三脚物語 第五回

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第六十三
明治43年6月3日

 こないだは寄居へ往つた。若い人達も交つてゐたので、朝は四時ごろから引張り出されて、一日硬い石の上に置かれ、少々參つたが、いつもの獨り旅の淋しさに引かへて、面白い話もウンと聞いて置た、段々諸君の御目にかけることにしやう。
 主人は太平洋の展覧會で、近頃轉手古舞をし爲てゐるが、御蔭様で僕は至極閑散だ。閑散だからといつて、寢てばかりゐては、この日永に退屈でもあるから、時節柄太平洋畫會の先生方の御噂でも少し饒舌つて見やうか。
 御噂といつた處で、先生方とは一しよに旅したことも少ないから、いづれ又聞きや風の便り位ひの處で、正眞正銘所謂お噂に過ぎない。表面丈けの御披露では根ッから面白くも變哲もなし、あまり素つば抜くと主人から御目玉を喰ふかも知れない、困つちやッたなア、まア大概の處で御免を蒙つて置け。
 巨匠俊傑雲の如く、あまり澤山でどなたから鎗玉――オットそんな意味ではなく――此席へお招き致してよいことやら、迷はざるを得んね。まゝよ、起つてゐて眼をつぶつて二三度廻つて倒れた方を先にしろ。
 高村先生
 近頃パステリストと申上たい位ひ、パステルを熱心に御研究中の先生は、御名を眞夫と申上げ、越後の國は長岡の出生、御年はまだ若いが、額が少々光るのでちと御損な質だ。御當人は二十歳ダイに見られたい御希望だが、ソレは無理だね。快活此上なし、宴會でもある時、此先生が居ないと座が淋しい。眼鏡に八字髯、風采も悪くはないね。田端の方に住んでゐても、中々の通で大森の砂風呂か同人に紹介したのも先生だ。追分の御上手なのも先生だ。御酒も可★りゆけて、醉ふと罪もなく其儘寢ちまうのも先生だ。先生はまた學者にあらせられて、メランコリーだとかフランケットだとかいふやうな外國語もよく御話のうちにまじるよ。令夫人は若くして美、まことに羨しいね。
 先生が肌身を放さぬ一枚の新聞紙がある。これは何も此新聞に先生の事が出てゐるといふのでもなく、欲しい書物の廣告があるといふのでもなく、勿論美人の爲眞が載つてゐるといふのでもない。たゞある時に入用があるので、知る人ぞ知るさ、まアこの位ひの處で敬意を表して置かう。
 モデルが來てから漸く起きられるいふ先生のことだから、御訪ねするには、朝の十一時前はダメと心得た方がよからう。
 岡先生
 高村先生よりも、先に生れてゐるのに相違ないか、却てお若く見えるのは、巴里歸りの型を崩さずに、いつもキチンとしてゐられるからだらう。誰れでも外國から歸つた當座は、髯も一日置くらひに剃るし、髪も毎朝分けるし、洋服の塵も拂ふし、靴も光つてゐるがね、段々それが面倒になつて、終にはアッチの美術家はそんな事に構はないなンて、例迄擧げて却て行かない前よりも不禮裁になつちまうンだが、先生だけは別物だ。毎週土曜には、小石川の研究所へ來られるが、雨が降らうが風が吹かうが、キチンキチンと見えられるので、生徒は大喜びだ。
 煙草は金口か何かを盛んにめし上るが、御酒はいけない。眞面目の方だが、よくこんな方に隠し藝なンかあるもンだ、一度拝見したいね。
 新海先生
 太平洋で、目方の輕い人は岡先生、満谷先生、丸山先生、渡部先生など、其最たるものだが、大きい方で新海先生に及ぶものはなからう、丁度去年の展覽會に出た『原人』のやうな體格で、酒をやめてからも二十貫はあるといふンだ、倉田先生は肥つては居るが背が足りない。そこで先生は、時には美人やヤサ男も作らないこともないが、多くは自分に似た『原人』だの『強者』だのといつたやうなものを彫られる。
 先生はヅー體――オット失敬――も大きいが、態度も寛厚で、先生が居ると心丈夫に思はれるのか不思儀だ。芝居も好きだ、相撲も嫌いぢやアない、音樂も結構だと、何にでも趣味を持つてゐられるが、書物を讀むことがその中で一番御好のやうだ。
