三脚物語(第六回の下)
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第六十八 P.15
明治43年11月3日
一
渓川の水音がきこえて來た。ガタリと俥は停まつて、僕はうす穢ない板の間に下された。嚴美といふ處へ來たので、柱には熊清旅館ナンて大きな看板が掛つてゐるが、旅館とは少々御大層た。主人は僕を置去りの、スケツチブツクを持つたまゝ出掛けて仕舞つた、僕は若いオカミさんに連れられて二階へ上つた、二階は近ごろ手入をしたと見えて、襖も新しい、疊も新しい、風通しもよささうだ、暫らく床の間に靠れて、ウトウトする。
いつの間にか主人は歸つて來た。宿の貸浴衣だらう、隅の方に白いものが疊むである、主人は手にとつて、襟のところを一寸匂を嗅いて傍へかたよせた、包みを開いて自分の單衣を出して着た。オカミさんは膳を運ぶ、何やら澤山並むでゐる、主人はいかにも不味さうに晝食をやつてゐた。
四時頃に、主人は洋服を着だした。僕も御供をする。橋を渡つたり川下へ往つたり、位置をさがしてゐる、嚴美といふと有名な處ださうだが、あまり感服出來ぬ景色だ、小さい、狭い、うるさい。夏の午後四時では、まだ日がカンカン照して面白い塲所がない、主人は草叢の中で一輪の百合の花を寫し始めた、足元の草の中には、左花といふピンク色の美しい花が咲いてゐる、小さな蛙が一匹僕の近處へ來た、蟻が這上つてムズムズして心持がわるい。
二
翌日は朝早くから引出されて、川下の岩の上に二時間ばかり置かれた。近くに水溜りがあつて、うす暗く、何だか蛇ても出さうな處だ。蛇といへば、僕はひどい目にあつた事がある。もう十三四年前の話だが、多摩川の上流、小丹波といふ處からまだ先の方で、住來から五丁も下つた、谿底の河原の上に置かれた。秋のことだつたが、無論近處に人ッ氣はない、淋しいなと思つたが、主人を頼りに我慢をしてゐた、寫生も段々進むで半分も出來たころ、主人は僕のからだに畫板を立かけて、其儘二三十歩、水の岸の方へ住つて辨當を使つてゐる、右も左も絶壁をなして、晝でも暗いやうな處に、獨り置かれたので、神經が馬鹿に過敏になつた。すぐ一二間先の岩の間に落葉が溜つてゐる、其落葉が風もないのにヵサカサと音がする、ギョッとしてソッチを見ると、五尺ばかりの青大將がこつちの方へのそのそやつて來る、脚はあつても元より自分で逃出せる身分ぢやアないから、ヂッと我慢をして見てゐると、大將は私の前へ來て、何と思つたかクルクルと身體を巻いて、其まゝ踞まつて仕舞つた、主人は何の氣もつかぬらしい、四方はまたも靜かになつて、渓の水音のみ淙々と聲を立てゝゐる。
主人は竹の皮を捨てゝ此方へ歸つて來た、そして一物を見つけて少なからず驚ろいたらしい、どうするかと見てゐると、忽ち足下の小石を拾つて、蛇に向つて叩きつけた、危ないこと、僕の脚にも二ツ三ツ傍杖が飛ンで來た、大將はノソノソ逃げ出した。
これはホンの序幕で、大詰は大變だ。いよいよ寫生が終つて歸るとなつたが、こゝは嶋のやうになつた小さな河原で、上へゆくには草木の繁れる崖の下を、飛石傅ひに身を横にしなくては通れない、そこで、先刻の蛇は、生憎と其歸り道の崖の方へ逃げたのだから、其下を通るのはあまり氣持がよろしくない、蛇は執念深いものだといふ、崖の處に待伏して、イキナリ飛つくかも知れない、アンナ大きな奴に巻つかれたら災難だ、主人も大に神經を痛めたと見えて、居もしないのに、崖の茂みへ大小の石塊をヤタラに投け込ンだもンだ、それで充分驚ろかして置いて、大急ぎに其處を通り過たが、此時は隨分苦しかつた。
三
丸山先生は蛇がお嫌いだ、先生は蛇といふと居ない處でも無理に探し出すといふ質だ河原に大蛇が居ると驚ろいて、怖々遠くの方を迂回したが、少しも動かないので、段々近づいて見たら枯木であつたさうな。先生が日光の霧降へ往つた時、例の氣性で、瀧の上流探險といふ事で、木の根や岩角によぢ上つて、終に瀧の上に往つた。好奇心を充分滿足させて、イザ歸らうと、元の道を不圖見下したら、中途の草叢に、素敵に大きな奴がノタクツてゐる、サア大事だ、迂回するにも道がない、下に寫生してゐる河合先生に救を求めたが、瀧の音で通じない、詮方なしに、草叢へ向つて。手當り次第に石を擲げた、下に居た河合先生は驚いて、何を惡戯をするといふやうな顔して呆れて眺めてゐる、少なからぬ努力の末に蛇を逐ひやつて、恐る恐る下りて來たさうなが、其の時の顔は青かつたといふ。丁度、多摩川に於ける主人の話と好一對だ。
