寄書 清水港の附近

清茂生
『みづゑ』第六十三
明治43年6月3日

 清水港と申すと、駿河灣内の開港場で、これに付きものは、三保の翠帯と、白扇倒懸の富嶽とであります。
 僕は、『みづゑ』愛讀者で、また日本水彩畫研究所長野支部の會員でありますが、丁度一月中旬より當地へ参りました、見物やら罵生やらの一二を、申上て見ませう。
 江尻停車場にお下りなさると、町續きで當港へ参ります。若し歩むがお骨折れとあれば、江尻から輕便でお出でなさい、三銭で參りま寸。
 江尻及清水附近の海岸には、黒松の林及並木がございまして一寸須磨あたりの、感じを與へます。
 一日、僕名にし★ふ三保へと、三脚を携へてやつて参りました。
 尤も陸續きで歩んでも宜しうございますが、舟の方が便利なごとが多うございます。僕は時間で往復する(三保清水間を)石油發動機船で参りました。
 舟中の景中々凡ならずでありますな。附近にある幾多の「アサリ」探りの小舟、一方には築港の浚ひ船などの間を通りぬけて出ますと、右には、一面の海苔そだをへだてゝ、橙緑黄に色どつた西洋風數階建の宗敎學校が見えます。これはやはり、三保め一部貝島と申すところにあるので、バックは三保の緑樹、遠く伊豆の淡紫連峯、よく言ふとまあ龍宮ですな。左は干渡萬波をへだてゝ、淸見寺山薩陸山を前にして、干古に美容を誇る富嶽、小にしては駿河灣の王者、大にしては東邦の靈峯、軍艦汽船が其問に黒烟を吐くのも、亦近代的であしくはございません。十五分間にして三保の本村へ着きます。
 白砂青松と申せば、須磨明石を聯想いたしますが、三保は紫砂青松でございます。まづ三保の眞先き向つて、歩を移しましたが、さすがに、信州あたりとは氣温が異のますな。一月下旬ひばりは既に空に美音を放つてゐるではありませんか。又豌豆の二三尺にもなつて白い花を點じて居るにも驚きました、さて松樹の間なうねつて海岸へど出まずと、誠に、大下先生の、常に好んで高題に上せらる曳漁舟の有様、如何にもと思はれました。
 其平らかなる海、之れも先生の畫に見るところです。そして富嶽は呼べぱ答へんの風情に見えます。次第に歩を外海の方に轉ずるに連れて、波際次第に荒らく、紫色の小石の濱に、ざわんざわんと打ち寄する白波、淸水港あたりの、あまり静かな海を視なれた目には、一段淸新の感に打たれます。白帆遠くインヂゴー勝の緑海に浮ぴ、伊豆の連峯は、其色と容に於て最も調和よく南の方べ延びております。営て大下先生の數株の松樹に上げられたる漁舟一二をあしらひ、晴れたる日、日光を浴びてかゞやける伊豆の連山(?)を其あはいより見、海はインヂゴーの小波遠く連れるもの、たしか、此あたりの景にあらずやと、さがし廻りましたが、つい、それと思はしき松も見出さず羽衣の松あたりを、さ迷ひました。寫生はどうやら二點を得て歸りました。
 三保は全部農家漁村の入交りで頗る閑静な、水松美しき處と思いました。それから桃花の春は、これは又特別でございます。
 興津海岸。興津は淸水から、江尻興津と海岸續きであります。
 此海岸は、一つの弧形をなして灣曲して居ます。例の松樹林が、づつとこれに沿つて居ますから、中々風景もよく、畫題もございます。朝夕雲霧等の變化によつて、随分面白い圖柄が得られます。前右方よりは三保の緑線を見、遠くは沼津あたりの山々左方は清見寺山、薩陲山といふ段であります。東海道筋を參りまずと、一寸一里強ですかな。江尻の驛をはつれますと、松の並木があります。百年二百年の老松、道路の両側に並び、松の研究には、随分よいところでございます。河合先生の、杉や松の並木の繪を二三拜見いたしましたが、こゝの並木も中々よい感じがいたします。先生の筆をお借りしたらばと思ひます。個々の樹木としても、随分面白うございませう。それから少々進んだ庵原河の橋あたり一寸繪になりさうです。興津に至りまずと、海岸には岩石亂點し、沿岸に變化を與へておりまず。大下先生の興津海岸の繪は、何處だらうかと、注意して點檢して歩きましたが、これもつい、これぞと思はれる岩は、見當りませんでした。
