ターナーの水彩畫[一]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第六十四 P.11-18
明治43年7月3日

 ターナーの水彩畫を世人が稱賛して措かないのは(人を魅するの力あるば別問題として)一つに氏が技藝の進歩發展に基因するのである。實に其進歩發展の秩序的でしかも連續的であるのが著しいからである。ひたすらに向上の一路を辿って苟も一處に止らず、常に清新に新樣な試みをなし、新規の難事を要求して止まなかつたことは氏が晩年に至るまで變らなかった。もしそれターナーの水彩畫を熟知せるものであつたならば、その何年頃の作品であろかを容易に指摘し得べきである。
 氏が油繪に於ても同一經路を進んだことはいふまでもないことであるが、また大いに異れる點があつた。實に氏が中年の頃は意識し、また無意識に競争した同時代の畫家の影響を常に大いに蒙つて居つた。最初にリチャードウイルソン。次にヴァンデウェルド・バクハイゼン。後にガスパーポーシン。クロード。カイプ。レンブラン。チヽアン其他等である。かかる競爭の結果として氏の油繪は水彩畫に比して不自然に且つ誠實を缺いて居つた。
 ターナーは古老諸大家と覇を競ふて古典的に神聖なる畫題を描かうとしたが、惜しむべしこれ等の素養がなかつた爲めに失敗に了つた。しかしMercury and Herse,Ulysses deridimg Polyphemus其他の如き絢爛たる除外例あるはいふまでもない。しかしラスキンがこれ等を呼んで愚作だといふたのは理あることであらうと思はれる。
 併し氏の水彩畫に於ては、最初の修業の數年を除いては、實に氏獨歩の境地であつて、自らターナーたる特色を帯びて居る。ポールサンビー。ジヨンコーゼン。アルトン。ヒールン。デルーザーボルグ及其他の水彩老大家の影響は受けたれども、如何なる場合と難も永きに渡らなかつた。最も氏が影響を蒙ったものは、コーゼンとギルチンの二人者である。しかし一八〇〇年もしくは最近一八〇二年の頃に至つて氏は同時代の畫家の列より駈拔け獨歩の姿となりて、十九世紀の前半に於けろ英國水彩畫派の頭領となつたのである。ターナーの一代の作品を説くに前立つて、氏が幼時及その周圍に付て數言を費さう。
 ターナーの出生は一七七五年であるとは一般に世のいふ處である。父はストランド、メーデンレーンの理髪師で、幼時より頗る畫才に秀てて居つたとある。されば理髪師大いにこれを誇りとして、その作品を理髪處の飾窓に掲げて、屡一ニシルクングにこれを賣つたといふ事である。またこれを芳客に示せる中、卜ーマスストットハード氏(ローヤルアカデミー員)の如き非常にこれを稱賛して、宜しく畫家たらしむべしと忠告したといふことである。一七八九年前のターナーの生涯(十四歳迄)は甚だ明亮でないが、要するに田舎學校の敎育は受けた。これとて充分なものではないが繪畫の敎育は種々の敎師より受けた。マルトン。ポールサンビー等も恐らくその敎師であつたらう。
 十二三歳の頃彫版の大家ジヨン、ラファエル、スミスの門に入つた。こゝで未來の畫友ギルチンと共に彫刻印刷の術を學んだ。
 十四歳の頃には有名なる建築師ハードウィツク氏に雇はれたこともあつたといふ。詮ずるに幼時に於て美術家たるの基礎を据えたことは氏が初期及全生涯の作品に依りて覗ふことが出來る。氏が樹木森林を描いた以前には大建築物を巧に描いて居る。ローヤルアカデミーに出陳した「ピーターポーロー寺院の西面」の如き好例である。水の描寫も氏に取りては比較的難事ではなかつたやうである。これ氏が幼時在學中ブレントフォード、マーゲート等に於ける研究に負ふ處大なるものがある。氏が幼時の作品は甚僅少で、多くは諸大家の作品もしくは印刷物を模寫したものに過ぎない。