春季展覽會の水彩畫

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十三
明治43年6月3日

 ロセッチは、ラスキンから資金さへも貢がれたといふ、其恩人にしてしかも大批評家たるラスキンが、自分の繪の短所を擧げて公にしたといふので、終に絶交して了ふたとの話である。ロセッチの如き大畫家すら、猶自己の作品に對して悪聲をきく事を好まない。私はラスキンではないから、こゝに何といふたとて、格別氣にする作家もあるまいが、繪の批評をするといふことは、あまり容易のことではない。
 ある人は、自分の製作を褒められてから、大さう其人が好きになつたといふ。愛されたり好かれたりするには、母に向ふて其兒を褒めるやうに、作家に向ふて其繪を褒めるに限る、これは少なくとも、敵を作らぬ賢い道であらう。
 不幸にして私は、この賢い道を執るべく、私の良心はそれに満足をしてくれない。私は左右を見ずして、私が感じ、思ひ、考へた事を、正直に述べたい、これが常に私の批評的態度である。
 上野公園に於ける昨今は、實に人工的の春である。太平洋畫會白馬會、両會を通して、陳列せられつゝある繪畫千有余點、西洋畫に幾分の趣味を有する人は、是非一見されたいものである。私はいま、其内の水彩畫について所感を述べやうと思ふ。年々歳々、各自の製作に於て進歩し發達しゆくに不拘、私の批評眼の甚た鈍く何等新意の見るべきものなきは大に恥づる處である。
 太平洋畫會作家四十七人、點数百八十、やゝ嚴なる鑑別を経て陳列せられたものであるから、部分的の缺點は何れもあらうが、繪として恥かしからぬものゝみである。其内には日本水彩畫會に研究中の人々の作も多數を占めて居つて、月次例會に於で見た繪もあり、鑑別の際にも一通りは見たから、いつもよりもやゝ正しい批評も出來やうかと思ふ。
 鈴本錠吉君の出品三點のうち、『深山の奥』は昨年夏の作で、際立つてよい處もないが、格別短所もない、無事の作といへやう、『両國橋の朝』は失敗と断言したい、光りの統一が欠けてゐる、全體が和らか過て、物質が充分に出てゐない、橋上にかゝつてゐるのは、煙りか雲か曖昧である、繪の一局部だけにはよい處もないでもないが、鈴木氏從來の特色を失ふて、繪に締りの無くなつたのは遺憾である。
 岡田武彦君の作の特色は、グレーの色調にある。デッサンの確かな點にある。其グレーは快よく自然の感じが出てゐる。形に於て確かな處のあるのは、平生の修養が思はれて頼母しい。『風吹く日』は石井君のやり口に似てゐる。
 大橋正尭君の『初夏の鎌倉』は、少し拵へ過ぎたやうに思はれて私は好まない、暗い森が前へ冠さつて、下の方が弱い、色調にも變化が乏しい。これに反して『天城山麓』は、構圖も大きく、また其大きな感じも充分出てゐる、深味もあり、前景もよく纒まつてゐる。遠い處を日蔭にして、前を明るくしたのもよい、暗い山の皺がも少し目立たなかつたなら、一層よからうと思ふ。『冬の湯ケ島』は、枯草山の圓味が見えない、前景が締らない、併し中景は巧に畫かれてある。
 磯部忠一君の『幽渓』は大作である。態度も親切であり、忠實によく物の研究も出來てゐるが、構圖に於て私は大に不賛成を唱へたい、左の方に重くして右の上部は閑却されてゐる、下の雜草や石や水や、そのあたりが狹く窮屈で、もう二三寸も紙が欲しい、右の隠れた山が頂き丈けでも現はれたなら釣合がよくならう、せめては霧の中に枯木でも一本欲しい、寧ろ私は右の三分の一を切去りたいと思つた、白樺の木は面白く書かれてあるが、少し硬いといふ批難は免れまい、下草は色が単純に過ぎる。『湖畔の朝』は、スケッチではあるが、夏の湖畔の朝の心持がよく出てゐて嬉しい。『公孫樹』は繪としての艮否は知らぬ、奇抜な構圖、簡潔な描法、樹木と地と雲との線の配置がよい、私は恁うゆう繪も好きである。石井柏亭君の繪は、例によつてフレッシな感じがする。君は常に畫くべき場處によつて、畫くべき材料の相違が無くてはならぬと主張されてゐる。從つて君の繪には、水繪に適するやうな場處が選ばれてある。そして今度出てゐる繪は、多くは短時間の寫生のやうであるが、短時間で仕上りさうな場處が巧みに捉えられてある。厭味の無い色、ラクな筆使ひ、私は常にそれ等の點に敬服してゐる。
