水彩肖像畫法[七]

夢鴎生
『みづゑ』第六十五
明治43年8月3日

 畫面全部は前の如くして色が置かれてある、大體の調和も全畫圖に周浹したれど極くの強光と極くの暗い所がまだ缺けて居る、是等に手に着ける前に先づ確かめをせねばならぬ、繪の上部から始めて凡ての形を確實にする、今眼に就いて一例を擧げやう。
 影の最濃い部は周縁に近くにある、中頃の部分は反射の光に由り明かなるものだ。眼の上の蔭が餘リパープルであるなら緑色を用ひて訂正する、此時の緑色はプリユーと極少量のインヂアンエルローとで作ることを忘れるな、若し叉餘り緑色が勝つて居たら肉色を用ひよ、虹彩の青色をば、セピヤとコバルトとで低めよ、又其の色で白眼も低める。
 眉毛をばセピヤを使って幅廣く影でも描く様にかく、毛一本一本を描く様ではいけない、側面向きであると眉毛の下に褐色の影が認めらわることがあるが、これはヴァンダイクブラウンで始末する、顔の重もな明部は通常額にあるから此を示さねばならないが方法は後で述べる。
 實際が示すのならば何處でも圓味をもたせ柔みをつけなければならぬ。
 影は種々の形を現はすものなれば、畫中の強い影は色彩も充分に形も正確に描かなければならぬ、そして周縁は鼠色を保たねばならぬ。
 影がパープル勝ちならば緑色を用ひて弱める、又緑が勝つてゐたらパープルで仕事をする、若し青が過ぎて居たらヴェネチアンレツドとエルローとで出來た橙色で其上に線描をする、口元をば影色の一線又は二線を用ひて仕上をする、緑をばブリユーを使つて柔らめる。
 唇の端にも僅かの青昧を帯びた蔭がある。
 頤下の深い影は少しセピヤを帯びて居る、額の影の緑は緑がかつて居る、耳をかく時は影をば暖かく、且赤味を勝たせる様にする。
 線描が餘り眼立つて見えたら、其の上に清水に浸した筆で濕ふして軟かい手巾で拭ひ去るがよい。頭部の描き法は先此で終はりとする。
 前にルーベンスの彩色の方則を述べて置いたから、今★に之を實際と照合して讀者の注意を惹起したいと思ふ、前額のハイライトはヴェネチヤンレツドの肉色と相接して居る、そして蔭に移つるにつれてインヂアンレッドになつて行く、即ちルーベンスの看取した通り自、黄、薄赤暗紅の順になつて居る、肉の大部面に置いた青色は下の紅色と相混じて鼠色調を生ずるから即ちルーベンスが冷かな鼠色調を置けといふたのと一致をする、吾等は便利上、ヴェネチヤンレッド、インチアンレツド、ピンクマダー、ヴェルミリオン等の赤の幾種類を用ひるけれども、單純なる赤、青、黄を用ひても前同様の色彩を得らるのである。されど之には非常なる技巧を要する、自然は種々の有用なる彩料を吾人に供給をして居るのであるから、之等彩料を使用した方が三原色のみを使用するよりも便利で骨が折れないで良いのである。
 畫面を左方から投入する光線で見るとハツチングが柔かに平滑に見える、されど異なる方向から畫面を見るとハツチングが筋立ちて見える、されば描く時と異なる方向から光線の射入する場所へ畫を置いて見て、色を深めずに充分滑かに畫面を仕上げる事は大切である、時とすると作業するには樂であるけれども、充分雅なる仕上となすには紙面が餘り粗ら過ぎる事がある、此の場合には畫面に紙を置いて其上から圓い堅い滑かなもの、例へば象牙の環の様なもので摩擦するのだ、畫紙が枠に張つてあるなら、固い滑かな物、例へば硝子板の様なものを摩擦すべき畫面の背中へ當てがつてやれば畫紙を破損する事は無い、かくして指で滑かに感する迄摩擦するのが良い。
 後になつてから取り去るなら、光部を塗りつぶすのは餘計な仕事と思ふかも知れん、されど彩色しながら残し置くよりも、後で取り去つた方がエフエクトが良いのである、其の取り去りの仕方は次の如し、取り去る部分だけ清水に浸した清潔な筆で印をつける、そしてパンの小片か柔らかい小布で水平に輕く摩擦するのである、若し圏状に摩すると紙面を害するから氣を付けるが良い、水をつけてから七ッ八ッ位まで計へる時間其儘に置いて、それから拭き取れば直にやるよりも光が強く現はされる、此日的に使用するパンは少し古びたのが良い、始終使用する時は濕つた布に巻き込んで置くと何時でも使ひ頃にして置ける、或部分の輪廓が餘り固すぎるか廓然となり過ぎて居るなら似寄つた色で端の方に加筆する、凡て自然物は輪廓の線はない、殊に肉に於て然りだ、肉は何處でも圓く且柔かである。
