ターナーの水彩畫[三]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第六十七
明治43年10月3日

 一八〇九年より一八二〇年に至る問にターナーの畫才は急速の進歩を爲して、油繪の名品を多く出して居る。The Frosty Morning,Crossing the Brook,Somer Hill,Waton Brigey Roby Catsle等は、氏の生涯中の傑作であらう。
 氏は彫刻の版下(重に書物の挿畫なり)作製に多忙を告げて居つたので、依托されまたは賣る爲めの水彩畫は比較的に製作が少かつたのである。しかし一八一一年にローヤルアカデミー展覧會に送つた大作Chc-yessは人の注意を惹くものてある。これは大幅でもあり、印象的の作品でGlancus and Scylla ofrtu LiberStudiorumの描圖と酷似して居るが、色彩の廣さや上品な點に於て、初期と中世期の中間に位して居るのである。この畫の著名なる點は、極端なグリーキ風の感じにある。色彩は措いて、其他は一見グリーキ島嶼の風景や感情が心中に浮ぶのであるが、ターナーは曾てこゝに遊んだことはないのである。
 ターナーの最も早い頃の書籍の挿畫は、一八一二年から一八二六年に至る間に成つた「英國の南海峯」であつた。氏は細線彫刻家たり出版者たるダブリユー、ビー、クツクと約束し、東はノールから西ブリストルチヤンネルに至る海岸の景色四十枚を提供した。その補助者としては、當時一流の水彩畫家、デウイント、クレンネル、プロート其他があつた。ターナーは小形の下畫一枚を七ギニー半宛の稿料を受けたが、この價は直に上つて十ギニーとなり終には二十ギニーとなつた。それにも飽足らずクツクとの約束を破つたといふごでとある。
 南海岸の圖畫は巧妙で、高尚な出來である。以前の作品に比しては、寧ろ色彩の調子がより暖い。多くは極端に美麗であるが、今は褪消して、揮毫當時の美麗なる面影を止めない。しかし中には褪消せずに立派なまゝに存してあるものもないでにない。アイルランドのナシヨナルギヤラリにあるClovelly Bay及LulworthCoveの如きもその例である。
 南海岸の圖畫に、性質上稍似通ふて居るが、より多く高尚の出來であるものは、建築家へークウイル"Pict-uresque Jour In Itary"(一八二〇年の出版)の挿畫である。ラスキンはこれ等の多くを所持して居つて、非常にこれを稱讃して、時にはその著「近世水彩畫家」及其他の著書に説明して居る。
 一八一七年もしくは一八一八年にターナーはその傑作中の一たる挿畫を製作し初めた。こは華美な「リツチモンドシヤイアの歴史」の挿畫であつて、今猶空前の美麗なる風土記として世の稱讃するものである。ターナーの爲めに地方委員か指定した畫題はリッチモンドの街を中心としてヨークシャイアのノースライデイングやランカシャイア及ウエストモーランドの邊等詩的な地から取つて居る。ターナーに畫の稿料として一枚二十五ギニーを受けた、其後はこれを普通の稿料として受けたが、現今は一枚が一千もしくは三千ギニーの價があるのである。この頃の作品は、晩年のに比して畫風も色料も單簡ではあるが所謂「ヨークシャイア時代の優れて人を魁するの力がある。惜しむべきは「リッチモンドシャイア」の圖畫の如き、處々に散見するけれども、皆多くは褪色して昔の面影を存して居らない。
 殆んと一八三〇年に至るまではターナーの圖畫は多くは透明な水彩顔料を使用したが、可なり早い時代からスケッチには氏は特に急速を要する時には、他の水彩顔料を用ゐる。「其の水彩顔料」といふのは、水の換りにチャイニースホアイトや其他の不透明な白の顔料を混じて使用するのである。それに、時としてに鼠もしくは中和色の色紙を用ゐて仕事をよリ多く迅速にしたのである。氏にはこれに就て逸話がある。一八一七年にライン地方へ三週間の巡遊をしたときに殆んど一日に三枚位の速力て、可なりな大きさの畫を五十枚製作した。氏は用紙を最初に含藍鼠色に一様に塗つて置いて調子を沈重にして、其の顔料の仕事に適するやうにするのである。かくするが爲めに普通の透明な顔料を使用するに比して、非常な時間の節約がある。氏は歸英後直にファーンリーホールに持參し、フオークス氏に示すと、氏は非常に喜んで、直に五百ポドンで買入れたといふ事である。これは永く氏の家寳として保存せられて居つたが其中の或物は數年以前に散逸したものもあるとの事である。
 ターナーは一八一八年にサー、オーター、スコットの著書"Tee Provinecial Antiquuitees of Scotland"の挿畫製作の爲め北方に旅行した。スコットは最初生粹のスコットランド人で、ダッデングストンに住する風景畫家の牧師ジョン、トムソンに挿畫を托したかつたのてあるが、出版者が世間に名の賣れたターナーに依頼したいといふので、結局半分宛依托する事となつた。挿畫は皆高尚優美の出來であつた。ボスウエル、クリチトン、ローズリン城、エヂンバラーを畫題とせる三四(就中「キャルトン圖よりヱヂンバラーを望む」は傑作)及タンタロンとダンパーの海岸の砦等である。此等の畫は後に到つて書物出版成功の紀念の爲め、出版者からスコットに贈つたので、つい近年迄アボッフオルドに残存して居つたのてあつた。
 一八一九年にはターナーは初めて羅馬に族行した。氏はすでに油繪も餘り描かなかつたが、水彩畫も澤山は出來なかつた。最も興趣に富んで居るものはキヤンパグナ習作畫である、これ等の多くは皆ナショナルギヤラリーにある、("Hakewill"『羅馬の畫に氏在英中に製作せるものといふ説てある)。
 氏の羅馬行は、その作品に悪影響を來したといふても可い。殊に氏の油繪に於て然りである。此時より氏の畫題が益々空想的となり、色彩が華麗となり、意匠が複雑となつた。素より"Childe Harold's Pilzrimage"の如き絢燗たる例外あるは勿論であるが、昔の簡約沈静な筆は失せて影だに止めない、氏の水彩畫に於ても亦同一傾向がある。翌一八二〇年の「美術年報」を見ると左の如き批評があつた。
  「ターナーは氏獨特の燦爛たる作物を出した。氏の近年の作品のみを知るものは、氏の傑作中に一貫せる、端嚴簡約にしてしかも優美なる筆力あるを信ずることは出來得まい。氏の羅馬行以前の初期の作品と此集中にあるものとは實に別人の作と見られる。前者は自然的で簡約に上々の作である。後者は不自然即ち作爲的で燦爛として人目を射るの概あるものである。云々(ダフリューヂー、ローリングソン稿)

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