伊太利の旅[一]

岡精一
『みづゑ』第六十四
明治43年7月3日

 何か少し書いてくれぬかとの大下君の依頼を受けたのは最早一二箇月前であつたと思ふ、其時は別段に考もなかつたが、まだ時日もあるからと承知して置いたが、這度再度このお話の 出た時は五六日の中に往くからといふことだから、今更の樣 な心地で少し困ったが、約束は反古にも出來ぬと古い古い旅 行談を書き付けて其責を塞ぐことに極めた。
 事の起り、即ち旅行の相談は、明治三十八年の盛夏で、場所は巴里市のカルチエーラタンの余の畫室内である。相談せし人々は總計三人で、沼田一雅氏、下村觀山氏及予等である、三人寄れば必らず我師ありといふ諺もある、況んや同行を約したる兩氏は、彫刻家、畫家として、美術界に師表たるべき人々だ、けれど稀に赤毛布的錯誤は仕出來しながら、氣が付かずに濟まして居る場合もある、偶々是等の四九尻を發見することも有ったが、或時は言語不通と胡魔化し、又或場合には知らぬ眞似して打過ごした事もある、尤も個樣な事は、吾々三人の族行に限られた譯ではなく、紳士として社會に重要親せられて居る人々にも隨分有つたものだから、吾々の專賣といふ銘打つて自慢する程の愉快なる手古摺りも無かつた、が、兎に角予も亦爾氏を學んで種々の四九尻をしたといはふか、否寧ろ予輩有つたが爲に兩氏にまで錯誤を招かしめた場合が多かつたであらふ。
  八月廿日 晴
  吾が同行三人は、前の約束を踐んで、同夜午後十一時半ガール・ド・ノール停車場出發、利榮壽に開催中の萬國博覽會を見物する目的で、各自發車前に到着した、此旅行が何となく愉快な心地がする故か、同行三人自ら欣々然として居る。其中友人等は、續々此行を送らむとて來會せらる、即ち明治七八年以降の巴里市の状況を詳に知られ今尚同市に在住せらるゝ佐野喜三郎氏、倫敦より轉學せられたる工學士鈴木禎次氏、信州の富豪牧善七氏、東京美術學校出身前島、筧、松源、保阪等の諸氏で、列車の内と外とでは快談縦横、時折は下拙な佛語も話すが、矢張吾々の贈答には日本語の方が便利だから、期せずして盛んに日本語が話された、恰も口露戦爭漸く局を結び、國光の大に輝き初めた時だから、躯幹倭小なる日本人も、十餘名相會して互ひに何かお喋舌をして居ると、綠眼紅毛の輩は自然と目を注ぎ耳を欹てた、これは全く事實である、話しにまだ盡きぬ中、發車の時刻に來た、互に握手は交換せられ、ボンボワィヤージュ! オールボアール!等の聲に送られ、車は廻轉を始めた、送つて呉れられた諸君の姿も見えなくなつた、暗夜で車窓外は何にも見えぬ、車内の燈火では讀書さへ不充分だ、大分草臥たから假睡を買ふ、目を閉ぢたが、囂々といふ響が耳さわりで、中々寐られぬ、愚圃ぐず言ふて居る問に、車は二百廿八哩の行程を無事に通過して、翌日午前六時〇二分、目的地利榮壽に到着した。
 

