膳所講習會

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十七
明治43年10月3日

 膳所中學校の藤田紫舟、滋賀縣農事試験場の小林重三の兩氏が膳所に水彩畫の講習會を開くべく企てられたので、私は八月十九日東京を發して開催地に尚つた。
 東海道の汽車は十六日より開通したが、發車数の多からぬため、非常の混雜であると、新橋停車場在勤の某氏より通知をうけた。或驛では乗客が窓から進入したといひ、ある時は長時間を腰掛の下に横はつたまゝ運ばれたといふ、此際愉快な旅行を爲やうとは望まないが、せめてはあまり苦しみなしに往きたいと考へ、前日荷物の始末をなし、白切符を奮發し、辛しで午前八時三十分新橋から乗込むことが出來た。
 時間間際に來た客は、何れもデッキに停立せざるを得ぬ、途中の驛では一等の外は切符を賣らぬ、いよいよ車内は混雜を増した隣席には小常陸が居る、よい話相手を得たやうなものゝ、これがためますます場處を狭められたのである。
 名古屋を過ぎて漸く客は減じ、大垣に到りて始めて、足を伸すことが出來た、やゝ肌寒き車窓をのぞく月を眺めつゝ、琵琶湖畔を走りし汽車の、馬場の驛に着いたのは曉の四時であつた。
 停車場には藤田氏が來てゐられた、土塀多き膳所の町を過ぎて水近き快風樓に導かれた。
 快風樓はその名の如くよく風の入る家で、階上の二室は三方明放しの、居ながらにして湖面に★ふ白帆も見える、日の出月の出、さては夏雲の奇しく峰の如き、夕陽の美はしき、それ等は寝ながらも見ることが出來る。氣の置けぬよい宿であつた。
 二十日には、藤田小林兩君と共に、汽船で石山へゆき、三ヶ月樓といふので書食した。瀬田の橋のほとりにによい畫材がある。石山の知人をたづねて歸つたのは夕刻であつた。
 二十一日からいよいよ講習會が開かれる。七時半、程近き膳所中學校へ往つた。模範中學と指定ぜられてあるだけ、萬事快よく整つてゐる、敎頭の吉川氏に逢ふ、親切な方で種々便宜を與へられた。
 講堂に集まつてゐる會員は約五十名、大阪以來顔馴染のある方も七八人は居る、中學の二年位ひの小さな方や、口髭嚴めしき學校の先生方も見える、初學者に對する寫生の注意を一時間程話し、次に持つて來た水彩畫四五十枚を廊下に並べて見せ、後に其内の十數枚について説明をなし、第一日の講話を終つた。
 午後は自由時間で、私も何か寫生をやる積りであつたが、會員の力も知りたいし、會期も短かいから、寫生中の注意もして置たいと思つて、場處を指定して見に往った。場處は學校の前の神社で、三時からといふのに晝食後直ぐに初めた人もあつて、一體に筆が細かいやうに見えたが、皆相應に出來てゐた。
 午後、京都から河合新藏君が來られて、月の出の寫生をされた。
 その夜は、寄宿所の馬杉で茶話會があつた、例の通り姓名を名乗り、講談、物眞似、お國風の俚謡など出て、かなり賑やかであつた。
  二十二日には、繪畫の成立につきて一時間程講話、夫から會員 の一部に靜物寫生をやらせて、十二時に終つた。何れも輪廓な ど割合に正しく、あまり世話が焼けなかつた。
  午後の寫生地は粟津ヶ原で、二時頃小林氏と共に出かけた。途 中農事試瞼場で、小林氏の寫生などを見た。街道であるため見 物人は多い、湖畔の柳、比良ヶ嶽、並木の松など畫題となつた。
  河合氏は夕刻京都へ歸られた。
  二十三日の講話は、鉛筆畫の描法で、靜物寫生はビール壜及西 瓜を描かした。午後は膳所城跡で、湖畔の柳や石垣の崩れなど、 多く畫題となつた。
  二十四日は、午前八時半集まりで、一同三井寺に寫生會を催した。廣い山内も三脚の人で一ぱいになつた。彼方是方と場處を 求めては、イーゼルを展げる、それを尋ね歩いて一廻りすると二時問牛はかゝる、何か寫生をと箱の用意もして往つたが、二 回廻つたら時が無くなつた。夕刻人★に分れ、ひきり高★音に 詣でゝ宿へ歸つた。