 先生も一時は燗徳利を七八本も倒したもンだが、醫者にとめられてから廢めた。それでも、ピールならよからうといふので、半ダース位はいつの間にか空になる事もあるさうだ。
 中村先生
 大名津々浦々に響いてゐるから、今更こゝに言ふ迄もないが、生國は信濃の高遠、髪も髯も黒々と、ガツシリとした四十男で、意志の強固なことは、其風采によく現はれてゐる。油繪のほかに、日本畫でも、書道でも、各方面に一家を成してゐる。理屈も上手なら、文草も達者だ、コヂツケも少しはやるらしく、先生と喧嘩をしたら、まづ最後は負けと覺悟をしなくつちやアいけない。巴里に居た時、参考書を買ふため、一度や二度は飯を抜きにしたなンて噂もあつたが、それは嘘としても、随分やり兼ないくらひ藝道には熱心だ、『憐むべし吾輩の畫室』とか何とかいつたやうな、先生の油繪を見たのは、十五六年も前たが、其繪て想像しても、當時は實際憐むべきもンだつたらうが、忽ちにして一世に名を流したのは、實に先生の意志の力だ、勉強の結果だ。その時分の作に、『人間此高音を知らず』といふのがあつた、廻廓に天人が樂か奏してゐる處で、美しいもンだつた、今でも覺えてゐるよ。
 先生は洋食嫌いで、巴里に居ても常に日本飯ばかり喰つてゐられた。漬物が御得意で、部屋の隅の甕に、煉瓦が二ッ三ッ押しに載せであつたつけ。太平洋の月次會の場處が、西洋料理屋だと、僕は蕎萎だとか鮨がいゝとかいつて、皆ンながナイプをカチャつかしてゐる中で、ゾロゾロとざるそばを啜り上るのは奇觀だ。
 先生のお宅へゆくと、いろいろな法帖を四五十册も出して來て、書道の講釋が始まる、一通り見ないと承知しないので、大テイの人間は参つちまウさうだ。
 小杉先生
 丈夫さうで其實弱く。五角な顔をいつも蒼くして、元氣でありながら氣の小さい、江戸子風なガサツな處があつて、田舎じみた句調も時には混る。警句が達者で漫畫が上手で、意匠が飄逸で、文章が馬鹿に旨く、俳句は得意だ。素人相撲では關取格で、近頃痛快畫家の奪稱を受けたのは、實に吾が小杉國太郎先生其人だ。號を未醒といつてゐるが、ナニそんなに始終醉つてばかりも居ないやうだ、憾むらくは才人病多しかネ。
 鹿子木先生
 先生は岡山産れて、米の生る木はまだお存知ないさうだ。由來岡山は洋畫家の産地で、北人の舊師原田先生、高等工業の松岡先生、太平洋では、満谷先生、大橋先生、大阪には松原先生が居るし、萬朝には徳永先生が居られる。此ほかにまだ澤山あることだらう。
 先生は、遠慮のない處あまり美男子では在さないが、性來一片の侠骨、よく人から敬愛を受けられるさうだ。先生はまた、一面豪放で、十年前彦根の中學に教師をしてゐた時分、京都へ往つて遊んでゐるうちに、歸りの汽車賃が無くなつちやつた、頗る窮したが、歩行て往ける道程ぢやアなしといふンで、友達から金を借り、白切符を買つて傲然と乗込んだ迄はよかつたが、辨當を買ふ金も剰つてゐないのて、空腹を抱へてやつと歸つたといふ話もきいた。
 先生は不倒といふ雅號を持つてゐられるだけ、中村先生に似て中々意志も強い、近來日本畫にも筆を執られるさうだか、此邊も不折先生に似てゐる。
 重ねて曰ふ、先生は决して美男子ぢやアない、其御容子は随分氣の小さい女子供を脅かすに足るが、御愛兒は非常な傑作だと、專らの評判だ。
 荻原先生
 惜しいことをしちやつた、まだ三十だいの若盛りを、櫻の花と一しよに吹飛ばしちやつた。先生のことは、この頃新聞に詳しく出てゐるから、今更僕がおしやべりをする迄もない。随分苦學をした人て、十餘年前巣鴨の明治女學校の構内に居た時は、タツタ一坪半の家で、一畳が土間、一畳が押入、あとの一畳が自分の居る處で、夜分は押入へ寝たさうだ。アメリカへ往つてからも可なり苦しんで、ニユーヨークで金を溜めては、巴里へ勉強に往つたンださうな。歸つてからも、淀橋へ粗末なアテリーをこしらへて、そこに一人で寝起をしてゐた。