Folly Bridge and Becon's Tower,Oxford(ナショナルギャラリーにあるもの)及余の所有せる“A Road side inn”が最幼時の(一七八六年)作品で、確に創作であらうけれども、ルーカー氏の作品の模寫たることは更に確なやうである。建築師の門にあつた時ハードウィック氏の勸めに依りて一七八九年ローヤルアカデミーの生徒となつたといふことである。翌一七九〇年に氏が最初の作品をローヤルアカデミー展覽會に出品し後サムマーセツトハウイに保存してあるが。これ即ち「ラムベスの大僧正僧院の景」である。十五歳の頃の作品には建築物を精細に描いて、殊に構國の巧妙なものであるけれども、畫風の創意に出でたるものは殆んどない、畢竟マルトン及サンビーの模倣に過ぎないのがある。
 翌一七九一年の展覽會には二枚の作品を出陳した。一つは「エルサレムのジヨン王の宮殿の内部」で有名な一大創作である。建築上よりするも透視畫法よりするも共に健全なるもので、破窓より洩れくる日光の如き、詩的に且つ神秘的な感じを現はせる處、到底凡手の及ぶべくもないのである。
 翌一七九二年のターナーの作品は頗る變態の状を呈して居る。これ或は佛國畫家デルーザボールの繪畫の影響を受けたるやに思はるゝ節がある。この畫家は英國に移佳し、ローヤルアカデミー員となつた人である。ターナーは數月の間に全く彩料の仕組を變じて、鼠若しくは紫がゝりし、鳶色を全體の調子に用ゐた。當時の一般の水彩畫家はぺールグレー、ブルユー、またニュートラルチントを普通に用ゐたのである。この式で描いたものを擧ぐればリッチモンドパークの諸畫、パンテオンの火事の一二、ブリストル附近の景色等である。氏は幼時この附近の親戚に屡宿泊したので、「アウォンの河口」の如き、こゝにての作品である。
 ターナーは翌一七九三年もローヤルアカデミーの出品を繼續した。氏は作品の賣捌きを容易にして居つた。一七九六年以前の氏の作品に付ては確乎たる考證を得ることが出來ないが、この頃既に世人の知る處となつて居ることは、氏が最初の作品を印刷に付するに付て手數料を取つたのでも知るべきである。“Co-pper-plate Magazine”(後にThe Itinerant”として知られたるもの)は、水彩畫の挿畫を挿入して居つた。その五巻に「技師ターナー氏」と記せるものがある。氏は挿畫一枚に付二ギニーの稿料を受けて居つたといふ事である。これは僅少な旅費の支給を受けて、到る處の風景を描くべき約束を結んだのである。氏は輕装繪畫の道具を肩にし釣竿を携へて、諸方を遍歴して、ケントに入りウェールスを横切リシロープシヤィア及チエシャイヤを通過しカンバーランドに著し、ミッドランドに歸つたといふ。雜誌の挿畫となれるものに、Peter borongh Ca-thedral from the North”がある。當時同時代の畫家ルーカー、ヒールン及デース等に強烈なる影響を與へたことは必然である。此時代(一七九三年)ベスレヘム病院の院長ドクトル、モンローの知を辱ふした。院長はアデルフィに家を構へ、プッシーに別荘を設けて居つた。氏は水彩畫の愛好者として知られた人で、ターナー。ギルチン。ヴァレー等の靑年畫家を自家に好んで招待し、レンブラン。キャナレトー。ゲーンスボロー等の諸大家の作品を研究し、または模寫せしめたといふ事である。殊に英國の最も詩的な畫家中の一人たるジョン・コーゼン氏が、富豪某氏と共に以太利、瑞西を跋渉して得來つた最近の作品を閲覽せしむるの利便を與へられたといふ事である。コーゼン氏のターナーに及ぼせる影響は迅速に且つ確然たるものであつた。當時のターナーの作品はコーゼン氏の作品の模倣といふも過言ではあるまい。故如何といふに氏が大陸を旅行したのは一八〇二年の後であるからである。しかし一旦氏の手を經たるものはその繪畫に確に氏の特色を帯びて居ることは前陳の如しである。ヘンダーソン氏も亦ターナー繪畫蒐集家で、並せて素人畫家であつたが、ドクトル、モンローと同樣のターナー保護者であつたといふことである。