 眼の光點はチヤイニースホワイトで點ずる、此の方法は左の手にホワイトの筒を保持し、其内に筆端の尖つたのを挿入してするのだ。
 パレットへ少し出して筆で混じてそれを用ひても宜しい。
 水繪具は乾くと光澤が無くなるので、時とすると極の蔭の部分ヘゴムを塗る必要がある、かくすると深味を現し得られる。されど全部仕上がつてからやらなくてはいけない。背景にも此方法を用ひることもある。
 ゴム水はゴムの一と、蒸餾水か濾過したる雨水かの七とを合せたものである、併し、これよりもゴムの量を減じても宜いのである。
 以上述ぶる所は普通中年の人に就いていふたのであるが、此等の描法を能く味つたならば如何なる顔面の人でも描く事は左程困難を感じまい、されど或る人の影や明暗の中頃の色は緑がかる事あり他の人はパーブルがかる事があるのを看取せぬばならぬ。
 色黒き人は普通の人よりも黄色が多い、そこで影が緑がかつて來る。
 人によつては顔の一部にヴエネチヤンレッド、インヂアンエルローかヴエルミリオン、ピンクマダー等とで出來た赤色を置く必要のある事がある。
 大家の作品を水彩で摸寫をするに當りて、或る畫家は光部にボデーカラーを置くを常としてゐる、此には純粋のホワイトを光の形だけに塗つて、其が乾き上つて後に其の上を原畫の色に似寄つた透明な彩料を軟かい筆に含ませて輕く手早く塗るのである、此の際にホワイトを攪きまぜる様にしてはならない、若しそんな風にするとホワイトと上塗の彩料とが混じて汚濁した色になつて仕舞ふ。
 ホワイトは此外にレース、眞珠、黄金細工品の光を示すに使用されたり、改竄をする時にも用ひられる、改竄するには下の色が見えぬだけに濃くホワイトを塗つて、乾いてから所要の彩料を其上に置くのである。
 衣服
 衣服の描法も毛髪のと同様で、先づ全體に趣を與へる。大襞から描きはじめ次第に小さな折目等に及ぼすのである、ハイライトも薄く彩どる、そして全體をローカルカラーで彩る、其が乾いてからハイライトを除去るのである、そして襞衣をば角立たせ、其形を適宜に且反射の光線を受けた所は周圍の部分よりも曖昧を帯ぶる事などを能く観察するがよい。絹衣と毛織の衣服とは確に描き示されなくてはならぬ、此の材料の相異は襞の出來具合や光澤で明示される。
 衣服に關したる一般法として、光部が冷かな時は影は暖かである、一例を擧ぐれば白色の衣服で中間の色はコバルトと少量のインヂアンレッドで、蔭はセピヤである、されど白色の衣裳は周圍にある物によつて影響を蒙むるものである、バックが緑色であるなら白衣の蔭と明暗の巾間色は緑色を帯ぶる、若しバックが青色ならば矢張青色を帯ぶるのである。
 黒色の衣服では光部は冷かで蔭は暖かい、黒衣に用ふる黒色はセピヤ、レーキ、インヂゴを適當に混ずれば出來る。
 青色の衣服は光部及半光部は冷やかで、影はレーキ、又はレーキとセピヤとで暖かにする、青色がパープルに近寄るとオレンヂを暖かにする、コバルトは光れる方べ用ひ、影にはフレンチ、オルトラマリンを用ひ深い影をばインヂゴとレーキとで強めるのである。
 黒いレースなどが深緑と對照されると餘程黒色が暖か味を有つ、そして黒の代りにワーム・ブラウンか、又はヴエネチヤンレッドで一層強めてた色が用ひらるべきである、此の色が對照によりて黒く見える。
 黄色の衣裳は蔭はバーントシンナで仕上にはバンダイクブラウンを用ひる、ローカルカラーはガンポジかインヂアンエルローである。
 一般に衣裳の中間色は冷かであるべきである。

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