  この夜は、馬杉で近世繪畫の思潮について話をした。
  二十五日の講話は、一色畫及水彩畫の話。靜物爲生は狐の面と 扇子、綿細工の犬と太皷であつた。午後は茶臼山といふ處に集 まつた。
  二十六日は、色彩の應用及繪具の話をなし、靜物には藥罐及文箱を描かした。午後は一同石山寺へ往つて、建物や瀬田川の景 や、それそれ寫生した。この夜快風樓で、水の研究を二時間程話した。
 二十七日、會期は今日で終る、講話一時間、それは水彩畫の技工に關する話をした、終つて此會期中の製作四百餘點に向つて一々批評を試みた、會員は、朝ば未明より寫生に出かけ、夕は手許の見えぬ頃迄描いてゐる人もある、平均一人十四五枚の繪が出來た譯ゆへ、不残並べたなら七八百枚もあつたのであらう、成績は非常に良好で、是迄開かれた講習會に比して遙かに優つてゐた。また僅々一週間の會期としては、よくも勉強されたものであると感服ぜざるを得なかつた。
 午後は、一時から、馬杉の前の道場と號する大廣間に於て互別會が開かれ、森親子商會の寄附にかゝるニユートン製繪具約拾圓程の福引分配があり、種々の餘興があつて、四時頃目出度此會を終つた。この日龜岡より石田氏來り、京都より松木氏訪はれ、夜分は二三の人々と卓を共にして樂しき晩餐の箸を把った。
 二十八日、會期一週間一滴の雨も無かつたが、今日は大風に加へて大雨になつた。二三の有志と、坂本に寫生行をなす筈であつたが、これでは出られない、宿へは居残りの人達七八名押かけて來て、頻りに摸寫をされる、雜談もする、議論もする、中々賑やかであつた。
 二十九日、膳所から行を共にした人は、水谷、佐久間、河合、岡本の諸氏、三井寺下から木南、中川兩君が來られて、九時頃坂本へ往つた、途中唐崎の松近く船は停まる、遠くより見ては小さな詰らぬものらしかつたが、其實中々立派な松であつた、惜むべし、生氣なく枯色が見える。湖岸の坂本はあまり面白くない、日吉神肚の入口、上坂本の町、何れも好畫題、神社の中の溪流、社前、森の中、數へ上げれば可なり澤山畫にする處はある、社前に一枚のスケツチを試み、三橋樓といふのに晝食をなし、私は一足先に膳所へ歸つた。
 この夜京都に松木氏を訪ひ、共に新京極邊を散歩し、終に同氏の宅に一泊した。
 三十日は、朝とく東山を清水寺邊迄散策を試みた、京都の町は色彩に富み、古き建物には雅味がある。
 午後から北野に河合氏を訪ひ、岡崎に鹿子木氏をたづね、其夜十一時發の汽車で、翌三十一日午後東京へ歸つた。
 講習會主催者たる藤田小林兩氏から、最初に相談のあつた時、私は何等の物質的報酬を望まぬ故、たゞ費用を辨し得らるゝ程度に於て、講習料の如きは極めて低廉にされたき旨を、條件として置いた。然るに、爾氏の盡力は、豫想外に多數の會員を招致し、夫が爲め、謝禮として一封の金員を贈られた、其金額は私にとりては一二時問のスケッチ畫一枚の價程には過ぎぬにもせよ、それを私自身の用途に費清することは快よくないから、全部本誌の編輯費に投じて置た、そして來年夏頃、特別號を出す時に 其資金の一部に使用したいと思つてゐる。
 今度の講習會で、講習料の低廉なるに驚ろいたといふ人もある。
 世間では講習といふと、出張旅費のほかに、一週間百金二百金を要求する立派な先生もある、併し、私は水彩畫趣味の普及が第一の目的で、次には、全國各地の同好者に逢ひたいから出掛けるのである、殊に三年四年續いて來られる人々に逢ふことは、單に其人達の技倆の進歩を見る喜びのみでなく、舊友に會するの心地がせられて嬉しいからである。私のやうな我儘な人間は、金銭に縛られ、義務的に講習生諸君の御相手になりたくはない、されば往復及滞在の費用さへあれば、都合の出來る限りは何處へでも往くから、今後かゝる催を爲さんとせらるゝ方は、御遠慮なく御相談を望む。(大下藤次郎)

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