 髪毛の房々した、髯の無い、色の白い、活々した顔、丈の短かい着物の膝のあたりを、ちよつと摘まんで、毛臑を現はして、紺足袋に麻裏草履、帽子も冠らず、暢氣なことを言ひながら歩行いてゆく姿が、まだ目に見えるやうだ。先生は岡先生と反對で、アッチに居た時はドーだか知らないが、歸つてからまだ一度も洋服姿を見た事かない、平生は羽織も着ない、太平洋の宴會に紋附を着てゐたので『ドーしたんだ天氣が變るよ』と僕の主人が言つたら『今日はコレを着てゆけッてアニキが言つたンで詮方なしさ』と笑つてゐたつけ。
 先生は初めは繪をやつてゐたのだが、アツチに居るうちに彫刻の方に變つて、ロダンを崇拝してゐたが、このごろまた繪をかき出した、面白い繪が出來てゐた。
 先生は非常な苦學をしたのだが、苦學ばなれがしてゐる。あの快活な顔を見て、あの暢氣さうな様子を見てゐると、ドーしても順境にやつて來た人としきや思はれない。その快活な句調で方々へ牲つちやあ悪口を叩いてゐるが、言ふことにちつとも毒がないから、言はれる方では却つて面白がつてゐる。
 ほんとに惜しいことをしたもンだ。
 中川先生
 温厚な君子、畫家らしき人、何かの集會があつても黙つてゐるおとなしい方だ。熱くもなければ冷たくもない、温つたかい方だ。僕は先生の三脚君とは、實は古い御馴染があるンだ、その事を話さうか。
 もう十四五年前のことだ、僕は主人のお供で入間川の奥原市場といふ處へ徃つた、丁度秋のこッて、あろ朝川岸の草の上に蹈張ってゐた、主人は頻りに筆を動かしてゐる、すると道具を擔いて背後に立つで見てゐる若い人があつた、主人は知らずに畫いてゐた、繪が出來てから上流へ徃つたら、樹の茂みの中で寫生してゐたのは、さつきの若い人だ、主人と話が始まる、若い人は不同舎だといふ、今居る宿屋がいけないといふ、こつちへ越して來たまへといふ、そんな事から、其晩中川先生は主人と同宿になつた、僕も先生の三脚君と友達になつたンだ。
 宿屋には碁盤があつたが、碁石が足りない、そこで翌日、主人は河原から、白い石黒い石の小さな奴を、五六十拾つて來て、何でも毎晩コツンコツンやつてゐたつけ、先生が今日でも、太平洋のうちで一番碁の上手なのは、その時分から絶えず石を持つてゐたからかも知れない。
 先生は酒は一二杯はやるが、煙草はのまない、横から見ても縦から見ても、徹顧徹尾おとなしい方た。
 石井先生
 骨相學者が、先生の頭を掴んで、此方は萬能だと驚いてゐたが實に共通りだ。本職の油繪、水彩、日本畫は油繪より可いといふ人さへある、彫刻も一寸はやつた事もある、文章も巧なら、議論も鋭い、早稻田文學の桐谷君から、太平洋畫會の論客といふ研號さへ貰つたことがある、新體詩は『スパル』で時々拝見するが面白い着眼だ。歌もやるし句も作る、短篇の小説もかく、警句を吐く、お酒も人後には落ちない。出來たものは天才的で、人物は常識に富んでゐる、實に不思儀なもんだ。
 先生は、前年頑固な眼病に艱まされて、久しく黒眼鏡をかけてゐたが、それをスッカリ退治しちやつたのを見ると、先生も中々意志が強い方と見える。
 先生はまだ奥様も持なたい。此秋外國へ牲つて、大に見聞か擴めて來られるさうだから、歸つて來たら大したことになるだらうと、皆んなが言つてゐる。
 永池先生
 前頭白髪を交へなんて説ぎ出すと、何たが老人のやうに、きこえるが、其實然らずで、お年はまだ至つて若い。茶色のお髯は中譯ばかりでも、風釆は堂々たるもンで、背の高いことも僕の主人と伯仲だ、そして僕の主人のやうにヒヨロ長ぢやアない、確りしたもンだ、風が吹いても安心だ。
 眞面目で親切で、淡白なうちに一寸恐い處もあるつて、水彩畫研究所の人達は言つてゐる、さうかも知れない、太平洋でも水彩書會でも、先生の周到な注意に俟つ處が多い。
