櫻の宮に紙治の墓

山崎紫紅ヤマザキシコウ(1875-1939)

山崎紫紅
『みづゑ』第六十三
明治43年6月3日

 大阪ステーシヨン前のある宿屋で一夜を明かした、來月は電車の爲めに取壤つのだいふ、古い建物の上に、さういふ覺悟のある家だから溜まらない、何處もここもがたぴししてゐる、夜もすがら往き來の汽車の音に、加へて拂曉からチリンチリンと電車の音が激しいので、急いで床を放れてしまつた。
 ここで人を待つてゐるのだが、まだやつて來ない、旅へ出ての一時間を空に過ごすのは詰まらないと思つたので、車かを頼んで櫻の宮のお花見と志した。
 狹ひ、古い町を通越して、澱河橋の畔に出た、淀河に架けた橋で、有名の天満橋の上流にある。右は造幣局の構内で、昨日までは公衆の通行を許したといふ、河の邊に小さな櫻が行儀よく並んでゐると云つたゞけで、我等には美くしいなんていふ觀念を、些少でも持たせてはくれない。こんなものを造幣の花見だなんて嬉しがつでゐるのは氣が知れない、いや氣の知れないやうになつてゐる大阪人がかはゆさうだと思つた。
 橋を渡つて櫻の宮へ行く、堤燈をぶら下げて、白い切れの日除を張つた掛け茶屋は、所狭きまでに並んでゐるが、肝心の花はと間へば、一昨日植ゑたとでも、云ひさうな稚木が七八本、へえ!これが櫻の宮と、大きに呆れた次第である、これから見ると先月明治座の「天下茶屋」の芝居で見た櫻の宮の方がよほど美くしいものだつた。
 車夫は下ろさうかといふ、客はなに此儘でいいと云ふ。車の梶を取直させて網島の大長寺へ行けといつた、車夫は二三町にしてここだといふ、出來上がつたばかりの立派なお寺だ、こんなに新らしくはない筈だ、小春治兵衛のお墓を見に來たのだぜ。
 なんでも河に近い景色のいい所だと聞いてゐると云つたら、去年の暮に引越した、お墓も一緒に引移されてゐるとの事だ。いやだ!いやだ!引越したお墓なんぞ見せられてたまるものか、こいつも見ないで、歸らうぜ。
 「そないにどもあかんな、以前の土地は藤田はんが買ふてな」と、さすがに氣の毒さうな顔かして車夫は私を見守つた。
 私は藤田の宏大なる別荘の周圍を走らせながら、近松によつて有名になつた市井の匹夫賤女の墓碑が、富豪藤田某の爲めに湮滅に歸せんとするものを見て、一種の情に拍たれた、文部省の役人は嬉しがつてゐやしないかとも考へた。
(四月十八日

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