みづゑ五周年所感

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十四
明治43年7月3日

 一昨年來讀賣新聞に『當代畫家論』といふものが連載せられ、その年十二月二十九日には私の事が書かれてあるといふ。私も所謂當代畫家の一人として、鳥瞰生君の筆に上つたのは名譽の事であるが、近來トント無神經になつて、何を書かれたか讀んで見やうともしなかった。すると近頃親切な友人が、態々さがし出して切拔いて送ってくれた、本文はあまり長くはない。
  大下藤次郎氏
  洋風畫傳播の功に於て大下氏も亦决して三宅氏に劣るものではない。『水彩畫の栞』といふ名は此の書の 後に出た多くの同類よりも素人畫家の間に記憶されることが深いだらう。
  大下氏の畫が素人に分り善いと同じく、其敎へ方がまた甚だ簡明で、素人な導くに適して居る。例へば春 の空には何と何とを交ぜろとか、秋から冬へかけては空にプラシアンプリェーを多く入れろとか、遠く の山や森を描くには必ず白を交ぜろとか云ふ、規則を定めて説いてゆくから、素人は迷はなくて濟むの である。(中略)
  兎に角大下氏の敎育事業は『水彩畫の栞』に始まつて『みづゑ』の發刊となり、日本水彩畫會研究所の設立に 及んで、ズット一貫して居る。氏自らも今では繪畫の創作に奮勵すると云ふ樣な氣分は失せて、專ら後進 の扶育に傾けることを自白して居る。而して氏の畫作はたゞ氏の今迄に得た地位を失はざらむ爲めの 努力に過ぎぬかも知れない、と云ふと甚だ失敬だ。氏とても藝術家的天分がある以上藝術衝動から畫を 描かないと斷ずるのはひどい。丸山氏と同じく山が好きで、よく山に登つては靜寂な湖を寫す、さう云ふ 時に或感興は起るに違ひない。
  小石川の水彩畫會研究所は河合丸山兩氏と共に大下氏の經營する處である『みづゑ』の編輯は主として 大下氏がやって居る。常識に富んだ人で事務の方もある處から、萬事氏の手にょつて都合よく運んでゆ く、相當に嚴粛であなりがら打解けた處もある大下氏の性格は敎育者たるに適して居る。而して氏を中 心とする或一團があることは兎に角氏の徳に歸さなければならぬ。氏が物にこだはらず、簡明に事を處 斷して行く態度は甚氣持がよい。
 鳥瞰生とは何人だか知らぬ、此文字は私を貶しめたのでもなく褒めたのでもない、最後の一節は敢て當らぬが、總じて世間は私をこのやうに見てゐるのであらう、今此丈字を見て、それを機として私は私の平素を語り、私の考を打明けたいと思ふ、やがてそれが『みづゑ』五周年の來歴談にもなるのである。
 私が洋畫傳播といふことに力を致した多くの原因の一つは、私自身が美術によつて救はれ、繪を畫き得るといふを|畫家としてでなく―によつて幸福を享くることが多かつたため、これを一般に普及せしめ、高き趣味を有する人の一人でも多かれと希ふ心からであつて、まだ研究が不充分であるから公表はしないが、人を堕落より救ひ、善に導き、自然の樂しみを知らしむろ等、消極的ではあるが一の宗敎と信じてゐる、それが爲め私自身の盡した洋畫傳播といふことは、他のある人々の如く、雜誌新聞繪葉書等によつて、一方に金儲けをしながら其趣味を傳へたのではない、それは雑誌の口繪も畫き畫帖も出し繪葉書も描いたが、『水彩畫の栞』には一般の讀者の質問にも答へ、或は毎月數十金の損失を覺悟して雜誌の發刊を企てるといふやうに、自分で言ふのは變だが少しく他と選を異にしてゐる積りである。
