東西の櫻

山崎紫紅ヤマザキシコウ(1875-1939)

山崎紫紅
『みづゑ』第六十四
明治43年7月3日

 私は四月中用事が出來て大阪へ出かけた、その機會を利用して吉野の花を見た、嵐山を見た、そうしてその花に對する印象の差が、今までに思つてゐた、築き上げてゐた所のお花見の觀念とはあまりに違つてゐたのに氣が付いた。一言にしていふと、京阪の花は寂しいのである。ぱっとした感じに缺乏してゐる、東京の櫻に對すると三味線が聯想されるが、西の花には琴の音が聞こえさうだ、同じ三味線でも、それにしめやかな上方唄である。
  車で揺られて口の一目千本のあたりを通る、後押は付いてるが、阪をあまりに押上げたので早くは歩けない、しかし此方が宜かつた、早く遣られては折角の花を見るのに邪魔になる、職人體の男が醉拂つて小唄を謡ひながら來た、その唄ひざまがまた上方式だ、そそるなんてことはない、眞面目に謡つてゐた、これに反して嵐山の方では醉漢を見なかつた、尤も花時が遲れてゐたのと、醉漢の出來る極りの時間|午後三時頃に行かなかつた爲めもあらう、しかし東の花ならそんなことはないのだ。ただ一人老ひたる醉者を見た、口拍子おかしく「熊野」のロンギを謡つてあるいた、その突拍子もない上ずつた聲、間外れの調子が嬉しかつた、この人あつて始めて京都に異彩を放つた。
  私はこれだけを見たので、既に一種異樣の觀念を生じた、どうして西の花見はこう靜かなのであらう、私にこれを東西人士の氣色に歸する前に、外の原因からして考へて見たい。
  先づ私の思ふ所では、櫻の植ゑ方からして違ふと思ふ、嵐山は常盤木の間に、淡紅色に陰線色を配した模樣のやうに並べたのだ、陽氣な色を直ぐ陰氣な色で消してある、バイオレツトを付けた傍から沈香を一倍焚かせたやうなことがしてある、折角起つた強い感じは直ぐ消炭のやうになつてしまふ、花見時の浮はついた料簡は、秋の心と變ぜしめられる、この常盤木と混植するのは京阪人の理想だと見えて、一目干本などいふ業業しい名のある所でも、その配色には、やはり常盤木を使つてある、到底花の山なぞと云ふ文字は、京阪の花見場所には使えない、それが人間をあまり浮立たせない第一の原因だ。
  第二には、西の櫻は一木毎に詠められる氣合がある、木振といふことが櫻に必要なる條件としてあるらしい、一木毎に名を付けて名木としたがる風があるらしい、四畳半に見る花で大廣間に見る花でない、吉野にも太閤の花見場所だなんて云ふ所があるが東の飛鳥山ほどの潤達な點はない、諸種の櫻品を集めてあるといふ荒川堤の櫻でも、その植ゑ方は並列式だ、堤の上に二側に、花の隊道を造らせずには置かない、これを大阪の造幣局内のと較べると東西の差違がよく分かる、造幣局内のは東式の植ゑ方だが、一向振はない木ぶり。が違ふからだ、花の種類が違ふからだ。
  東の花の賑かさを見るつもりで、西へ行つたら失望する、そのかはり雨のあとでも、西の花は見るに堪える、ねればりが強い、勤倹貯蓄主義は花の上にもよく見ることが出來る。 (四月二十二日)

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