 先生は、煙草をやつたりやらなかつたりと、いつか僕は言つたことがあるが、この頃では中々盛ンなやうた、よせばいゝなと蔭ながら思つてゐる。甘黨の旗頭と迄はゆくまいがとに角共サイドで、お酒は見向もしない。
 石川先生
 いま岡田病院の一室に横はつて、海とも山ともつかず、同人の心配の種となつてゐるが、體格から見たら病氣になど罹りさうもないのに、實際はあまり丈夫ではないと見える。先生は高松の産れで、十五六の時から繪の爲めに出京し、熱心に勉強して、今日の位置を得られたのだ。早く全快さしたいもンだ。
 僕も先生には古いお馴染だ。ヅーッと昔し、先生や眞野先生、僕の主人の三人が、多摩川の奥へ寫生旅行をしたが、宿屋で宿料の談判をしたのは先生だつた。この時分は物が安くて、一日三食二十二銭といふのだつた。其後主人が青梅に居た時、やつて來られたが、ある時、岸から河中の河原へ渡るのに、一本杉の丸木橋が架つてゐるのを、渡り兼ねて、靴を脱いて手に持つたが、中頃へ來ると、小腋に抱へてゐた傘立てが、ズルズルと抜け出して河の中へ落ちちやつた、二三間先には水車があつて主急に水が深くなつてゐる、人を頼んで探さしたが、終に知れなかつた。同じころ、日向和田へ徃つて、岩の上から河原へ渡した危ない板道が、下りられなくつて、この時も靴を腕いて、岩を傳はつたのを資えてゐる、先生は存外用心深い人だと思つた。
 日光へ徃つた時には、九月二十八日の大水に出逢つて、危なく生命を捨てる處だつた。此時も先生は可なり慌てた。素肌にドテラ一枚、それも腰まで捲くり上げて、馬返し蔦屋の土藏の傍で水の中へ三十分も漬つてゐた事があつたが、それが原因で東京でも少し煩つた。外國へ徃つてからも、熱病に取つかれた。病院に入つて手術も受けた。歸りの船の中でも、三四日寝た近頃は眼病で苦しんでゐた。其結果が今日の危篤の病状となつたンだ。一日も早く治してあげたい。
 先生は顔のテラテラと光つた方だ。其故か、光つたものがお好きだ。ビイドロを畫く、金魚をかく、磨いた大理石をかく、光澤のある花瓶をかく、景色を畫けば雨ふりの濡れた道をかく、へ物をかけば艶々とした美人をかく、何でも光つてゐなくつちやア氣に入らない、圓い光つたものもお嫌ぢやア無かつたやうだ、何でも可いから早く治して上げたい。
 丸山先生
 山登りが好きで、勝氣で、蛇が大嫌いで、冒険をやりたがつてお茶が馬鹿に好物で、朝寝が得意で、小食で、大きなことが好きで、話が上手で、氣が短かくつて、飲みもしないのに、夕飯の膳の上に燗徳利を置くので、有名なのは丸山先生だ。先生程奇抜な人はあまり無い。先生程無頓着な人もあまり無い、先生程物に熱心な人もあまりない、先生程精力の充實な人もあまり無い、兎に角経歴の上に奇談の多い方だ。
 先生は日本畫もお得意だ。密畫は實寫的で立派なものが出來る。
 若しそれ俳畫的小品に至つてはだ、ソレは奇趣横溢、一時間に五六十枚も畫き飛ばす、其手際は見てゐても心持が可い。
 好物のお茶の話は、前にも言つたが、菓子がどうのといふのでは無い、お茶さへあれば可いのだ。それで、久須の口が悪くて、茶が出澁らうもンなら事だ、自分の家の品なら、ソコラへ擲きつけちまう、宿屋のものなら手を拍いて取換させる。他人の家ではソーもならないので、ジリジリとこらへて苦笑してゐるンだと、いつぞや御自分で話されたのを春いた。
 先生は文章も達者なら俳句も達者だ、この春は、太平洋の新年會のために、素敵な脚本を書いて一同を驚かした。先生の事を言ひだしたら限りが無い、いつれそのうち再び御目にかけやう。
 吉田先生
 九州男兒の本領を發輝して、外面何處となく硬い處がありながら、それで居て世間ともよく調和してゆき働く時も一生懸命なら遊ふのにも一生懸命、精力も強いが大膽でもある。先生の手腕にはいつも僕は敬服して居る。