 一七九三年より一七九六年迄のターナーの進境には驚くべきものがある。氏の畫題は變化した。英國及ウエールの寺院、古城、廢屋、村寺、田舎町、瀧、川等これである。殊に最近のものには必ず橋を添え釣人を點綴するを常とする。實に氏自身が釣魚の人であつたので、これを畫くに頗る精細な極めて居る。時としては畫面に空氣の結果を極端に描き、或は日光を著しく弄した。また屡遠近法を大膽に取扱うた。建築物の如き遠近法筆策七目夏《品出艦湘三太)妹姉の微細部分と共に精確且趣味ある描法を用ゐた。彩料はぺールブリュー。グリーン。ブラオン及ニュートラルグレー等の破色を美しく調和せしめてある。
 一七九三年及一七九六年の間に於ては、氏は英國の寺院を多く描いた。またドーヴァーに於て大小の船の研究畫を作つた。またこの地及マーゲートに於ける海及航海等に關する研究が、氏に著しき精確なる知識を與へたのであつた。
 氏が初期の作品には通例署名してある、最初は“W.Tarner.1786”とある、次期には單に“Teraer”と記し、また屡“W.Terner”と署した。一七九九年ローヤルアカデミー員に擧げられてから“W.Turner.A.R.A.”と署し、一八〇二年同正會員たる譽榮を荷つてから、“J.M.W.Turner,R.A.”と署した數年の後ローヤル、アカデミーの遠近法の敎授に推されてから、時に'P.P.”を加へた。また氏の晩年の作には全く署名の無いものゝあるのは例外である。
 この時代のターナーの繪畫の特色は當時古典派の大家の作品に比して英國初期の水彩畫家と共に一般に自然界の觀察に新しみがあり、清新でしかも單純なるにあつた。而して當時の繪畫は自然の爲めに自然を研究しこれを描寫せるに止まつたが、ターナーはバイロンの如く自然の風景のみでは决して完全に滿足な繪畫を作製することが出來ないものであることを意識した。繪畫には人格に觸るゝものがなければならぬ。即ち人格の暗示を要し、人の技巧を要するものである。この見地は古典派畫家のそれと全く趣を異にして居るものである。
 ターナーの作品は一七九五年、同六年の頃の優美なる彩料より(同時代英國水彩畫家に通有であつた)一七九七年に入りて、急轉して、より大に、より強烈なる畫風となつて、色彩の大膽なる配列を爲すに至つたがこの色彩の配列にありては氏の中年及晩年の作に比べては猶遜色あろのは無論である。一七九六年にはぺールブリュー。グリーン等の色彩が單に濃暗となり、強烈となつたのみであつた。Snow-down'Cader Idris.Distantview of Exeter”等好例である。しかしかゝる色調は直に濃暗豊富なる黄金強ちのブラオンと成來つた。一七九七年一七九八年及一七九九年に於てローヤルアカデー展覽會に大幅の大作品數點を出陳した。何れも氏が進境の著しきを示して居る。
 Salisbury Cathedralの八景、Crypt of Kirkstal Abbey,Warkworth,Norham Castle等皆優麗なるもので、ターナーの伎倆に一新發程を畫せるものである。氏はその成功せるは實にNorham Castleの好風景に負ふ處甚大であるといふて居つたといふことである。これより三十年の後、スコットの挿畫を描いた頃、アボッツフォルドのサーウォーターの客となつたが、出版者キヤデルと共にトウードサイドを散策せる折に、ノールハムを通過したとき、ターナーは自ら帽を脱して一禮した。其故如何と問ふと、氏は「かの畫は予をして成功せしめたものである」といふたとある。恐らくは氏が一七九九年ローヤルアカデミー員に擧げられたのはこの畫の出陳に負ふ處があつたと思ふたのであらう。(ダフリュー・ヂー・ローリンソン稿)

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