寄書 繪筆日記の一節
神田周三
『みづゑ』第六十六
明治43年9月3日
一日
僕はいつも、書嚢の中の繪具箱の片隅を占領して居るさ、此の暑いのに毎日毎日廣からぬ所とておとなしくかしこまつてる暑さと言つたら此の筆では書きつくされんのだ。
二日
あまり暑いのでいつ知らず心地よく晝寝して居つたが、ごそごそと音がするので、ふと眼が覺めた、何をするのかしらはゝ――主人公また寫生を初めたらしい繪具箱を引出す音がしたのだろ――繪具箱が出た以上僕はおとなしく主人公の命に從はんければならない運命なんだ。
時にはつらい事もあるが、ぽんぽん怒つた所で同じ事、やはり從順にして居る方が餘程よいかと一人定めさ。
扨て主人公は、僕を取り出してざぶんと筆洗の中につけた、それも一時だが實に好い心地だつたよ諸君もすこしは經驗があるだろ――暑い時に水中にはいつた時と同じ感じだよ。
今度は繪具を解きだした、初めに僕の毛をこすられる時は實につらいよ、然しそれも少しの間だから辛棒が出來るのだ、主人公は今迄にない四つ切を引張り出し、此の暑いのに一心に書きよるが今日はとても仕上るまい。
三日
昨日の處へやつて來た、構圖は一寸面白かろ―と思つた清き小川の流を前景に、右手の岡の上にフカースグリーンの樹木あり、はるか彼方に森林あり、コバルトの淡き遠山あり、空は一面のオルトラマリンだ、すこし構圖が古くさいが主人公には適當だろ――。
しばらくすると學校歸りの子供がやつて來た、寫眞取らあ―。寫眞であるかい、寫生だよ。
と少し大きい子供が辯解したよ。
彼方に少女が野歌でも歌つて居るのだろ――、主人公の四つ切も仕上つたらしい。(完)