寄書 でたらめ

帶黄紅
『みづゑ』第六十六
明治43年9月3日

 或人は色によつて形の大小が異つて見えるから注意して元の儘の形を畫けといつた。然し私は異つて見えた儘畫いてよいと思ふのだ。小さく思はれ見えたら大きなものでも小さく畫いてよいと思ふ。但しそは美的感想を害せぬ限りであつて、無論その繪は繪の目的を達したものでなければならぬ。繪は寫眞ではない。
 尺取虫が延やうとするには短かくならぬと延ない。繪も縮まつて修養する、して一通りになつて大いに延ねばならぬ。
 美しいはでやかな繪を下品だといひ、暗い繪か色の淡い繪を上品と定めて居る日本畫好の人達は、西洋畫も同じ樣に言ひ散らす。(無論專門家ではない)赤だらうが黄だらうが濃からうが淡からうが、そんな事で繪の價が定まるものか。
 大下先生の水、深い調子。河合先生の竹。兩先生共自然の一部――或る部分、の秘密をつらまひて居られるのだ。畫けるといふより感じる性質があつて感じられたのだ。先生同等の枝巧の有る先生方は他にもあるだらうが、感じることは出來ないだらう。少くとも同じことは感じられぬだらう。悟るといふことは要するに確かに感じて是れが畫面に表すことが出來ることを言ふのだと思ふのである。
 或人の繪――畫風を全然眞似するのは惡いであらうが、自分の目的とする精神及び手法等は大いに取らねばならぬ。丁度人の論に自分の思ふ所と同じ點があつたとき、それを容れる樣に取容れねばならぬ、して己の感じた處を一層強めねばならぬ。然し氣に入らぬころは一點も眞似してはならないと考へる。
 繪を畫き出して餘程物事に頓着せぬのんきな心地になつた。然し繪に關しては多いに頓着するやうになつた。自然に關しては多いに頓着するやうになつた。精神といふ樣なことにも面白味を持つやうになつた。
 暗い背景の前に明るいものがあると何かくつきりとした感じがして、明るい物の影を附け始めても緑だけは附けたく無い樣に思ふ。然しその縁にも影はある然し背景よりは明るい。
 濃い色を塗つて其の上に少しまた濃くしやうと思つて、それより淡い色を塗つたら前より淡くなつた。
 ホワイトを塗つて見ると黄味を帯びて白味よりは汚れて居るが、乾いてしまふと青味を帯びた程白くなる。グリセリンを混じて塗ると佳い光澤があつて黄味は無いが、なかなか乾かない』繪の事なんかちつとも知らない奴がこんなことを言ふ。「畫家は劣等な學問の無い仕末に了へぬ奴等」。と然しこんなことに誰も頓着せないだらう。全然己れの無能をさらけ出した言ではないか。(完)

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