靜物寫生の話[十二]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日

△いよいよ寫生にかゝる時は、靜物に限らず何でもさうであるが、最初に大タイの形と大タイの濃淡とをよく見て、細かな部分よりも、先づ其物の一團の形を現はすやうにする。
△寫すべきものよりも紙面へ大きく畫くには及ばないが、あまりに紙面に餘白を多くしてはいけぬ。背景を畫くための研究ではないのだから、モデルは、紙一ばいに畫くがよい。
△前に位置の取り方の時話した通り、モデルが、あまり畫面の眞中ではいけない、幾分か上なり下なり又は左右へかたよつた方がよい、特に主點となるべきものや、濃淡の強い調子の現はれた處が眞中にならぬやうにする。
△モデルは必ずしも畫面内に全體を畫き入れなくともよい、主要ならざる部分は畫面外へ出ても差支はない。
△輪廓は、畫面に十字の處線を引いて、モデルの位置を極めたら、其外形をザッと畫いて割合を定め、漸々内部に及ぼし、角度など間違へぬやう、灸所々々を正しく畫くやうにする、細かい部分は捨てゝ置くがよい。
△形が正しく取れる迄は、虚線はいくらあつてもよい、鉛筆畫と違つて、あとで直すことが面倒であるから着色する前に、出來るだけ形を正確に寫さねばならぬ。
△形がいよいよ正しいと見たら、虚線をゴムで消し去つて、實線だけ殘す。幾度も着色するうち、その實線も消えてしまうから、可なり強く畫いて置く方がまい。
△假りに白い箱をモデルとして寫すとする。初めのうちは、背景は裂でも紙でもよいが、皺など作らずに置く、そしてモデルをよく見て、セピアを淡く溶いて、モデルの一番強く光る處だけを殘して、他の部分を全體に塗る。この塗り方は、左の上部より右の下部に終るやうにする。また、ムラが出來ないやうに、最初に入用と思ふたよりも、少し餘分に繪具を溶いて置いて、第一筆の乾かぬうちに、第二筆を塗るやうにする、勿論筆は大きい方がよい。
△最初に塗つた色が半明といふので、前回に説いた箱なら、蓋の部分の色である。これが乾いたら、次に中位色を塗る、白と黒の間の色である。この時も澤山繪具を溶いて、高照の白色、半明の蓋の部分を除いて、他を全體に塗る、但背景は多分半明の色であらうから、其儘殘して置く。
△第二次の中位色が乾いてから、其次は半暗、即ち稍や暗い濃い色を塗る、箱で云へば中位色が前面の側であるから、半暗は光線の來る方と反對の側、若しそれが見えないなら、床に投じた箱の影の色である。
△半暗が乾いたら、今度は最暗で、所謂タッチといふのである、即ち箱と床との境目などの眞暗に見える處へ、線若くは點を入れる、それが入ると繪が引締まつて見えるやうになる。
△順序はザットこんな風で、初めから明るい處暗い處と、色を別々に塗つてゆかないで、明るい色で暗い處の分迄も塗つて仕舞ふ、そしてその上へ濃い色を重ねてゆくのてある。
△右は一例に過ぎない。白色の箱でも、中々このやうに簡単なものでなく、猶幾階級も色の區別があるからそれはよく見て適宜に畫いたらよい。
△圓形のものを畫くにしても、やはり淡い色から濃い色をと重ねてゆく、一々ボカすと圓くは見えるが、雅味が無くなる。そばで見て多少の圓味が缺けてゐても、離れて見に時圓い感じが出ればよいのである。
△着色の時注意すべきは、筆につける繪具があまり流るゝやうに多くても困るが、一の部分を塗るに、幾度もパレットに筆がゆく樣に、少しばかり一寸先の方へ着けたのではいけない、そして、筆は繪具を運ぶ器械に過ぎないから、筆の尖で突ついたり、筆の腹で擦りつけたりしてはいけない、そのやうにすると潤澤が無くなり、活氣のないものになつてしまふ。
△圓いもの、即ち林檎など畫く時に、ぼんやりと薄い光りがある、その際、白く殘すとカツキリして感じが違ふから、其部分迄も一樣に色を塗つて、その乾かぬうちに、筆を洗つて水をきり、光つた處を撫でるとよい。
△物質を現はすには、筆遣ひを自然のものゝ形に做へばよい。鉛筆畫と同じやうに、木なら杢目の通りに筆を運ぶ硬い粗いものは筆に力を入れる、滑らかものや軟かいものは叮嚀に着色するといふ風に、加減してやつたなら、其物の感じが出やう。
△背景や又は床の上の裂を畫く時には其裂の皺をょく見て、形は正しく取らぬといけぬ、裂を畫いて、それらしく見えないのは、多くは形の間違が原因である。
△裂の皺といふものは、側面から見れば、三角を並べたやうに凹凸は鋭く尖つてゐるもので無くて、半圓を聯ねたやうに曲線的のものである、それゆへ、光りを受けた處を硬く畫いてはいけぬ、一つの皺には強い光りの部もあるが、それは平面でなく圓味を持つてゐるのだから、其心持で畫かなければならぬ。
△故に裂の寫生には、最初に極暗い處へ着色をして、明るい處と大タイの區別をつけたら、後は淡い色を幾度も度もかけて、氣永に叮嚀に眞を寫すやうにするのである。
△物は對象によつて感じが現はれるもので、極めて烈しく光る處には、必ずその側に極めて暗い處があるものだから、それを見落してはいけぬ。即ち、極、光つた處を見せやう、明るい處を現はさうといふには、必ず他を暗くしなければ目的は達せられない、一色畫に於ては、特に此點に注意が肝心である。
△背景といふものは主なる目的物を活かすためのものであるから、目的物よりも調子は弱めなくてはならぬ、タトへ極めて暗い蔭影が、背景の裂の中にあらうとも、目的物の中のタッチょり強くなつてはいけぬ
△背景の布裂は、初めは白いものがよい。皺が旨く出來るやうになつたら、今度は物質を變へる、初めが木綿なら次はモスリン、次は絹、或は縮緬とか羅紗とかいふ風に、其物の性質の研究をやるのも有益である。
△モデルに色のある時に、それを一色畫で現はすには二樣の研究方法がある。一は色のあるものでも、白色と見做して、光りと蔭とのみを見て研究する。他は色のあるといふ心持を畫面の上に現はすので、光りと蔭は離れることは出來ないが同時に其色の感じ迄も畫くのである。
△前者は、黒い本の表紙も白いものと見て、光りを受けた處を白く殘して置く。後者は、黒い色なら、其割合に蔭よりは無論明るいが、眞白に残さずに、黒い本と思へるだけの色をかける。赤や、青や、それ等の色も同じく、其色の光線の反撥及吸収の度に應じて、黄なる色は淡く、赤や紅は濃くといふやうに、色の感じを出してゆくのである。

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