 『水彩畫の栞』の始めて世に出たのに明治三十三年である。元より人を敎ゆるといふ見識も伎倆もあつた譯ではなく、たゞ極く初學の人の手引草にもと書並べたに過ぎない、當時出版元は僅かに一千部の賣行を氣遺つた、私は此時一月位ひ近縣を旅行し得る程の僅かの稿料を貰ったか、生意氣なと一時は先輩の感情を損ねた程であつた。然るに、他に類書なきと、氣運の進歩とが、この杜撰な小册子をして、忽ち二十版を重れ三萬餘部を世に頒ったといふ事で、私は其製作の繪畫の甚だ拙なきに拘はらず、畫家としての存在を世人に知らるゝことになつた。然しながら、當時私は、まだ敎育者として或は趣味の普及者としてよりも、矢張り畫家として不朽の大作をものすべく夢見てゐた。明治三十五年欧米に遊ぶや、まづ私をして第一に心に感ぜしめたことに、一般の士民が繪畫に對する趣味深く、それを愛する念の熾んなることであつて、かくてこそ美術家も張合もあり進歩もする、單に技術者の努力のみではいけぬ、世人に美術を愛好する心がなくては决して發達するものではない、吾日本に於ては熟心な技術家は可なり澤山ある、併しこれを奨勵しこれを保護する人士は少ない、また世人は殆ど美術に對しては盲目である、眞に吾國の美術を盛んならしめんには、先づ世人から敎育してゆかねばならぬ、吾國には繪畫のために全力を注く熟心な技術家は澤山ある、天分薄き私如きがその方面に彷徨してゐるよりも、寧ろ是迄學んだ技術や斯道の知識を、美術思想の普及、良好なる趣味の博播といふ向に用けた方が、自己將來の利害に知らず、美術に盡す點に於ては却てより大なる効果を得ることもあらんかと、稍心が動いたのであつた。
 歸朝後、私は自己の技倆の甚だ幼稚なるを恥ぢて、故らに中央の美術界を知り、一年有餘を靑梅の地に引籠つて、專ら修養に勉めた。其間『水彩畫の栞』を補正し、改めて『水彩畫階梯』を世に出した。全國の熟心なる兩書の讀者より質問の書状を寄せらるゝもの日に數通、中には水彩畫を學びしによつて得たる種々の利盆を擧げて、この小册子が靑年修養の方面にも多少の貢獻ありし事を告げ越さるゝものもある。私ぼ敢て水彩畫を以て道徳的役目を爲さしめやうとは云はぬが、自然の結果として其功の决して少なからぬ事を考へ、自己の所信に對して世の反響の比較的大なるに心も勇み、終に三十八年の春、專門雜誌發刊の企を抱いて再び東京へ歸ることなつた。
 當時洋畫專門の美術雜誌は一つもなかつた、『美術新報』は所謂新報に過ぎぬ、『月刊スケッチ』は半ば美文を以て頁を埋めてゐた、若し此『月刊スケッチ』が專門的雜誌であつたなら、私は『みづゑ』の發刊を思ひ立たなかつたかも知れない。
 如何なる方法によつて專門雜誌を發刊すべきか。水彩畫に於ける同志の一人三宅克己氏は『月刊スケッチ』の關係者であつて、私の計畫に力を頒たるゝことは望みがない。同じく丸山晩霞氏は、郷里に在つて直接事を共にするといふ譯にはゆかぬ。そこで私は、翻譯物は靑梅に於ける鵜澤四丁氏、用器畫法は友人眞野紀太郎氏等の盡力を仰ぐことゝして、兎に角編輯一切私一人ですることに决めた、若し掲載に耐ふる原稿が集まらぬ時は、始めから終迄私一人で書かう、私の言ふベき事が盡きたなら何時でも廢刊しやう、それには紙數が多くては到底やり切れぬといふので、後付共僅に十八面、原稿紙五十枚を以て一册を作ることにした。第一號を持たれる方は御承知の通り、石版口繪一枚、寫眞版數葉、全部六號組、用紙は赤門百斤、それで秀英舎から仕上りの見積書を見て、多年雜誌の經營に經驗ある人の意見を聽き、賣高等の豫想も立ち、正價を定めたが、全部賣盡して一回の刊行に貮拾圓内外の損失の豫算であつた、勿論編輯に要する費用や勞力はこの以外である、一箇月貮拾圓、たゞ一二回切りなら何でもないが、是が毎月となると容易な事ではない、『みづゑ』發刊のために準備した僅かの資金は、一箇年以内に一錢も剰さぬやうにならう、若しそのやうな事になつたら、質素な體裁に改め、古活字で惡紙に刷つた四ッ折のやうなものでもよいから、繼續して普及に勉めやうと、前途を危みながらも固き決心は持つてゐたのであつた。
 經驗なき事業であるため、多少の混雜はあつたが、兎に角三十八年七月三日に『みづゑ』第一を世に公にすることが出來た、製本が出來て印刷所から持込んで來た時、私は自分の兒が産れた時よりも嬉しかつた、その日にこの小册誌を幾度手に取つて見たか分らない。