四國の石槌山の麓あたりの寒村では、夏になると蚊帳を吊つて、四方を鐵の太い棒で押へて置くといふ、それは蛇の侵入を防ぐためださうだ。若し主人が、そんな處へ寫生にゆく樣なら、僕は辭表を出す、とてもやり切れないから。
蛇はまだよいが、蝮蛇といふやつは寫生家には大禁物で、山野を飛び廻る時は大に警戒を要する譯だ、こいつに咬まれると生命に拘はる、それで豫防法としては、紺の足袋脚絆はよいが、新しくて紺の匂ひの高いもので無くては効がない、ゲートルに靴穿なら大低大丈夫だらう、野猪の鼻を乾して持つてあるあると蝮蛇に咬まれぬ禁厭になるといふが、あまリアテにはなるまい。渓合水に近い處や、また萩のある近處に棲むさうだから、そんな處は用心すべしだ。コイッを殺すと、時として悲鳴を上げる、すると其近處に居る同僚が皆集まつて來る、こんな時は逸早く逃出すに限る。
咬まれたら、血管の運動をとめる爲めに、前後を堅く縛つて置いて、其場を切取るか、焼鐵をあてるとよい、ハブ艸の汁を塗つてもよい、處によると、蚯蚓を潰してナスリつけるとよいといふ、どつちにしても咬つかれたら大事だから、無暗に怪しい處をうろつかぬ方かよからう。
四
晝はまた宿へ歸つて、夕方上流へ出かけた。怪しい河原の上に一時間ばかり居た。そして主人は畫題が無いといふてブツブツ言ふてゐる。
翌日は平泉へゆくのだといふので、荷造りが出來た。荷持の爺さんは、他の道具と一しょに、僕を大風呂敷に包むで背負ちやつた。取落される心配は無いか、暑苦しくて耐らない。破れ目から無理に頭を出して外を見る。平凡な景色だ。峠を下ると、達谷窟といふのがあつて、毘沙門天が祀つてある。ステキな岩がある。松がある。今度は一里ばかりて、毛越寺といふ白いペンキ塗の柱の建つた處へ來た。古い池がある。いづれ日參するンだらうと思ふ。漸く平泉の停車場前へ來て、高橋旅館といふ感じの惡い家に着いた。
風呂敷から出されて二階へ上つた。開け放しの座敷が五ッ六ッある、穢ない凸凹の疊、低い天井、曲つた柱、落つきのないガサガサして下品な處は、どうしても古新聞でこしらへた袋のやうだ、駄菓子でも入れるにはよからう、紳士のお宿としては恐れ多い。
奥の方の六疊へ通した。風通しもよいし、束稻山も見えて惡くはないが隣り座敷は番頭の居間で、浴衣やら三尺やら下の帯やら、ダラシなく垂れ下つてゐる、心持がよくない。主人は表の四疊半へ移つた。狭いけれどもコツチの方が遙かに可い。
午後から中尊寺へお供をした。停車場から十八丁といふのだが、も少し近い。平泉の昔しは大した繁昌の處だつたさうだが、今は見る影もない淋しい處で、郵便局のあるのが見つけものだ、それも一錢五厘の切手ナンか賣らない、ぢヤない賣れないのだらう。停車場だつて人力車一臺無いといふ始末だ。
踏切を越へて少しゆくと上りになる。杉並木がある。お休み所、お茶のみ所といふ札がある。なほ進むと、普請中の本堂の前へ出る。こゝに四尺ばかりの奴が、往來の眞中に横はつてゐる。言ふ迄もなく青大將だ、死んでもゐるのだが少々無氣味だ。
奥へゆくと、有名な金色堂經藏などがある、至つて靜かな寂びたもので、日光のやうに華やかでなく大に氣に入つた。
雨がハラハラ降つて來た茶屋に休む。北上川が眼下に見えるが、景色はあまりよくない。夫から山越して毛越寺へ廻つた、途中畑の中に一時間ばかり下された。
五
この明る日から、毎日毛越寺通ひをした。池の端の草の中に置かれる。池の水は黒い、その水の上に浮草が泛んでゐる、白い花のさいてゐる水草もある、蛙も居る、水すましも居る、アメンボーも居る、ジッと見てゐると中々面白い。