 淸見寺。名には聞いたが、未だ見たことがないから、どんな所かと行つて見ますと、東海道の街道より、杉樹の間急勾配の、石段がございます、箒の跡も新しく、こゝを登ると門がありまず。門の向ふは、緑色(エメラルド)に塗つた、鐵の欄干の橋があります。桁は栗色に塗られた鐵材で、其色が周圍の色と、よい調和を保つております。橋の終りは突き當りで右に曲り、更に石段を登つて、第二の門を入ると、今度は寺の處であります。寺は雑木繁茂して居る山を後に負ひ、山腹駿河灣に向つて建てられてありまず。左方は遠く海を隔てゝ伊豆の連峯を見、前面は三保の翠緑、右方は久能續きの山々及び淸水港寺、一眸の中でございます。寺は一言に申せば淸疏、こゝの石造五百羅漢は、中々好出來で、風雨に任せてあるのは惜しい様に、思はれました。
 こゝを下つて、再び海岸へ出て見ますと、十數人の婦人、白き手拭して海草を干して居ます。其光景中々面白く、子守子等は裾をかゝげ、竹の枝を倒に付けた竿を持つて、海草を拾ふて居ます。山國の僕には、此上なく面白く思はれました。それから漸次に、興津川口の方へと蓼りますと、松樹林が川口の西側を飾つて居ます。木下にある枯草の色、其間の子松、伊豆山の様子、さては嘗て、大下先生の、水繪にものせられし淸見潟は、此あたりではないかと、さがし廻りました。暫くして興津川口近くなりますと、遠くは伊豆静浦あたりの山々近くは川の土砂が海中に吐き出されこれに海水が逆ふ工合、枯草の様子小松等此處の邊でなくてはならないと、前に進み後に退き、注意いたしましたが、其書面の左方よりあらはれた數十の幹は、似つはしいものを見出さないで終りました。
 残念なりと、今度は更に東海道に出で、興津川を渡つて、薩陲山の方へと塗りました。興津川口にてよき畫題もと思いましたが、山の形川原の工合、誠に平凡で、これには甚だ失望いたしました。薩陲附近は、昔よりの名所なるに係はらず、好畫題に乏しいは何故でせうか、僕はむしろ、淸水港、三保あたりの方により多く書題があると思ひます。
 久能山。家康公の靈廟のあるところであることは諸君の知らるゝ通りであります。清水より二里程、僕は山國の生れですから海は大そう珍らしいのです。それ故海のあるところは可成海ばたを、歩春ます。清水から三十町程行きますと外海の海岸へ出ます。波は遠く亜米利加大陸より一直線に參りますから、巻き返し沸き立ち、?々と打寄でる有様は、何とも云へ知らぬよい感じがします。海の彼方此方に漁舟多く、西の方遙に大崩れの岬を望みます。左の方は伊豆の波勝か崎を見ます。綱曳く男女は沖に向ひ縄を腰にかけて、後しざりにしづ、丸と曳く有様が面白く、此間を波に追はれたり追つたりして行きますと、いよいよ久能山は近くなります。試に漁人に久能山の何れかを尋れますと、あの松の木の「本大なるが見ゆる峯で、あそこに一の門があるところだと敎へます。なる程百折の石段、殆んど斷崖とも申すべき所を、右に左に縫つて上るので、一寸骨が折れます。山は小さいが小奇麗になつて居ります。思ひの外深いのは勘助井戸、深さ十何丈とかいゝます。社は近來塗り替へたとか何とかで、無闇に赤く青く黄色で、誠に崇高の感が乏しうございます。それもよいが、それを一々板で圍つておくには熱もさめましたれ。尤も修繕后風雨を厭ふかも知れませんが、何となく厭な氣持がします。あんなことをしたでは、一寸も有難味はありませんね。朱殿金門が、惜し氣もなく風雨の間にあるので、自然と神に對して壯嚴の念が起るのではありませんか。しかし眺望は悪しくはありません。小山の展望畫題二三はありそうです。