 表紙の浮出模様の珍らしかつた爲めか、口繪の嘗て例なきよき出來なりしためか、六號活字のためか、用紙の立派なりし爲めか、或は專門雜誌の他に無かりしためか、百頁十錢なんどといふ、量多く價廉なる雜誌の多い中を、一頁壹錢の割の高價な『みづゑ』が、大なる歡迎を受けて忽ち再版をするやうになつた。出版前の二三新聞雜誌の小さな廣告に、半箇年若くは一箇年前金拂込の讀者數百名を招いた、印刷所たる秀英舎は、一箇月の後に漸く支拂を求むるといふ譯で、豫て用意した資金は殆と手を着けずに濟み、同時に好況のため豫定の損失も免れることが出來た。
 世には三號雜誌といふものがある、初號は珍らしいために澤山賣れる、これを以て前途を樂觀することは出來ないが、他の種類のものと異なり、輕薄な讀者は少ない筈であるから、まづまづ有望と喜ばればならぬ、併し雜誌發行といふ事業は中々思つたよりは面倒であつた、事務的の事は他に委托する考であつたが、それでは讀者と直接の關係が無くなり、要求等も自然分らぬ事になるから、一切自宅ですることにした、發送のため袋に宛名を書くのも一仕事である、誤って一箇所に二册も送るかと思ふと、發送漏も出來る、手嚴しきお小言もある、爲換や封入の郵便切手の紛失もある、全國各新聞社圖書館等への寄贈、讀者より未着との通知によつて再送するなど、經濟上の方面も思はぬ狂ひが出て來る。
 一箇月は直ちにたつ、次の編輯にかゝらねばならぬ、口繪も製版者へ廻すべく寫さねばならぬ、そのうちに校正が來る、再校が來る、時としては三校をも取る、孰れも限られたる時間内の仕事であるから捨て置くことが出來ない、これがため月の半過には私は旅行をすることが出來なくなつた。
 製版術の未熟なる吾國に在ては、水彩畫の石版印刷は困難なるものゝ一っである、第一流と許さるゝ泰錦堂に於てすら、原畫の趣きを傳へぬものが屡々出來る、發行期日の極まつてゐるものであつて見れば改版させる譯にもゆかず、其儘苦痛を忍んで雜誌に出さねばならぬ、口繪はこの面倒に耐えられぬので原色版に代へ、幸に田中製版所に於て、唯一人の秀でたる技師によつて調製せらるゝため、稍滿足なものを得るやうになつたが、それでも時として全然感じの異なったものが現はれるのは殘念である。
 中繪の石版は、經濟の上から第二流の家に頼んで置た、然るにそこでは、出來期日を誤る、こと頻々にて、其結果『尾瀨沼號』挿繪のやうなものを作り出すに至つたので、終に全然石版畫の挿入を廢さんとの決心をさへしたのである。
 用紙の品切、製本者の不注意、其他毎號何等かの面倒のない事はない、それ等は讀者の推察に任して私は爰にその多くを列擧しまい。
 三十八年の秋には、丸山氏は信州から東京に移られた、同時に『みづゑ』にも毎號講話を書いて呉れることになつた、氏は昨年來一身上の都合で、『みづゑ』とばやゝ疎遠になられたが、當時は讀者の知らるゝ如く少なからぬ助力を與へられたのであつた。
 『みづゑ』に同情を寄せられるゝ畫家は漸次多きを加へた、戸張孤雁氏の如き、石井柏亭氏、山本鼎氏の如き、河合新藏氏、大橋正尭氏の如き、夢鴎生氏の如き、石川欽一郎氏、磯部忠一氏の如き、皆それである。畫家以外には、小島烏水氏、山崎紫紅氏、志奈地畔川氏、佐藤卯兵衛氏、沼田松之助など、單に編輯の上のみなので、經營の方面にも、陰に陽に少なからぬ助力を與へられてゐる、そして愛讀者は月毎に甚だ僅かながらも其數を増しつゝあゐのである。
 日本水彩畫會の成立は『みづゑ』とは直接の關係は無いが、其研究所の建築費の幾分は『みづゑ』地方讀者の寄附金より成り、其の學生の大部分はまた『みづゑ』によつて其存在を知つて集つた人々である。在京の人、或は東京に留學の出來る人は、これによつて繪を學ぶことが自由であるが、地方の人には其道が無い、ために三十九年以來、年々夏期に各地に講習會を催すことになつた、併しこれとても場處に限りもあり、熱心はありながらも種々の事情で出席の叶はぬ人も多い、それ等の人々のために、更に會友の規定を設けて、其製作を批評し、間接ながらも進歩の階梯を作ることにした。かくして私は、『みづゑ』のために、恰も兒女の成長を樂しむ親の如くに、其事業の効果を喜びつゝ漸次、煩勞の多きを加へつゝあるのである。