 先生は其昔し、丸山先生と飛彈へ往つたり、中川先生と赤薙山へ閉籠つたり、または栗山の奥へ出かけた頃は、随分蠻的で、黒い顔に長い髪の毛、山男だなンて友達同志で言つたもンだが、二度の外國行でスツカリ變つちやツた、今は御自身意匠をこらした應接間で、巻煙草の煙りを輪に吹いて濟ましてござる。
 太平洋でよく顔を合はせる連中のうちで、髯の無いのは先生と小杉先生それに僕の主人だけだ、僕の圭人のは元來望みの無いンだが先生のは少し氣永にすれば物になりさうだ。去年湯ケ島で、頻りにトランプをやつてゐる時、床屋が來て、先生の番になつた、薄髯があつたので、床屋は其儘残して置た、先生はトランプをやりたいので、氣が氣ぢやアない、濟んだ、よしといふンで、二階べかけ上る、一同が顔を見て笑ひ出す、急に剃り落すといふやうな小さな喜劇があつたさうだ。
 先生は立膝の名人だ、尻を畳へ据えて、膝を腹ヘピッタリつける、後ろにもよりかゝらず、足に手をかけなくツても倒れない、それで繪もかけば物も食へるといふ、一寸オッな委勢で、先生の銅像を作る時は、この形に限るなンて言つてねる人もあつた。
 河合先生
 穏健で、無慾で、親切な先生だ。先生は大阪の方だ。大阪といふと、俗地で、たれでも、わるく慾が深いやうにきいてゐたが、先生は珍らしい非大阪的の方だ。先生の北堂は、禅の造詣が深かつたさうだが、先生も提唱などの時はよく出席される、今の世には珍らしいこつた。
 お茶の好きなこどは丸山先生に譲らない、しかも苦いのがお好きだ、苦いお茶に甘いお菓子、それに煙草が一箱もあつたら、先生は満足されやう。
 先生はいつも頭は五分刈だ、アメリカに居た時は、五分刈では監獄から出たのかと、人に言はれるので、詮方なしに分けてゐたが、巴里へ往くと直ぐ、惜氣もなく短かくしちやつた。日本でも髪の毛を馬鹿に長くして、畫かきでございますといつたやうに、氣取つてゐる連中もあるさうだが、少しは先生を學ぷが可い。
 獨逸に『帽子の縁の廣い程繪が下手だ』といふ諺がある、これを言ひかへれば『髪の毛の長い程繪が下手』なのかも知れない。
 満谷先生
 ある時、集まりがあつて、中川先生が少し早く往つた。『誰れか來てゐますか』と取次にきいたら『お年よりの方が一人見えます』といふ、會に年寄はない筈だがと、怪しみながら奥へ通つて見たら、満谷先生が居られたさうな。
 先生は、まだ四十に少く問のあるお若い方だ、ソレを無禮にもお年寄だなンて、失禮の譯だが、併し、これは取次の悪いンぢやアない、イキナリ逢つた人は、誰れでもそう思ふのは無理はない。
 先生は、髪の毛が至つて薄い前からでは毛が見えない、背後へ廻れば、成程有るには有るが眞黒ぢやアない、顔も若けれは氣分も若い、たゞ頭だけを拜見すると、お若い方とはチト申にくいンだ。
 先生は意氣な方だ、よく縞の羽織を召してゐらつしやる。よぼと前に越ヶ谷に往つた時、三人の中に一つキレーな枕がある石川先生と僕の主人は、ジヤン拳しでそれを取らうといふンだ先生は『俺れは何ンでも可い』といつて、笑つて見てゐた、先生の性格はこの一事でも分る。
 先生は、芝居はあまり見ないが、相撲は好きだ、連れが無くとも獨りで出かける程の勇氣がある、邸内に素人相撲の土俵が出來たといふ話もきいた。
 先生は俳句の心得もある、號を桂夢といはれるが、内々だから知つてゐる人はあまり澤山はあるまい。
 このほか、通人らしい才子風の渡部先生、『霞』の首を飛ばした癇癪持の北村先生、痛飲家の倉田先生、コワらしい大橋先生、静かな磯部先生、謡に浮身をやつしている藤島先生、何先生何先生と、數へあげた處で言ふ事は澤山あるが、あンまり長くなると、主人から苦情が出るから、先今回はこれにて打止めと仕らふ。

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