靜物寫生の話[十]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十五
明治43年8月3日

△今回から一色畫の話をする。一色畫といへばどんな色で畫いても墨繪といふので、これ迄お話した鉛筆畫も木炭畫も皆墨繪である。こゝにお話するのは毛筆によつて書く墨繪のことである。
△いかに静物寫生の研究が必要であるか、いかに墨繪の研究が必要であるか、また其寫すべきものゝ配置や場處や方法は、すでに前に精しく説いたが、ダイブ以前のことであるからこゝにその大略を重ねて説明しやう。
△繪を專門にやる人は、二三年毎日木炭畫の稽古をする。石膏像から始めて、人體を形や濃淡について正しく寫し出す稽古をする、これが他日立派な繪を作る基礎になるので、この素養の不充分な人の繪は、表面いかに巧に畫かれてあつても識者の同情は得られない。
△墨繪の修養を充分やつて後は、人體について複雑極まりなき色の研究をする、これを飽迄やつて置かないと、物の色を見ても表面だけ単純に映るので、素人の眼とあまり違ひのないことになる。
△繪を專門にやらぬ人は、ほんの慰みであるから、何もそんなに苦しむに及ぼないと思ふか知らぬが、碁や將棋をやるのにも、上手になるのには相慮の苦心がいる、自分の慰みでもあまり下手では他人にも見せられない、誰れでも畫いたばかりでは満足が出來ない、自己の感じたことは他人にも示して同感を得たい筈である、アマチュアだからとて上手の方がいゝに極まつてゐる。
△上手になるには順序を踏むでゆくより他に道はない、併し地方に居る人や一定の暇の無い人は、研究所に通ふて木炭畫の稽古が出來ない、それでそれ等の人々は静物畫の研究が必要であり、その静物畫をやるのに墨繪から這入つてゆくのが必要である。
△墨繪で静物畫を確りやつて置くと、景色を畫く時に一目見て大タイの形がわかる、そして細かい部分の釣合も間違が少ない、早く輪廓をとることが出來る(風景寫生に輪廓を早く取ることの必要なるは言ふ迄もない)、平素物を正しく寫す癖がついてゐるからゴマカシをやらない。
△よく草むらや樹の茂みや、ゴチヤゴチヤして形の面倒なものを畫く時、この素養のない人は、いくら其時はかり一生懸命に形をとつても、色を着けてからメチヤメチヤになつて、終にはマルで感じの異つたものが出來て了ふ。
△また明暗の見分けが正しくつかぬと、物が前後して統一がなくなり、其の畫には深味が見えない。
△静物について常に色の研究を充分にして置かないと、やはり實景に向つた時に、見方が粗雑になつて寒い貧しい繪が出來て了ふ。
△タトへば林檎一つ寫すにしても、それは青いものでもなく紅いものでもない、強い光を受けて光つてゐる處は白く見えやう、紅の色も蔭と陽部とは違がふ、暗い處は濃い紫にも見えやう、薄紅もあらう、橙色もあらう、緑もあらう、黄もあらう、径二三寸の林檎の中にもょく見ればさまざまの色を含むでゐるのである。
△それを充分研究した眼で自然の風景を見たまへ、小さなものにさへ澤山の色があるのに、それ等の無數を含むだ景色は實に數へ難き程の複雑な色を持つてゐる、何もそれを一々畫き現はすのではないが、こちらに其色を見出すだけの眼が無くてはいけない。一色でベタリと塗つた遠山の色にも、其心持が含むでゐなくてはならない、平生小さなもので充分色を研究してない人は、空の色は青い、山の色は紫といふやうに至趣単純に見て了ふから、其絃に含蓄がなく直ぐに見飽がする。
△詰り景色寫生を旨くやらうと思ふならば、平生静物畫をやつた方がよい、但し其やリ方は、繪をかく心持ばかりでなく、どこ迄も稽古をする心持で正確に眞面目に熱心にやらなくては何の効もない。
△墨繪で静物畫をやるには、初めは一色のものがよい、石膏の摸型など一番よい、白い布もよい、紙袋のやうなものもよい、其地の花瓶、藥鑵、鐵瓶のやうなものも面白い、そして其材料は形の簡単なものから始める。
△最初は一つだけでよい、書物なら一册でよい、順次書けるやうになつてから、大小二三冊を重ねたり並べたりして配置を工風する、これがやがて構圖の稽古にもなるのである。
△直線に對して曲線のものを配するとか、硬いものに軟いものを並べるとか、線や物質の上にも工風をする。