 『三本木』は、君の作のうちで私の一番好きな繪である。鴨川べりのローカルカラーも充分見える、横の直線が多いに不拘、色調の變化のために苦にならない。これに次いでば『げんげさく野』がよいが、牛はまづい。『房州布艮』は稍大きな繪で、色調は面白いが構圖が氣に入らない。『晩春』のやうな圖は、私には畫く氣になれ怠い。『字治河畔の夕』はバアナードリーチ氏が褒めて居られたさうだが、空や草屋根は結構であるが、下の方は感服しなかつた。
 阪本繁二郎君の風俗畫二面、取材も色調も描き方も氣に入つた。『通行』電燈の光も其趣きがある、花は紅過はしまいか。『見世物』は人物の表情が巧に畫かれてゐる。
 望月省三君の作では『ゆく秋』は氣持がよい。構圖の巧なのも此繪をよく見せるが、黄を多く含むだ愉快な色が、この繪の生命である。否この繪はかりでなく、君の作には多く此色がある。『初秋の朝』は骨の折れた繪だが、木の影の色がたゞ暗いばかりで、何等の含蓄がない。『癈驛』は大膽な落筆をとる。
 吉崎勝君の『観音堂』は、切取方がよくないので奥深く見えないが、確りと重い處があつて、このやうな場處を寫すに適當な書風といひたい。色に愉快な處もないが、賤しい處がない。『うすび』はよく観察はしてあるが、少し畫き過ぎた様である。
 夏目七策氏は、人物及静物の出品がある。『姉妹』は姉よりも妹の方がよく畫けてゐる、妹より座蒲團がよい。君は静物を深く研究された結果、個々の物質を現はすことが頗る巧である、同蒔にかゝる組立繪にも、部分々々に驚くべき技巧を認めるが、さてそれが統一されて、一枚の繪として見た時に、物足らぬ感が起らぬでもない。煙などの細かく畫いてあることも、弊として數へてよいであらう。
 『北窓』は足の位置がイヤだが、他は批難がない、障子の破れに上から紙が貼つけてある處など、前の畳と別様な意味に於て、徒爾ならぬ注意であらう。『静物』は同種類の水彩畫中第一に推すべきものでもる。
 河合新藏君の作では、『白樺』よりも『林道』の方を取りたい、但この繪には、何千尺の山中といふ感は欠けてゐる。緑の色は少しく単調の嫌があるが、水々して汚れない心持は、他の作家の企て及ばぬ處がある。
 吉田藤尾君の作は、女性の取るべき適當の場處が畫かれてある、二面共美しい優しい繪である、今一層繪に奥行が見えたらと残念に思ふ。
 吉田博君の出品は澤山ある。書かれた場處も、雪の山、瀧、谿川、渡頭、春、秋、及ひ鳩など、多方面であつて、とりとりに君の特色が見える。『鳩』は大作である、六つかしい題目をよく纒めたと感心はするが、缺點もないではない、背景はよいとしても、此廣い處へ子供たゞ一人は不自然にも思はれる、鳩は硬く、地面の日蔭の色に黄が多く含み過ぎてはゐまいか。『瀑布』『激流』など、舶來の版畫を見るやうだと評した人があつたが、私も幾分同感の意を表したい、これ等の繪は、自然から來る率直な印象でなくて、吉田君の個性が現はれ過てゐるやうにも思はれる、私は『残雪』や『曇り日』のやうな穏やかな繪が好きである『夕ぐれ』『渓間渡頭』何れも君の才筆を窺ふに足るべく好もしい繪である。
