寄書 田舎の村から

松本白也
『みづゑ』第六十七
明治43年10月3日

 私は及ばずながらも水彩畫嗜好者でもあり、研究してみたい決 心も燃えて居うんです、けれども、無論田舎め事でもありますが、登つて行く手蔓も全く無いと言つてもよい位なのですから、徒に中國山脈のもつそ瓦の底みたやふな所で、美★く實つた東都の畫界を羨望して居るのみです。
  先年、京都へ行つた時に買ひ求めたカーキ色の畫嚢を携へて、濃厚なるグリーンの幕に包まれ、趣の深く印せられた里道を通 る時はたゞ醉つた様な僮れを持つて見入られてしまふのです、緑に對照した黄色の大きな畫嚢、白い麥稈帽子、是等は道行く人々に遇ふ時は何んとも言ふ事の出來ない誇りが胸に浮びます、其濁つたセピア色の淺果敢な誇――
  私は急な誇を抱いて、全く向上の前途を想つて悲しくなつてならないのです、言ひ忘れましたが、私は言ふ事の出來ない暗い心を隠ました、常に悲哀が印せられつゝあるのです。
 現時に於ける農家の悲惨、恁う言へばすぐ分る事でしやう、んな中に生ひ立つた私は不幸者なのです。まあこんな虞痴はさ て置いて、私が薄つぺらなスケツチ旅行め紀行文を書く事に致しましよう。
  窓の外の梧桐の葉が濃厚なる毒々しきばかり茂りあつて、梅雨晴れに雨蛙が鳴き立てゝ、清書して居る水車の畫が乾ないので困りきつて一息しでるのを、窓下に煙草の葉を延して居る庄助が見て居る、『庄助――今なあ、父さんの所へ行つて、二三日歸らんからさう言つてくれ』と頼んで、全く無意識に何處へか遊んでやらうと想つた。例の黄色の畫嚢を横腋に抱へこかで出た、高地の村を圍んだ中國山脈の偉大なる姿は、私の忘る事の出來ない深い印象なのです、薄いコバルトを少しくぼかした山頂は、常に柔かい白毛の筆の様な雲が接吩して柔かい勇々しい畫となつて居る、中國山地の特徴であるんでしやう。
  六月號にある大下先生の水彩畫の通りな岩の肌が露はれた山裾も此邊に多い、葛の葉が巻きついて小さい花藁が葉元に付いて居る。
 花崗岩の河底なる流れは、水は清らかである、けれども底の河床は所々バアントシンナの汚れた水垢が附着して、其淺瀬の波頭は、梅雨晴れの柔かい濡つぽい空氣へ心をそゝのかす様な響きをする、三間幅の谷川、犬蓼の生茂つた岸風が吹く底に咲いたばかりの犬蓼の赤い小さい花辨が散る。
 薄墨色の水車め屋根がくつきりと浮かんで、分れた里道の水田街道を辿つた、此邊は常に畫板を携へて寫生しなれた處だけに色の具合も輪廓も手馴れて居る、私は此の地方は高地であるから、從つて濁つた色彩は割合に近景にあつて、遠くの山々のコバルトは純然と朦朧的である、雪を頂いた中國山脈は、春の中頃まで鮮に印象せられる、其雪山の色澤等の美は、全く中國特有の落付きのあるものと思ふ。
 岩の峨々たる間に淵がある、お新淵大師瀞沈みきつて、表面は新しい水が僅かばかり入かはるのみで、青葉陰に包まわた、深暗なるクリムソンレーキの神秘を思はしめる。
 山上生活の平凡なる樂しみに満足せる二十軒の農家、水田の山梨と子供の時によく言つた僻地、勾配の急な草屋のなめらかしい煙の登る様、大古時代から子孫が連綿と傳はつたのだらう。寫生しはじめた。灰色の鎭守の腐つた建物を中心にして、面白くないが遠景に農家と松の森繪具の不善なので、けばけばして筆が延びない、午前十一時、草の靡いた形が出ない、木を切る音が聞える、仙化せられた人となつた、思はず一息に畫き終つた。

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