アントンゼヨセフウイエルツ肖像

  八月廿一日 快晴
  利榮壽の停車場に着いたから、一同直に車を降り、相互の携帯品は、まだ宿屋さへも定めてはないのだから、其儘に捨て置き同行三人打揃ふて博覽會場に向ふたが、あまりに早過ぎたので、未た門は閉ぢられてある、午前正七時といふに着いたのだから無理はない、據なくぶらぶらと半時許待つて居ると門は開かれた、入場券を買ふて博覽會構内に這入た、何處からどの道に往くが便利かも能く知らぬ同行三人は一直線に約貮參丁も歩行いたかと思ふ頃、一人の日本人に出遇ふた(鳥渡注意して置くが、欧米で日本の同胞に行き遇ふた積りで、迂濶に聲を懸けると、折々間ちがひを出來すことがある、支那人の西洋服を着てあるいて居る場合は、全然同胞と見まがふ事がある、それだから、欧米人が我同胞を見てもシノァとかチヤイニースとかいふのは全く無理もないと思ふが、シノァなどと謂はれると甚だ癪に障はるものだ、併し征露像肖ツルヱイウ フセヨゼ ントソアの役に空前の大勝利を得て以來といふものは、ナポレオンでさへもモスコウで大敗北を蒙つた、況んや極東に偏在して居る小島國が、如何して露國に勝てよう、無理な軍を起したものだといふ、くだらぬ考を以て、日本を輕蔑して居た欧洲人等も、其先後より日本といふ國が判り、又矢鱈に強い國だといふことを知つてからは、ジヤッポネー、プチージヤッポネーなどといふ樣に成つて來た、畢竟國光の發揚せられたお蔭だと誠に肩身も廣く嬉しく思つて、常に感謝して居る)、この日本人は谷口といふ人で、博覽會の事務員であつた、これより相携へて程遠からぬ日本部の陳列館についた、時間はまだ早いと見えて、事務所には何人も居ない、殆んど一時間も經つたかと思ふ頃から、續々事務員等は詰めかけて來た、これから序ながら會場内を少し許り見物した。
  此朝面會せし人々の芳名を記して見れば、博覧覽會事務官岡實氏、彫刻家武石弘三郎氏を初め、竹澤太一郎、高橋本吉、田口K、小黑鹿雄、多和田泰四郎、三上久馬藏等の諸氏であつた。
  博覽會の一部を極めてお粗末の縦覽を濟ませたが、兎に角にも、まだ今夜寢る處が定まつて居ない、そればかりか、同行三人の行李さへ打遣つてあるのだからといふので、先づ三上氏に盡力を願つてRue des Vennesといふ町の一七九番地でVitaleFrescoといふホテルに泊まることにして、此處で三上氏と分れこれから荷物を受け取りに停車場へと急いだ、さて合ひ札を掛り員に見せて、今朝六時に着いた筈だから捜してくれと頼んだお役人も一切承知で荷物置き場へ往つたが、中々出て來ない、如何したのかと互に不平を言ふて居ると、やがて出て來たはよかつたが、行李はまだ着いて居ないといふ答だ、それは誠に困るこれ等の行李は實我輩等旅行中の必要財産だ、我輩等死活の權の一部も此行李が握って居るのだから、それなれば度々御面倒をかけるも氣の毒だから、自分等が勝手に捜がすから場内へ入れて呉れぬかと言ふたら、快よく入場を許して呉れたので、同行三人此處か彼處かと勝手次第に捜索を試みたが、遂に見付からぬ、止むを得ぬ所から今度は轉じて税關に往つて捜したが、此處でも矢張り見當らぬ、皆少しジレ氣味で、再度停車場へ往って驛長に遇ふてどういふ譯かと尋問におよんだ、驛長は中々如才なき男で愛嬌たつぶりで恐らく次の列車で送つて來るのでせうから、度々御氣の毒だが午後一時半頃今一度來て下さいと言ふた、中々赤毛布連を扱ひつけて居る男と見える、最早此上は致方がないから、まだチト早いが畫食でもして來ようと、此處を出て傍近の割烹亭で腹を膨らせた、其の中時刻になつて再び停車場に往て捜がしたが矢張まだ來て居ぬ、今度は電報で荷物を差出した當局へ問合せて呉れる樣に頼んで宿屋の番地と姓名とを知らせて此處を立ち出で、歸り途だから今一度税關に往つて其の着否を尋ねた、恰もよし庇の時丁度倉庫内に來て居たので先づ一安神早速車を命じ各荷物に御陪乗の體でホテルに歸つた。
  午後三時過頃、同行三名手を携て再び博覽會に入場、先づ日本部列品場を見た。此夜、三上、谷口等の諸氏予等を一旗亭に誘ひ疑待せられた。
 

火傷したる小兒ウイエルツ筆

 利榮壽(Feige)萬國博覽曾といふので、利榮壽に開かれた博覽會だから此名をつけたのは勿論だけれど、場内に陳列せられた物件の多くは佛蘭西の出品てある、隨而佛國の占領する場處が最も廣い、それだから佛蘭西の博覽曾を利榮壽で開いたのかと思ふ位た。これに亞で廣き場所を占めたのが、獨逸、次が我日本であつたと思ふ、其他の各國の領する區域はあまり廣くなかつた。偖又た出品物のよく整頓して居ること、觀者の注意を惹き易き設備と、各出品者の装飾法の巧妙なる事は、どうしても佛國を第一位に据えねばならぬ、これば我輩の主張ではない、この博覽會を縦覽した人々は、かならず首肯する處であらうと思ふ。我國も此頃は最早餘程これ等の點に於て進歩はして居たことて、他國の出品と比較して知ることが出來たけれど、佛國に較べると、距ること中々遠かつたのは誠に遣憾であつた。我輩の常にいふ處ではあるが、折角立派な物品を製造して、博覽會なぞといふ公會に出品するのは、其出品しようと思ふ物品が、充分によく配置せられ得る丈けの場所を要すると共に、他の物品の色合のために、我出品物の色調を迫害せられぬ樣に陳列すること僅少の面積中へ雜然と數多の物品を無雜作に積みかさねて又は竝べぬこと等は、可なり必要の點であらうと思ふ、所謂觀業場の坊間にあるものと少しは違ふ性質の物であらう。前者はいふ迄もなく、一國の製造工業其他百般の進歩を各國人に示して將來に多くの顧客を得ようといふ考で開かれ後者は日用必要の品を即賣するために設けられたものであるといふことを改めて言ふ必要もなからう。聞く處によると、此博覽會出品の中で、最も價格の高貴なるものといふと、我國京都河島氏の出品の織物で、其價九萬圓と聞いた、賣れ口のよいものといふと、矢張比較的價の安値のものばかりだと事務員から聞いたが、何れの國も人情には變り無きものと見える。 此夜三上氏谷口氏の★待で十二分の觀を盡した、歸り途には又博覽會の構内に入りて夜景を見た、これで一日の中に博覽會に三度入場した事になる。
 