 鳥瞰生氏は、私を以て、創作に奮勵すると云ふやうな氣分は失せて、その畫作は今迄に得た地位を失はぬための努力に過ぎぬのであるまいかといふ。私もある時代には繪畫に、よつて大なる名譽も得たいと思つた。出來得べくば或人々の如くに半世を安樂に暮すに足るべき相應の富をも得たいと思つた、其手段としてに自己衷心の感情の衝動によつて筆を執る場合のほかに、世間といふものも忘れてはならないと考へた時もあつた、一枚の製作のうちには、展覽會|世間の評到| 其様な分子の幾分をも含まぬのでもなかつた併し、かゝる考を持つてゐた時期はあまり永くはなかつた、畫家の全盛期なるものゝ多くは、相撲のそれの如く甚だ短かきものなることを知り、且名譽を得富を得んとするための製作には、必ず幾分の苦痛―少くとも私には|の件ふを感ずるに及むで、私に自己の野心を撤回するに躇躇しなかつた、爾來私はその製作の上に何等の重荷を負ふことなく、氣の向いた儘の仕事をしてゐる、これやがて奮勵の氣分の失せたのであらうとの推斷を得たのである。
 私は嘗て或人からこんな事を言はれた、『君は金があると繪具を買はずに繪を買ふ人だ、君が繪を畫くのは繪を畫くといふことよりも、畫いて出來た繪を見ることが好きなのであらう』と、私はこゝに白状する、繪をかくことも好きだ、繪筆を持つてゐる間は忘我の境に居ることが出來る。同時に美しい自然を見ることも好きだ、その自然に接し其印象を書いて、後の日に自分も見たい、同好の士にも見せたい、世人に自然の美を味はす手段にもしたい。私は初めて繪に志した時分は、他人の繪を見て自分もそれを畫いて見たい思つた、立派な繪に感心して畫家とならうと思つた、後には登山航海等の族行によつて、微妙なる自然に接すること多く、それを畫いて見たいと思つた、自然の事象に感心して畫家で終らうと思った。私は今静寂なる自然界の一小部分の形骸|私の畫風は内部の生命を寫すにはあまりに非天才的である|を寫して、先第一に自から樂しみを享くればそれでよいのである。この修飾なき態度が、畫家としての本分に適はぬものであるならば、私はいつでも畫家といふ名を返上することを拒まない、私は單なるアマチュアを以て滿足するのである。
 現時二三の人を除いては、西洋畫によつて富を得てゐるものは殆ど無い、私の如き態度、私の如き技術にては、これを得ることの困難なるは言ふまでもない。幸にして、父は私に、小なれど住むに足るべき邸宅を遺して置かれた、質素なる生活に慣れたる私には、決して多くの財を要さない、私は『己れの全力を盡して職業に勉強し、身分相應の生活を爲し、他人に誠意をもつて交はり居らば、常に必らず平和幸福なるべし』といふ信念を持してゐる、これは單に空虚の言でなくて、多年の經驗がそれを證してゐるのである、私は將來のためとしては、實に一錢の用意もない貧しきものである、乍併、現在に於ては些の心を亂すものもなく、極めて平穏に樂しき日を送つてゐるのである。
 ある時はこのやうに思つた事もある、若し私が、一切の煩瑣な事業から離れて、繪ばかり畫いてゐたならば、天才はなくとも、今よりは最少しは上手になれやう。若し金が欲しくて其方に心を傾けたなら、今よりは富者になれやう。若し畫も捨て富も捨てゝ、專心教育や趣味の普及に霊したなら、今よりはもつと大なる効果を得やう。その何れにか、少なくとも畫か敎育か二つのうちに方針を極めやうかと、迷つたこともあつた。私は今一箇月をどんな風に送つてゐるであらうか、凡そ五日間は『みづゑ』のために、八日間は研究所及横濱支部のために、四日間は自宅の稽古及來訪の客のために、一日は會友の繪の批評のために、殘る十二日間に於て族行もし製作もし讀書もし交際もし遊びもしまた生活の資をも得てゆかなければならぬのである。私は多忙といふことを苦にしない、むしろ何もせで遊んでゐるのは苦痛である。幸にして私は、畫をかいてゐる時も、原稿紙に向ふ時も、文學の書をよむ時も、科學の講話をきく時も、劇を見音樂を聽き、友と語り旅行をなし散歩をなすといふやうな事にも、それぞれ別樣の趣味を持つて居つて、决して嫌いではない、相應に樂しんで、且多少の餘裕ある心を以て事に當ることが出來る。されば、畫をかきながら他の仕事をすることは、私にとつては別に障りを覚えない、私は現在のまゝで進まうと思つてゐる。
