學生用の繪具

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十七
明治43年10月3日

 水彩畫の寫生に、繪具が良いから必ず佳作が出來るといふ譯はないが、使用する材料があまりに粗悪であると、自然の色彩を畫面に傳へることが出來ない故に、タトへ稽古でも、繪具の良否について多少研究して置かねばなるまい。
 多くのアマチュアは、私共の繪を見て、何と何の色を使つたかと質問せらるゝが、私共の着色の當時は、パレットの上に在る種々なる彩料が、多少共混交せられて、一種分解することの出來ぬ色が出るのであるから、明確なお答は爲し得ない、そればかりでなく、問者の使用せる繪具と、私共のものと、種類や性質に相違があつたなら、タトへ明らかにお答しても、それによつて問者は満足な發色を得ることが出來まい。
 併し、學生諸君が、所謂美術家用と稱する高價な彩料を、ドシドシ使用することは不可能な事情もあらうし、また必ずしも、高價な繪具を要すまい、質の幾分粗い位ひは我慢せねばならぬ、たゞ其發色さへ標準色と一致すればよいのである。
 學生用としての理想的繪具は、現今の處では得られない、数年前迄は、佛國ブランシ會社から、菱形にBの印のついたチューウ入が輸入されたが、價格の競争から和製に壓倒されたゞ商標のみ残って、今は全く舶來せぬことになつた。其本家を壓倒した、所謂五銭のチューヴは、ある二三の色を除いては、甚しく不透明なる粉末が混入せられてあるため、たゞに其本然の色調を出さぬのみでなく、出來た繪が往々こ溷濁して、不愉快な結果を呈する。同じブランシ會社の大形ヂューヴは、二三を除いては充分使用に適するが、何故か多く輸入されない、また價も少し高い。英吉利のローニー會社の製品は、和製品程の低い價のために多く使用された様であるが、これとても満足な色は少ない、且現今では、菱形B印と同じく、たゞ鉛筒のみ輸入して、中味は粗悪なる和製縮具を詰めるのであるとの話をきいた。それで、割合に使用に耐へやうと思はるゝ、ニユートン製の、學生用チューヴの數種について、其適否を調べ學生諸君の御參考に供することゝした。
  チヤイニスホワイト(Chinese White.)
 質は粗いが使用上差支はない。粘りが強いから、水胡粉の少量を混ぜて練つて使へばよい。
  ガンボーヂ(Gemboge.)
 黒すんで發色が悪い。雌黄を使つた方が、色もよく且價も廉である。
  エルロー・オークル(Yellow Ochar)
 發色はあまりよくない、使用に耐へぬといふ程でもないが、これは高い繪具を使ふ方が安全であらう。
  レモン・エルロー(Lemon Yellow.)
 レモンエルローは明るいのや暗いのや數種あるが、學生用としてはたゞ一種のみである。美術家用のミッドルといふのに相當する發色で、少し光澤が乏しいが使用に耐へる。
  インヂァン・エルロー(Indian Yellow.)
 通例伸びのよい繪具であるが、學生用にそれ程にない。使用して差支なく、發色も大して相異を認めない。
  クローム・エルロー(Chrome Yellow.)
 少しく赤味を含むではゐるが、發色は可なりで、使用に耐へやう。
  カドミエーム・エルロー(Cagomium Yellow.)
  カドミユーム・オレンヂ(Cadmium Orange.)
  クローム・オレンヂ(Chrome Orange.
 此三色は立派に區別のあるべき筈であるのに、學生用の分は、たゞカドミューム・オレンヂが稍や黄を含むといふだけで、三色殆ど同一色調を呈し、且標準色と遠ざかること甚しく、其發色も不愉快である。使用しない方が安全であらう。
  ライト・レツド(Light Red.)
 粗いといふだけで、發色に相違を認めない。
  ヴァーミリオン(Vermilion.)
 少しく暗いが使用に耐へる。
  カーマイン(carmine)
 黄が含み過てゐる。分子は割合に細かい。我慢して使へやう。
  クリムゾン・レーキ(Crimson Lake.)
 色調は可良である。
  ピンク・マダー(Pink Mader.)