 水野以文君の給には、ニユートラルチントのやうな寒い鼠色が多く用ひられてあつたが、今度の出品のうち、舊作『雨模様』の空や地面に、その色毎見るけれど、他の作には漸く跡をたつたやうである。『夕』は一番よい心持に畫かれてゐる、新緑の和らかな氣持も出てゐる。『習作』と題丁る少女の像は、色が穢ない。
 丸山晩霞君は、昨年來多忙のため製作も殆どなく、僅かに『森』一點を出された。ある人は樹木の行儀よく並んでゐるのを批難されたが、深林としてかゝる場所は少なくない、それよりも全體が版畫じみて、あまりに隅迄筆の届き過ぎてゐるのはどうかと思ふ、兎に角傑作と推すことの出來ぬのは残念である。
 藤島英輔君はやはリスケッチがよいやうである。『山湖』の如きは、手際よく塗られてあるといふだけで、活々とした自然の感じは見られない、前の黒い林も、たゞ黒いといふまでゝ、單調である。君の作では『會堂』が一番心地よく感ずる、横濱山手といふ特色も充分見える。
 榎本滋君の『?泉場の春』は、あまりに紫色が多い、渓川の水は流れてゐない、添景の鳥の配列は、距離が同じ位ひで、殊更に置たやうである、要するに注意が足りない。
 織田一磨氏は今年は一向振はない。三點のうちでは『紀の國坂の曇り日』がよい。畫面の底部に、こちらの土手を僅かに見せたのは面白くない、曇つた日の水つぽい調子は嬉しい。
 相田寅彦君の作には、古雅な亀があつて、技術も巧みである。『夏』は墨つぽくつて、たゞ達者に畫いてあるといふだけである。『さびれ』は、場中の水彩畫か通じて傑作の部に入れたい。構圖が面白く、調子がよく、色がよく、三拍子揃つてゐる。松山忠三君は、昨年に比して大に進歩された。『装ひ』はパックは悪いが、人物はよい。形も割合に確である。色の配置も統一がある。『栂の森』は、山中の空氣がよく現はれてゐる。『男體の麓』の人物は、位置がトーかと思はれる。
 中林?君の作を通じて、私の缺點と思はるゝのは、コバルト色のあまりに多いことである。『假橋』の石の蔭など殊に目につく。『高原』にも『夏の緑』にも此色がある。『高原』は熱心に畫かれてあるが、構圖が無意味である。『御嶽』は高山に於ける夏の心持がよく出てゐて、其描法も力強く、かゝる場處を寫すに適してゐる。空の研究がやゝ不充分なのは遺憾である。
 八木定祐君の『きさらぎの末』は、可なり骨の折れた作ではあるが、感服しかねる。一體水繪でも油繪でも、大きく畫かなければ充分感じを現はすことが出來ない場合なら知らぬこと、此場合の如きは、半分の謁幅でも充分である、今の時代は、由画幅の徒らに大なるよりも、小さくともよい繪を要求する。此大幅に注くだけの努力を、半分のものに注いで貰ひたかつた。『麓の村』は、冬の淋しい光景もよく、背景の松の色の、含蓄多きは、特に此繪の價値を増さしめたやうである。
 赤城泰舒君の作では、『午後四時』が人の注意を惹く。暖かい黄色に對する、薄紫の寒い蔭の色の配合は悪くはない、大體に於てよい出來榮である。夕月の、空よりも前に出て來て見えるのと、車の形の幅廣く見えるのとは、此繪に於ける白壁の微瑕であらう。『高原の夏』は大作である。山や、草原や、前景の線の上に、言ふべき事もないではないが、高山によく見る夏雲の力ある表出、平原の強い色、共に充分現はれてゐる。かゝる繪によく忘れられ勝の、遠近の調子も可なり注意されてある。場所抦でもあるか、繪が素直に出來てゐずに、苦心のあとの明らさまに見えるのは、缺點とすべきであらう。『神田川』は、遠景もよくない、前の水も動いてゐない、蔭の形も無意味である。中川八郎君は僅かに二點、『伊豆の海』は好もしくない。『舞子の濱』は、構圖色彩共に可、海の水平線、松原、海岸、道路等、横の線の多きに拘はらず、よく調和してゐるのは、一に明暗の調子を巧に捉えたためであらう。暗き松に配するに、明るく輝いた海を現はして、こゝに觀者の注意を集め、往來の人馬の如きは、邪魔にならぬ程度に畫いて置た作者の手腕は、大に學ぶべき點である。