△たゞに線や物質や大小ばかりでなく、一色畫の噂は特に明暗の對象に注意しなくてはならぬ、主點となるべきあたりに、強い且面白い形の蔭影を作るなど、其書の散漫を防ぐ上に於て最も有効の手段である。
△光リの來る處は一方がよい、曇つた日なら何處から來てもよいが平均しない方が面白い、ドチラか強くなくてはいけぬ、光りの度の變るのは長時間の寫生に迷惑であるから、畫家は多く北の窓から明りを取る。
△物と自分との距離は、一尺位ひの書物なら五六尺離れたらよからう、あまり目の下に見下すやうでもいけない、物によつては低い臺を置く方がよい。
△背景は最初は無地の襖、風呂敷、壁、何でもよい、風呂敷なら皺を作らぬ方がよい、少し上手になつたら背景の布に、寫生する物と調和するやう、少なくも邪魔にならぬ範圍で皺を造る、目的物が曲線のものなら、變化を與へるために直線的の皺を造ることもあらう、また目的物に影の面白昧がないとか、又は明る過る時は、布で工風して深い蔭や暗い蔭を造つて目的物を引立せることも出來やう。
△モット進歩すると、背景の布に模様が這入つてもよい、織出し模様の、光りの工合で處々現はれるのも面白いものである、併し呉々も言ふて置くことは、背景は目的物を活かし目的物を助くるためであるから、飽迄も邪魔にならぬやう目立ぬやうに、そして無關係にならぬやうに注意しなければならぬ。
△一色畫をやるには是迄の道具。ては間に合はぬ、畫板は鉛筆畫の時のでよいが、紙は水貼にした方がよい。
△用紙は水彩畫と同じくワットマンがよい、上等の畫用紙でも間に合ふ、畫用紙ならば紙の裏を用ひた方がよい、繪具が延びずにシミ込むやうな廉價な紙や、光澤のある繪具の★る紙は役に立たない。
△紙の大さは寫すものと時とによつて一様ではないが、半紙一枚位ひの大きさなら大テイのものは畫き得るであらう、大きな紙へ粗末な描寫をするより、小さくとも眞面目にやつたものゝ方がよい。
△繪具は暗い色の透明質でさへあれば何でもよい、通例はウオームセピヤを用ひる、普通のセピヤにバアントシーナを少し混ぜたのもよい、墨にライトレッドの混ぜたのもよい、ニユトラルチントやインヂゴーは寒くなつて物にょつては感じが出ない、オリーヴグリーン、クリムソンレーキ、ブラオンマダー、パープルレーキなども用ひられる、明るい緑やオレンヂや黄に屬した色は、強いタッチが利かないから用ひぬ方がよい。
△種類はチューヴ入が便利である、次は練製で、ケークなら湯にとかして軟らかにし、グリスリンをまぜて適宜に練合せて置く。
△筆は五號と八號位ひのが一本づゝあればよい、毛のあまり柔らかでないもので、★毛筆が一番よく、廉價で使用に耐えるのは夏毛筆である。
△パレットは、一色畫のうちは白い皿でも何でもよいが、早晩澤山の色を使ふやうになるのだから、十四五位仕切のあるニッ折パレットを用意するとよい、なるべく大きい方が便利である。圓形や角形の平面なパレットはあまり役に立たぬ。
△筆洗は、室内のことであるから、コップでも鉢でも何でもよい、大きい方がよい、小さいものなら時々水を更へることを忘れてはならぬ。△鉛筆畫と異つて膝の上でやるのは不便であるから、畫架が入用である。戸外寫生用の小さなものでよい。
 無ければ、何か机のやうなものに畫板を立かけて置ても間に合ふ。
△このほかに入用なものは、輪廓をとる硬い鉛筆、消ゴム、筆に含むだ水を加減する木綿の小さな布だけでこの布はガーゼが一番工合がよい。
△道具が調ひ、寫すべきものが極まつたらいよいよ寫生にかゝる。
△畫板は目と相對して平面である方がよい。あまり直立したのもいけぬ、傾き過てもいけぬ。
△輪廓は正しく取る。大タイの形や鈎合を畫いて漸次細かい部分を見てゆくそれでいよいよ間違ないと趣まつたら着色する。
△輪廓の時は、鉛筆を輕くさべ使用すれば、幾度筋を引いて取直してもよい。そして着色する時にゴムで消さなくともよい。
△輪廓を取るときは、一定の姿勢を保たなければいけない、自分の首が動くと物の形が違つて來る。
△物にもよるけれど、實物より少し大きめに描いて畫面にあまり空間を残さぬやうにする、イヂケたやり方はいけない。
△見取枠で見れば、畫面のドノ位ひの處にモデルを入れてよいかといふことが分る、稽古だからといふて搆圖を無視してはいけない。

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