伊太利の旅[二]

岡精一
『みづゑ』第六十五
明治43年8月3日

 八月二十四日(承前)
 今日はMUSEE WIERTを見た跡でMUSEE ROYALDE PEINTURE ANCIENNEET DE SCULPTUREといふ、古代の繪書彫刻の類を蒐集したる國立美術館を縦覽した、此處にはフラマン派の作が多かつた。
 

彫刻ウイエルツ筆

 八月二十五日快晴夜細雨降る
 午前九時過る頃武石氏來訪せられ、。再び昨日見物した國立美術舘を見に往つた。この美術舘は市立として一八〇三年に出來たのであつたが、一八四一年國立となつたものだ。舘内に陳列されてある繪畫は七百有餘點で、多くは十五世紀頃のフラマン派である故に、其當時の作品を批評研究せんとする者等には特に必要で、只これ計りではなく、畫が好きである人々は是非一度は見て置くべきものであらふ。此處の縦覽が濟んだから、次にMUSEE MODERNE DU PEINTURE即ち、近代繪畫の陳列舘を縦覽した。此舘も亦一八三五年市有として設立せられたのを、一八四五年に國立に改めたのだといふ事で、現存せる各國大家の作品を陳列してある、勿論其内に幾分は近き過去に物故した人の繪もある。
 八月二十六日晴夕驟雨來ル
 午后零時四十六分の汽車でアンヴェルスに徃くので、此朝はグツグツと用意をして居ると、武石氏は三人の巡禮者の出發を途るために態〃旅館へ來訪せられた。やがて時刻も近づいて來たといふので、一同旅館を立ち出ると、同氏亦停車場まで送つてやらうと言はるゝから、御深切に甘まへて御言葉に從ひ、馬車を驅て停草場ガールドノールに着いた。暫く待合室で話して居ると發車の時刻になつた、こゝに再會を約し、特別の御盡力と御歡待を謝し、握手數回、汽車は遂に停車場を離れた。車窓から展望を肆にしつゝ、甲問へば乙答へ、丙語れば丁和するといふ調子であった、須臾の中に汽車は一望際なき平原を通過する、又小さな村落を横きる、彼處此處に綿羊の群、村落の兒童、此外種々の畫的のものが見えた、さうこうして居る間に都會が手に取る様に見える、最早汽車は進行を止めた、此處がアンヴェルスであった、時に午后二時〇六分、HOTELTERMINUSと云ふ旅宿で泊ることゝして、部屋を定め行李を整頓し、已に相互間に約束も出來て居る事だから直に宿を出でゝMUSEE ROYAL DESBEAUX-ARTSを縦覽した、旅宿からは僅に十數分の道である、此美術舘は一八九○年に竣工したもので設計者はJWINDERSとFR.VAN DYCKの両氏で、希臘ル子ツサンス式建築である。此舘の後部には、此土地で止れた大家で有名なANTON VAA DYCKの名譽を後世に傳へる爲にとて大なる彫刻が据えられてある、これはL.MICNONといふ彫刻家の作であるといふ事だ。又此舘の正面の西方に(荷卸人)の刻像が立つてある、これはC.MEUNIERといふ彫刻家の作で見事な物である、此外にも數多の彫刻が据えて有つたが、それ等は省略する。
 RUBENSとVAN DYCKとの作品は舘の右側の室に蒐集されてあつて、其他は彫刻を陳列し、二階は悉く繪畫の陳列に充てゝあるが、昔の大家の作品計りでも八百點以上に達する、其多くは土地の各寺院から運び來ったのだと聞いて居る、舘内に陳列せられたる古るい大家の作品中、最も傑作として認められて居る繪はRUBENSのAdr-ation of the Maai,Christorucified between thetwo thieves,Christ a lapaille,及びVAN DY-CKのGeutoment等である、尚其外の大家の作にも見事なものは随分あつた。

モニエー作苛積人夫

 當地の大伽藍、即ちCathedralは一三五二年に建築に取り懸つて一四四九年に竣工を告げたといふ事だが、一度祝融氏の災に罹ったそうである。現今同伽藍の西部の正面はフランス・ビーケルマンといふ建築家が二九○一年より一九○三年の間に復舊し、ヴアン・ウイント氏が近世のゴヂツク風の凸彫を以て此入り口を潤飾したといふ事である、此處には彼のRUBENSの傑作として世に名高きDescent from thecrossの繪がある。これは一六一二年に出來たもので、一七九四年以降一八一六年迄は巴里にあつたが、一八五二年再び舊の處へ復したのだと聞いた、此外にも尚數多の作品は保存せられてあるが、これを省く。
 