 眞野紀太郎君は、久し振で其美はしき作を公にせられた。繪の調子の輕く薄いのは、かゝる壇場に於ては大に損である。『シネリア』は花も葉も申分がないが、バックが暖かく重過る。『白薔薇』は、下の方に纒りが足りない。併し何れも美しい。
 船樹忠三郎君の『棕★』は、巧まずして眞面目に畫いた點をとるかゝる種類の繪は、一見した處で格別の刺激も受けないが、いつ見ても快よいものである。
 白馬會
 この會に於ては、作家二十四名にして作品五十六點を見る。由來白馬會は、これ迄多くの水彩畫を見なかつた、今回は作家も作品も非常に増して來た、乍併、たゞ數の殖へたといふだけで、實質のプーアなるは残念である。水彩畫は太平洋畫會の特色の一なりとの世評をして、一日も早く意味なきものならしむるやう、私はこの會の作家に囑望するのである。
 かく言ふと、侮辱したやうにもきこえやうが、この會に陳列された水彩畫のうちには、地方の中學生すら、他人に見せるを憚るほどの、粗末な不眞面目の作の澤山出てゐるのは、どうしたものであらう。評者は、かゝる作家にも相鷹の敬意を拂いたいが、これでは、作家が今の觀覧人を軽蔑してゐると言ふことも出來やう、白馬會にても多數の中から鑑別して陳列したときいてゐたが、水彩畫だけは除外例でもあつたのではあるまいか。
 この中に在つて、やゝ異彩を放つてゐるのは、南薫造君と湯淺一郎君の作である。中澤弘光君の老熟せる技倆は、こゝに言ふ迄もない、たゞ小品のみにて、數年前のやうに骨の折れた作を見ることの出來ないのは遺憾である。
 柴田節蔵君は、『林檎』と題する静物畫を出してゐる。碌々たるものゝ中では、一寸群を抜いてゐる。林檎は少し硬いが、正直に畫いてあるのはよい、奥行もよく見える、この上に繪としての面白味といふことに注意されたいと思ふ。
 川名傅君の『教會』は可なり纒まつてゐる、大タイの調子も整つてゐる、夕陽の空の木の葉の問からすけて見える處が不充分で、何かオレンヂでも生つてゐるやうに感せられる、家根の上を黄なる色でボカしてあるのは、小刃細工に過ぎない。
 南薫造君の作中では、『ウインゾー』『テームス河畔』の二點が優れてゐる。前者はよくローカルカラーが出てゐる。樹もよい。芝草もよい、空が殊によい。後者も巧まずして感情を遺憾なく捉へてある。他の諸作はよほど劣るやうに思はれた。
 湯淺一郎氏は、外遊前より時々水彩畫に筆を執られた。一昨年の文部省展覧會に見た一點の水彩畫は、調子のキツイ快活な面白い繪であつた。此方面のお土産も澤山あらうと想像して居つた。果して澤山のお土産はあつたが、満足すべき作の尠なきには、多少の失望を感ぜないでもない。多くスペインに於て寫生されたもので、強烈な色彩の對象の上に、其面白味を見出すのであるが、建物の日光を受けた輝きが、光りを含むだ色に見えなくて、総具の色になつてゐるのは映瀦といふことが出來やう。君の作中では『タホー川』が好きである。君の作は一二枚見るによく、澤山見ると感興がなくなると、或人は言つたが、同一作家の手になつたものは、たとへ場處が違つても、季節が違つても、どこか共通の點があるから、澤山見たら面白くなくなるのは當然であらう。併し、中には澤山見ても面白い繪をかく人もある。寫すべき場所によつて、畫き手の心持を變へるといふことは、其製作の結果に影響することは少なくはあるまい。
 以上、原稿締切の期が逼つたゝめ、讀返しもせで其儘印刷所に廻すのである。作家に對し、言の禮を失ふた處もあらう。妄評罪を侯つ。(五月二十四日)

この記事をPDFで見る