  粉ッほく、色はやゝ紫が勝って、純粋の透明色であるべきものが、殆ど不透明の感を呈してゐる。ある花など畫くに使用したら面白からうが、これをピンク・マダーの正色として用ふることは出來ない。
  バアント・シーナ(Burnt Sienna.)
 少しく暗く、且分子が非常に粗い。紙の上にムラが出來さうで結果はよくあるまい。
  ブラオン・マダー(Brown Madder.)
 是は一層ドス黒く、且一層粗い。發色も相違してゐる。使用せぬ方がよい。
  エメラルド・グリーン(Emerald Green.)
 發色が冴えない。至つて力が弱い。此色は腐ると白緑のやうになる。あまり多く入用の繪具でないから、所持せぬともよからう。持つなら上等の方が安全である。
  クローム・グリーン(Chrome Green.)
 使用に耐へる。淡いよい色である。
  サップ・グリーン(Ssp Green.)
 粗く、色はよくないが、使用しても害はあるまい。
  フォーカス・グリーンの二(Hokker's Green.2.)濁つてゐる。少し位ひ使用するのは可からうが、あまり勸めたくない。
  インヂゴー(Indigo.)
 殆ど同一色調。分子も細かいやうである。安心して使用される、但インヂゴーは褪色することがあるから、其點は請合へぬ。
  プルシヤン・ブルー(Prussian Blue.)
 是も美術家用と同一現象にて、差支なく使用される。
  コバルト(Cobalt)
 コバルト・ブルーと、コバルト・ブルースカイといふ二種あつて、一は半透明に、他は不透明であるが、學生用としては、單にコバルトと稱するもの一種に過ぎない。この色はコバルト・ブルースカイといふ方に似てゐて、不透明である。色に少しく紫がゝつてゐる。日本の春の空などには、却て學生用の方がよい場合もあらう。遠景に用ふるは可なれど、近い處の蔭の色には不向で、また他の繪具と合せて用ふるのにも、色を濁らす恐れがあるから注意を要する。
  オルトラマリン(Ultramarine.)
 オルトラマリンの純粋なるものは、チューヴ一本で拾圓あまりもする、それゆへ美術家でもフレンチブルーを代用してゐる。學生用の品は、分子が少しく粗いといふだけで、發色は可なりである。
  ニュートラル・チント(Newtral Tint.)
 稍赤味を含むでゐるが、分子は細かい。元來この繪具を多用すると、繪が乾燥に見え、且色の感じも寒く不愉快になるから、なるべく使用せぬ方がよい。
  ヴアイオレット(Violet.)
 少しく暗いが使用に耐へやう。併しこの色は使用する場合が極めて少ない。
  パープル(Purple.)
 蔭影の色に、他の彩料と混ぜて用ひて差支ない。
  セピア(Sepia.)
 充分使用に耐へる。
 試みて見た繪具は以上の二十七種である。
 試みといふたとて、單にワットマン紙の上に押出して、其發色を比較したのに過ぎないから、褪色の遅速や變化などは分らない。また混交によつて生ずる變色の有様も分らない。たゞ、如何なる佳良の繪具でも、混交の仕方や着色の方法が悪くては、溷濁變色等は免れないから、寫生の時は、繪具の扱方に愼重の注意を拂つて貰ひたい。
 和製繪具だからとて決して舶來品に劣るとは云へぬが、常業者の話では、第一原料は皆外國から仰ぐので、日本特産のものに殆ど無い。また繪具を入れるチューウも、日本で作つてに引合はぬ。原料入物も外國から來るのでは、たゞ繪具を造る手間だけの話でソレは高の知れたものである、而して二重に關税を取られるよりも、出來た繪具を直接取よせた方が却て廉債である、其上今の處、外國製よりも立派なものが出來る見込がなく、よし出來ても價が安くないと誰れも日本品を顧みぬ傾向があるから、到底當分見込なしだといふのである。如斯事情のあるに掲はらず、和製品を廉價に供給しやうといふには、勢ひ混合物によつて量を増し、品質を悪しくするより道がないのであろう。私は、一日も早く完全なる和製品の出來る事を希望するが、同時に、舶來といふ假面をつけて需要者を欺き、粗悪なる彩料を市瘍に供給する、不眞面目なる商人の所爲を憎むのである。

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