女は切手あり、此町にて飯喰ふ山うど煮付平なり、夫より横吹といふ原へかかる、此邊より江戸講中一とむれと連れだつ、右に山にて、山の腰を行く、左に谷川、高山に巖石そぴへ、樹木茂り、向ふに白根ヶ嶽、地藏ヶ嶽、八ツヶ嶽など、高峰見えて古今絶景なり、こゝに柏尾山大ぜん寺といふ寺あり、門前に鳥居あり、此邊よりさき、勝沼の邊まで名物葡萄を作り、棚あまた掛けあり、かつ沼の宿、此町ながし、こゝにて江戸連中と共に、常磐屋といふ茶屋にて、仕度、玉子とじにてめし、飯安し、江戸ものは、横道にはいる、此茶屋出ると、又江戸姉弟と、市川の人にあふ、此道連甚だ面白し、夫より栗原を過ぎて、田中といへる所、ここに節婦之碑としるせる碑あり、昔亨保十三已年、此所に洪水ありて、一村難儀におよぶ、此の時安兵衛、阿栗といへる夫婦の者あり、安兵衙癩病を煩ひ、其母も病に臥し、家貧くして難儀なるに、妻おくり僅のあきなひ、或は袖乞して、夫と姑を介抱せしに母はすでに空しくなりぬ、安兵衛申けるは、とても全快はかりがたく、此世にて人交りなり難きごう病なれば、川に入りて死すべし、汝は子もなく、年も若ければ、ながらへて、他縁付、身を全ふすべしといふ、妻聞き入れず、此家に嫁してより、生きて爰を出でんとおもはず、兎ても覺悟を極め給はゞ、我も共に死んとて帯にて二人の體を巻き、洪水に飛入て死す、此事上聞に達し、公より節婦之碑といふ印を御建て下されたる由、夫より石和の宿に至る、入口の茶屋に、江戸講中大勢休み居る、殊の外にぎやか、こゝにて燒酎一杯、うどん一ぜん喰ふ、江戸姉弟の道連は、淺草にて梅川平藏、阿仲をよく知る人なり、勝沼より此邊、平地にて、道至てよし、夫より繩手を越えて甲府の町にとりつく、こゝに酒折宮といふ舊跡あり、柳町より連にわかれて、七ッ時分、綠町一丁目、いさや榮八殿宅に着、此日入湯髪月代す、是より伊勢屋に逗留。
 六日晴天 朝、かひや町芝居へ行く、狂言伊達の大木戸二幕見物、用事これあり歸る、幕御世話人衆中に對面す、酒盛あり。
 七日晴天
 八日晴天 朝、荷物到着、幕、霞の色漸きまる、世話人衆中竹正殿、萬定殿、岩彦殿、福勇殿、辻仁殿、岩久殿、村權殿、松彌殿、川善殿、鳴太殿、夜吉岡舎龜雄大人來る、長物語。九日晴天 細工所きまる、書過より芝居見物、狂言いろは四十七人、中幕(觀通帳の學ひは、萬屋を壽きて)安宅問答契情阿渡の鳴門一とまく、打出し、夫より町々ぶらつき、一蓮寺へ行く、境内稻荷、天神、其外末社あり、土弓場、料理茶屋などあり、恩光寺まへ料理屋にて、夜食、常さん御馳走になる。(按するに、細工所は幕を畫く場所なるべし、廣重もまた三世豊國のことく時として、畫をかくと言はずして、細工すといひたるものか。)

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