ターナーの水彩畫[二]
鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ
鵜澤四丁譯
『みづゑ』第六十六 P.10-12
明治43年9月3日
近時の批評家はターナーの技巧がかくも一大發展を爲したのは、實に氏の親友なるトーマスに負ふ處大なりと説いて居るものがあるが、この理論に付ての考燈を少しも擧げて居らぬ。ギルチンの一大書伯であつたのみならず、一八〇二年に早世したのは英國の一大損失であつたことは、今更に余輩の言を俟たない。ギルチンとターナーは非常に親密な間柄であつたことは無論である。一七九五年迄の両氏の作品は何れを何れの作とも容易に判じ得ない程に酷似して居つた。しかしギルチンの初期の作品を研究するに、一七九七年以前にターナーの新發程と目すべき繪の厚みや筆力の大膽な處はギルチンの繪には一つも發見することが出來ない。
さてターナー生存當時の輿論を檢するに、これと殆ど反對の説が多い。一七九七年の「セントジェームスクロニクル誌」の如き、ターナーがローヤルアカデミー展覽會に出陳の作品を稱揚して後、ギルチン氏の作品は大體に於てこのターナー氏の畫風を蹈襲したものといふてよいといふて居る。又一七九九年の「ゼ、サン誌」はターナーの"Carnaroon Casrle"の讃辭を長々と述べて、ギルチンの作品がターナーの作風に似通ふ處があるといふて居る
猶ターナーの一七九七年一七九八年及一七九九年の大作にある特色の如きはギルチンの總てに於て見出すことが出來ない。このターナーの畫面に對するときは一種不可思議に優麗な感じが湧いて來る。實に神秘的で無限大の感じが起る。そのいひ知れぬ人を魅する力は所謂詩歌ともいふべきものである。これは氏の作品全體、就中水彩畫に著しい。誠にストランドの陋巷に生れ、名ある教育をも受けざる一匹夫であつて、強烈な智識あり、鋭敏なる野心を抱ける一大詩人であつたのである。此時代の氏の作品は"Distant Viewof Lichfield Cathedral"であるが、これが氏の畫風の變化した特徴を著しく示して居る。これと仝時の作品にThe Refectory of Fountain Abby とCader Iris の寫の二枚がある。共に米國に藏されて居る。一七九九年ターナーがローヤルアカデミーの委員に擧げられてから後も製作を盛んに續けて居つたが僅の水彩畫と夥多の油繪を出品した。次の数年は氏が筆力の優健となり、配色の妙を極むるに至つたが、畫風の變化は殆んとないといふて可い。エヂンバラー及其附近の景色の大作が多い。
此時代に氏は版下繪を描いたが有名なオクスフオード、アルマナクスのを除いて多くは小品に過きない。オクスフオード、アルマナクスの繪とは大學の依頼によりて一七九八年及一八○四年の間にその口繪を描いたのである。今猶仝大學に藏せられて、その構圖及運筆の妙を彫刻家の稱賛して措かざる處である。ターナーの水彩畫の作品中の大部分を占めて居るスケッチに對して一言しやう。氏は旅程に上れば必ず澤山の習作畫を作る。先づ多くは鉛筆畫であるが或時は水彩畫を作つた。また屡クレオンもしくは油繪をも製作した。スケッチは速製のものもあり、また頗る精細を極めたものもあつた。殊に渠の目撃したものは天空、雲覚、水、其他著しき空氣の結果等何れも色彩の覺書(ノート)を記して置く。皆快速に配色したものであるが、而かも明亮に記されてある。氏の一七九八年の寫生帖中には黎明、晴、雨降り來る樣、日光、天候、驟雨、霧の景等の二十五種の説明があつた。かゝるスケッチや習作畫は氏が晩年の大陸族行(一八○五年)に至るまで續けて居つた。其數一萬九千に昇つたが、これ等ばフィンバーグ氏が永い訴訟を續けた結果高等法院の判決に依て國民の財産であるといふ事になつて、氏に依てナシヨナルギヤラリーに陳列する事になつたのである。何れもターナー研究家の嘆稱して描かないものである。
一八○二年にターナーは初めて大陸に旅行した。第一に印象したのはキヤレースの町であつたので、歸途有名なるかの"Calais Pier"を描いた。併し氏が日子を多く費したのはスウイツランド、サヴオイ、ピードモントの地方であつた。其結果としてホンネビル、チヤモーニツクス及ジエ子ヴア湖の諸畫及ライケンバツクの瀑布、アーヴエロンの氷田及氷源等其他フアーンレーの諸畫等が出來たのである。
有名な大作の具入彩料のスケッチThe Devil's Bridge 及Gothard Pass 等もこの時の作である。瑞西に於ける作品中の三枚を氏は一八○三年のローヤルアカデミー展覽會に出品した。
一八○三年より一八一二年までは氏は水彩畫及油繪を華族其他の富豪の好畫家からの依托揮毫をして居つた。一八○七年にはLiber Studiorumの製作に從事した。これは此頃英國出版者が版に上ぼして立派に成功したものである。これに付ては彫刻家の手引の爲めにセピヤ畫百余を描いたといふことである。これ等の畫は概ねナシヨナルギヤラリーに陳列してあるのである。
一八○三年より一八一二年に至る十年間に、ターナーの水彩畫の畫風は著しく變化した。暗いブリューと深い黄金色のブラオンが無くなつた。この新畫風はターナーのヨークシヤイア時代として知られて居るので、一八○九年頃から漸次變化して種々の發達を遂けて一八二○年に至って居る。
この頃の畫題は多くホアーフの勝地に取つて居るフアーンリーホールの近傍から取つたのである。このフアーリーホールは世界のターナー研究者が必ず訪ふ處てある。この館には今猶ターナーの作品を藏して居る。ホアーフ近傍の作品は勿論瑞西其他の外國の作品スコット、バイロンの詩集の挿畫、鳥魚等の習作畫がある。又油繪をも藏して居る。
ラスキンもその著述「近世畫家論」中にこのターナーのヨークシヤイアの作品は氏の熱血を注いだものであつて、最愛すべき、簡單に無造作に眞を表現して居るものてあると非常に稱揚して居る。(ダブリユー、ヂーローリンソン稿)