寄書 愛讀の一雫
至樂生
『みづゑ』第六十六
明治43年9月3日
△『みづゑ』讃者諸君をして、繪畫上其精神と技術を向上せしむる所以の一は、『みずゑ』自身の眞價はさて置き、眞に大下先生の人格に依るべき事と、生は轉た感概に堪へず候、先生の繪畫は或は他畫伯に依りても求め得らるべし、然れ共人格は他に求め得られざる事を、生は大聲して憚らざるなり。
△されど生は時今諸君中『みづゑ』紙數の少なきを喞ち、繪畫のより多數ならん事を願ふ者有之候に付、或は諸君が『みづゑ』の主志に反したる眼を以て是を視るの愚をせらるにあらずやと思ひ、憂慮に堪へず候、是れ即ち生が一言已むを得ざる所以也。
△畢意何等の思慮もなく、無我夢中に此誌を通覽通讀するは『みづゑ』にとりて甚だ迷惑千萬なるべくと存じ候、於茲生は諸君に眼を以て讀まず、頭を以て讀まれ度く、又此小冊子を一貫して讀まれ度く、希望に堪へず候、されば從て陣腐なる投書も減ずるなるべく、愚問も其跡を絶つべきこと確信致し候。
△勿論理想の圏套よりせば、『みづゑ』は或は完全を期し難きも、是れに不足を唱へ候は、自己の見界の狭さきを知らずして、徒に寃を編者に加ふるに過ぎざるのみ、倫を知らすと謂つべきなり。
△仰も研究雜誌愛讀の主意たるや、没我して速讀するにあらず、之を玩味し、之を研究し、之れに工夫を凝して讀書すればこそ、妙味も湧くべく、信條の人を縛るが如きも發見し得らるべく、乃ち月一回の小冊、以て南面百城の主よりも、より多き興味を覺ゆべく候。
△人に人格あり、社會に社會の格ある如く、雜誌には雜誌の格(生は是れを誌格と假に呼ぶ)を有する事と存じ候、野生は投書家諸君に、吾が『みづゑ』の誌格を害する事なきを願ひて、擱筆致候。(完)