ルーベンス筆基督を十字架より下す圖

 偖又、公園は市の中央に位して居つて、其形は正三角形を形造つて居る、北方の隅には畫家のQUINTEN MATSYSの大理石像が安置してある、公園の中央より南方に亘りて大なる池が設けられてあつて、甚だ幽遽なる趣がある。此池の西北方の岸にもJEAN VAN BEERSの青銅製の紀念碑が建つて居る、畫家HENDRIK LEYSの彫像はアブニユー・ルイズ・マリーといふ所に建つてある、これは公園の西端の中央部だ、まだ此外DAVID TEN-IERS,の銅像、LOOS紀念碑等も建てられてある、此公園の名はもJR.BEERSといふのである。
 八月二十七日晴夕雷雨
 午前再度MUSEE ROYAL DES BEAUX-ARTSを見直した。午後壹時半此館を去て、空腹を愈し、次で、MUSEE ROYAL DES BEAUX-(ミューゼ、プランタン、モンチュ)を縦覽した、此家の始祖は、一五一四年に生れて一五八九年に歿したCHRISTPHER PLANTINといふ人の家で、一五四九年始めて印刷の業を當地に開きたる有名なる人である。一五七六年以降今日に至るまで、此事業は連綿として繼續せられて居る、プランタンの此業務に於て鼻祖であることはいふまでもない事で、其後は又其養嗣子のMORETUSがこれを承け續いだ、十七世紀の中葉の後は專ら聖書の印刷に從事した、故にフイリツプ二世から全西班牙領地内に於ける專賣権を附與したさうであるが、一八〇〇年に此專賣権は徹回せられたから、再び舊時の業務に復した。今こゝに藏せられてある古器物類、壁絨、繪畫(肖像畫九十點、此中ルーベンス筆十五點)並に他の蒐集されてある物件等は、此建物と共にアンヴエルス市の有である。

ミューゼプランタン

 今夕五時五十五分、當市を去てアムステルダムへ往く筈であるから、此處を立出でゝホテルへ歸り、行李を整頓して居ると、言ひっけて置いた馬車も來た、又例にょり荷物と相乗で中央停車場へと急いだ、停車場へ着くと間もなく發車した、僅々數分あるかなきかの間で汽車は動き始めた、出立の前から空は墨を流した様に眞暗で細雨も伴ふて居たのであつたが、汽車が幾哩か進行したと思ふ時分から、俄に車軸の雨で、同時に大雷鳴とはチト御念がいり過ぎて居る、霹靂の響も恐ろしいが、其前に赤電の車窓を照らす有様は餘りに連發であるから氣味悪く感じた。乗客等が禁制品を所持して居るか否かを検査する所の停車場はRosendaalといふ驛である、此處へ着いた頃は細雨は降つて居たが雷鳴は殆んど収まつた。偖汽車の進行を止めると、乗客は荷物携帯で悉皆下車する、それも皆先を爭ふ姿である、それにも拘らず、吾々三人の順禮者ば、濟ましたもんだ、泰然として車内に座を占めて居ると、前に荷物携帯で往つた乗客の二三人が、又舞ひ戻つて來たから、様子を聞くと、此處は税關官吏の出張して居る處であるから、乗客の悉皆は禁制品の有無を検査せられたのだといふから、同行三人の驚きは又格別である、夫れでは吾々のも検査誰を貼付して貰はぬと先で面倒が起つては困ると氣が付いた、時計を見ると、最早僅かに四五分で汽車は出發するのだ、如何したらよからふと思ふて居ると、天祐なるかな、三名の税關吏が車窓を外からのぞき込んで何か言ふて居るので、これ幸と呼び込んで、荷物を指し檢査を乞ふた、かうなると、先きが負けだ、もう時間が無いから、宜い加減にして檢査濟を記して呉れた、これで先づ一ト安神をした、後で考て見れば、重い荷物を持ちあるいて、ゴコゴコせずに濟んだのだ、これは慥かに赤毛布の利得である、なぞと後に道理は、コジ付けられるが、其現場では矢張心配であつたに違いない。荷物の檢査が濟む、税關吏が汽車を降りる、直ぐ進行を始めた、汽車中は暗であるから窓外のものは何にも見ずに仕舞つた。九時五十分、目的地のAm-sterdamに到着したので、BibleHotelといふ宿の客となった、晩餐後時間もあるから町見物に出懸けた。
 アムステルダムは、和蘭陀國中、商業地の最たるもで、叉欧羅巴州中一等商業地の一に數へられ、爾且船舶に關する大會社の牙營であると謂はれて居る、而して市街は中々立派である。
 

ビーブルホテル

 八月二十八日雨夜雷雨
 今朝はMUSEE MUNICIPAL(Stedelyk Museum)を見た、建築は全くDutch式で、これは一八九二年から一八九五年まで約四年の星霜を費してWeissmanといふ人の設計で出來たのである、其第一階には當國で出來た古代の家具類と工藝品の蒐集とが陳列されてある、此中第二室には、日本及支那の家具、什器、漆器、象牙彫刻、並に陶器類等が陳列せられてあつて中々見事な物もあつた、近世並に現今に於ける和蘭陀派の傑作、佛蘭西派特にバルビゾン派の傑作等が陳列されて居る、併し獨乙、英國等の作は誠に僅少である。
 此頃館内新作品の展覽會開催中であるから序を以て縦覽したが、これは學生團體の催で、巾には可なりのものもあつたが随分俳畫的のものなども數多陳列されてあつた、除程目も足も疲勢を覺えたから、VondelParkといふ公園内を??することゝした、此處はミユーゼミユニシパルの西北で、其重なる入口はSta-dhouders-Kadeといふ所からである、其傍らにミユーゼライスといふ美術館が建てられてある。園内數多の池沼があつて、水鳥は三々五々岩石に憩ふて居るのもあれば游泳して居るのもあつて、風光閑雅とでも評すべき様に思はれた。池の西方に彫像が聳えて居る、これは一八六七年に建つたもので、有名なる詩人のJoostva-n den vondelの像である、彼れは悲劇の作家として最も著名なるものだと聞いて居る、園内にMelkh-uisといふ小さな家があつて新鮮しい牛乳を賣って居るから、立寄つて休息することゝした。
 此日我征露の役も局を結び、平和條約が締結せられたといふことを聞いた。

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