白耳義婦人の發砲ウイエルツ筆

  八月二十二日 快晴
  今日も亦、博覽會列品館、美術館其外各館を見物したが、美術館でも矢張贔負目で見るかは知らぬが、何んとなく佛國の作品の多くが、仙のものを壓して居る樣な感があつた、そうしてボナー、デコラン、フェリエー、マルタン、ローランス、コラン其他諸大家の作品も見受けた。此處の見物も一ト先づ畢つたから、ミユーゼ・デボーサールに這入て見た。陳列されてある畫の多くは、先づ十九世紀の初葉頃より今日に至ゐまでの大家の作にしてコロー、ハルス、其他佛蘭西で著名なる大家先生の製作も餘程陳列されてあつたが、大作として指を屈するものは一向に無かつた。悠々として觀覧をして居る中、午後四時仍ち閉館の時が來て追ひ出された。これから博覽會事務所に往つて掛り員諸氏に面會し、袂別の辭を致した、此時事務官岡實氏は、余輩等同行三名の爲に晩餐を共にしてゆつくりと話そうじやないかと深切に申出られたから一同其好意に隨ひ、事務所を退出した。さて指定せられたる場所の即ちHctel Ve-netianに約束の時間の午後七時半に往くと、最早岡事務官、竹澤太郎氏並に名譽事務官リエージュ人Helir Chagel男爵等は己に其座に居られた、暫時話して居ると、食卓の準備か出來たから一同着席、これから一同の鼻の下は甚だ急がしくなつた、たべることゝ話すことが同時だから無理はあるまい、さて快談縦横の中に會食は畢つた。これから一同打揃ふて散歩を試み、草臥れると珈排店等に休憩する、こういふ有樣でお陰で充分に愉快を盡したので、とうとう十一時四十五分になつたから、欺待を謝し、再會を約して左右に分かれた、今日始てお目に懸つた人々は粟谷澤次、中村新太郎等の諸氏であつた。
 

聖母ウイエルツ筆

  八月二十三日 半晴、午後雨降り風強し
  午前十一時三十分リエージ停車場から車中の人となつたが、生增雨が降る風が餘程烈しくなつて來るといふ次第で、惜矣哉沿道の景色は充分に見ることが出來ぬから、同行三人は利榮壽の話だの、まだ見ぬブルッセルの豫想談などに耽って居ると汽車は早いもの、モゥBrnsselsに到着した、此時に殆んと午後二時であつた。停車場の名はガール・デユ・ノールといふ。其の停車場前の或珈俳店に這入て休憩した、曾て利榮壽で武石氏と約束しておいたから、今余等三名の巡禮者が、此處に着いて、先達の來られるのを待つて居ることを、同氏方へ知らせた、そうすると元來深切な世話好きな、其上餘程容貌の西洋化した武石君は、直に全速力で遣つて來られたから、車をいひ付け、道すがら町見物をしながらアヴェニユー・ルイズといふ町の五二一番地で、オルストといふホテルに投宿することになつた。武石君は余等巡禮共がついたらば、日本料理を饗應する筈で其準備をして待つて居るのだから、是非來て會食せよとのお勤である、たゞさへ日本料理が變しく思はれて居る處だ、何んで辭退をしよう、直に氏の寓居に誘れ、たらふく御馳走になつた。茲に特筆して置くが、此日御饗應を受けたお料理の悉皆は、武石君自身の鹽梅せられたる處である。前にもいふ通り、同君の容貌は殆んど西洋化せられて居るにも拘らず、矢張り日本の粋は粋として、悉くこれを薀蓄して居らるゝは、此一時を見ても椎し測ることが出來よう。
  八月二十四日 晴
  武石氏此朝早く來訪せられた、余輩等をMusee Wierth(ミユーゼ・ウィエルツ)といふ美術館に案内せうが爲である。
  ミユーゼ・ウィエルツは博物館の反對の側て、入口は鐵門である、此處が即ちAnton Joseph Wient(アントン・ゼヨセフ・ウィエルヅ)の畫室であつたが、彼れの死去の後、政府がこれを買上げたのであるといふことだ、彼れはベルジツクの人で、一八〇六年に生れ一八六五年に死去した、彼れの作品は多く豪放不覇で、用筆は誠に自由である、其着想の奇拔なることは人をして驚嘆せしむるものがある、けれども彼ねは其當初にありては最も正確なるクラシック派より起つたのであることは陳列されてある畫を見てもよく判かる、序だから彼れの畫の二三を紹介しよう
 

犬ウイエルツ筆

  〔一〕 肖像 〔二〕 火傷したる小兒 〔三〕 聖母
  〔四〕 白耳義婦人の發砲 〔五〕 犬
  彼れば又彫刻も巧妙なものだ、其例として此處に載せて置く
  〔六〕 彫刻 (次號に) (以下續出)

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