 一箇月の半以上を、物質上何等の益なき事業に費すといふことは、他人には餘程不思議と見えて、往々感服された事がある、意外のお褒め言葉を頂戴することがある、私は其度毎に、いつも恐縮し背に冷汗を催すのである。成程今の世の中に、こんな馬鹿氣た事をする人は澤山は居ないかも知れない、併し私は、私の敎育事業か嘗て一度も義務と思つて爲た事はない、私の趣味私の道樂、即ち好きであればこそやるのである、一種の利己的行動とも言へば言へやう、それに向つてお禮を言はれるのであるから、其時に何となく義務を感じて却て苦痛を覺えるのである。『みづゑ』の創刊、その動機は實に地方の研究者のためであつた、同時に研究者のために多少の勞をとるといふことが、自己にあつて非常の愉快を覚えたからであつた。後進に畫を敎ふるといふこと、それは勿論其人の利益のために心を苦めぬでもない、同時に心を苦しめた其報酬たる、其人々の日々の進歩を見るといふ至大な愉快がある。惡作に向つて批評の文を書く、幾分の面倒を感ぜないこともない、されどそれによつて、繪を解する人の多くなりゆくといふ現象は、極めて愉快に私の心に響くのである。
 以上あまりに自己を語ることが長くなつた。これより少しく『みづゑ』の將來について考を陳べ、此文を結ばふと思ふ。
 『みづゑ』編輯に關する意見要求のうち、『單に水彩に限らず油繪のことも書いてはどうか』といふのがある、油繪水彩と、彩料の相異こそあれ、技術上の意義に於ては同一であるが、あまり範圍が廣くなると編輯上困難であるから、矢張水彩を本位として、パステル油繪の類は時に臨んで加へることにしたい。次は『も少し程度を高くしたい』といふ、程度を高くするといふことは『みづゑ』創刊の趣意ではない、美術家に見せる雜誌でなく、何處迄も初學の人を導くといふのが『みづゑ』の天職であるから、これも全然探用しにくい、併し今後幾分か頁をさいて、やゝ高級の議論を載せることもあらう、いつも繪具の調合談や鉛筆の使ひ方の講義に飽いた人は、他の雜誌に移つて貰ふより詮方がない。次に『記事を多くして成功談や何かを載せて欲しい』といふのである、『みづゑ』の編輯には五日間を限られてゐる、適當な助手でも得られない限りは記事を増すことは出來ない、成功談もよい、苦心談も面白からうが、「余は如何にして何々を畫きしか」などは現代の風潮かは知らぬがあまり好ましくない、但し發表するに足るべき面白き話を得た時は載せやう、殊更に其材料を集めることは當分やらぬ積りである。次に『用紙が贅澤だ』との忠告がある、或はさうかも知れないが、私に言はせると、他の雑誌の用紙がお粗末なので『みづゑ』が贅澤なのではない、頁數少なき雜誌であるから、用紙を惡くしても其費用の差は何の足しにもならない、これはこの儘でやつてゆく考である。それで今後は原色版三枚、中繪は石版なら一枚、寫眞版木版なら二枚位ひ挿入し、本文を毎號三十二面以上とする事にした、そして時には、彩色版ばかりの雜誌も作らうし、本版ばかりのものも作らう、また會友の繪と文章ばかりのもの、一般讀者の、それと同じきもの、日本水彩畫會研究所學生の手にのみ成りしもの、又は名家一個人の製作を集めしもの等、折々變った形式のもとに臨時發行を試みやうと思ふのである。
 『みづゑ』の發行も私の一の道樂であると告白した以上、或は諸君の同情心を失ふたかも知れぬが、事實は事實である、若し『みづゑ』によつて諸君の趣味性に多少の満足を覚へ、諸君の研究の上に利益を感ぜらるゝならば、希くは今後も永久に愛讀者となりて、私の眞面目なる娯樂的事業の上に奨勵と賛助とを與へられんことを切に願ふのである。
  明治四十三年六月 大下藤次郎

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