 僕先頃新柳の寫生(河畔自然生のもの)を得んと、静岡市の西部を流るゝ、安倍河畔へ参りました。汽車、輕便共に江尻より十二銭、輕便にて清水より十四銭、静岡市は中々よい市街です。
 殊に城趾のあたり、畫題の方面より見ても面白そうな所が随分ございます。
 安倍川は随分荒れる河で、市の西のあたり河幅が一寸二百五十間程あります。丁度市の北端あたりで、藁科川といふのが、これに注ぎます。元來此沿岸には樹木多く、草叢繁茂し且つ山嶽流水の形勢、畫題は無限であります、殊に比三川合流する處よの上流に當つて、多うございます。輕便を下りて、直線に安水橋へと行きました。こゝに柳樹十數株ありますが、何れも、主眼としては面白うございません。それゆへ堤防を傳ひて、上流安西橋に至りました。此途中柳樹中為多くございますが、皆枝を切られて、所謂裸體で、人間ならば裸體美人とかで、持てるのでありますが、此枝なし裸體には、少からず閉口しました。
 安西橋附近には數十株ありまして、尚上流數百株ありますが、何れも裸體やら何やらで、常意のものがありません。遙か前岸藁科川邊に打績く柳樹、遠望甚だ面白さうてすから、それへと歩を移しました。即ち安西橋を渡つて参りまずと、あるはあるは畫題は澤山ありまず。しかし肝腎の柳樹には、まだあはいがあります。十數町で漸く藁科の岸に出ました。こゝで川を渡るのです。上流下流、柳楊數多ございます。此渡るところの數町上流に、木枯の森といふ島がございます。見るところ至極好景色です。下二川合すうところにも一つあります。舟山といひまして、何れも畫題に上りそうです。私は少しく下流に下り、こゝでと恩ふところを得ましたから、三脚君を据えました。大下先生の三脚君の小言の出そうな、石ころのごろごろして居るところです。午後五時頃筆を措いて歸りましたが、さて此附近は畫題が多いところだと思ひました。
 淸水町から數町で、龍華寺及鐵舟書に至ります。何れも山腹に据して眺望佳絶であります。富嶽三保、駿河灣の眺望随一とせられて居ります。龍華寺には大蘇鐵があります。十數株ありますが、日本で一ばんだとか、二番だとかいゝます。又高山林次郎氏の墓があります。鐵舟寺には櫻樹多く、山上観音堂の眺望亦宜しうございます。
 淸水町は巴河其間を貫流して居ります。船舶多く、時に帆檣林立の姿を呈します。從つて朝暮の畫題に乏しくはありません。
 僕が試みた畫題を一寸御紹介申しますなら、巴河の曉色。巴河口の残照。巴河畔の.漁舟。湊橋の午後。龍瓜山の暮色(巴河を前景とせるもの)。巴河の朝。巴河の富士。其外淸水港附近では、富嶽の殘照三保の夕照(淸水港より)裾野の雪。オレジヂの烟。
 河畔の菜花。薄暮の叢淸水町はづれ。まきの老樹、楠の大木。
 楠の森。寺の前。遺路。日中の寓士。並本(松)。葉櫻の道等であります。尚諸君御來遊の時は喜んで御先導いたします。僕の居所は静岡縣淸水町仲町山本源次郎氏方淸水茂三郎

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