高橋屋の番頭は、むしろ蠻公とよぶ方がよからう、無作法とも無智とも言語に絶してゐる、着物もつけずに平氣で客の前へ出る、ソコラにあるものを捻くり廻す、切手を貸せ、錢を貸せと、主人の物を持つてゆく、手紙の代筆をたのみに來る、歸つて來ると、何處を描いた、いつ仕上るのだとウルサク聞く、主人もよほど閉口して相手にしないでゐる、僕もいゝ加減コイッにいぢり廻された、コンナ不愉快な人間が居ては、お客は二度とよりつくまい。
昨夜の風呂は二度目だといふので、主人は入らなかつた。今夜は新しくこしらへましたと云ふて來たので、主人は下りて往つたが、やかで歸つて來て、手拭を釘にかけたのを見ると、眞白であつた奴がカーキ色に變つてゐる、新しいといふ風呂の美しさが思ひやられる。
こゝに三晩泊つて、松島へゆくといふので、勘定書をとつたら、例の番公が書出しを持つて來た、餘計な事だが、一寸横目で見たら、嚴美の二倍もかゝつてゐる、東海道あたりの上等の宿とあまり相異はない、毎日毎日變てこなもの食はせて、碌な風呂もなく、おまけに便所は下駄を穿て戸外迄ゆくといふやうな、ダラシのない設備で、こんなに高く取る譯は無い、主人が金を拂つたら、其書出しを持つて往つて受取を出さない、番公の擧動が何となく怪しいから、屹度コイッがいくらかゴマカシたのに相異ない、一寸拜借の切手代も終に返した樣子は無かつた、飽く迄もヅルイ奴だ。
六
停車場へは、宿の小僧が僕を運んでくれた、柔らかい馬こやしの中に置かれて、汽車の來るのを久しく待つた。松島邊から廻つて來た、數十人の團體見物が、ワィワイ言つてプラツトホームに集まつた『忘れものはありませんか』と世話人が大聲で注意すると、二三人茶屋へ駈け戻つた。茶屋の亭主は、一ツの風呂敷包と洋傘とを持つて來た、傘の持主は直ぐ出たが、風呂敷包は主が無い、一々聞いて廻つたが、『知らない』『私のぢやない』といふ、一タイ連中のものか、それ共他の人のか、中に士産物があれば連中のだが、缺員があるのぢやアないかと、點呼が始まる、一人一人數へる、正に間違なく頭數は居る、いよいよ風呂敷包を解いて見ることになつた、十數人廻りを取圍んだ、年長の人が結び目をとく、開く、中から出たのは中尊寺名物の氷餅で、其包みを解いた人は『これは私のだ』といふてキヨトンとして居る、一同は思はず大聲に笑つた、手を拍くものものある、足踏するものもある、さてさて賑やかな事だ。
三時問ばかりで汽車から下りて、俥で松島へ來た。宿屋は觀月樓といつて東海道のやうに整頓はしてゐないが、嚴美や平泉の比ではない、何だか伸々したやうでよい心持だ。
翌日から雄島へも往つた。鹽竈街道を赤沼といふ方へも往つた。主人は此街道に左る杉の木に馬鹿に感心してゐた。松島の町へ戻つて、磯崎へも往つた。風はあるが、炎天を引張り廻されるには少々閉口した。景色は思つたよりは美しく、特にホテルの傍を、福浦島の對岸へ廻つた時は、日本三景の名は空しくないと、僕も大に感服した。
七
隣室に面白い客が泊つた。二人連れで、某專門學校の學生だ。顔も姿も見えないが、一人は五分刈の頑強な男らしい、一人は髪でも分けかねない優男のやうに思はれる。甲は曰ふ『俺が四杯より少なく飯を食つたら病氣と思つてくれ』乙は曰ふ『よくそんなに食へるなア、朝もか』甲『あたりまへよ』乙『僕は朝は一杯、晝と夜は精々二杯だ』甲『弱いなア、胃でも惡いのか』乙『ウン、胃も膓もよく無い』甲『君は間食をするだらう』乙『少しはやるよ』甲『よせよせ、俺れは間食はせんよ、果物は好きで隨分食ふが甘いものはやらん』乙『君がいつか來て水蜜を食ったのには、家のものは皆ンな驚いてゐたよ』甲『ソーか、あの時は十四五食つたかなア』乙『僕の胃の惡くなったのは僕の罪ばかりぢやア無いよ。父が隨分神経質で、糠味噌漬迄も湯で洗はせる位だから、ヤカマシクつて段々胃が惡くなつたンだ』甲『ソーカ、そんなら果物は食べないな、苺なンかまさか湯でも洗へないから』乙『今年はチブスが流行するてンで、苺はとうとう食はなかつた、煮てやつて見たが不味くつてね』甲『苺は生までなきやア旨くはないよ、俺れなんが採つて泥でもついてゐりやア、フッフツと口で吹いて其儘食つちまうのよ』乙『それで何とも無いかい、羨ましいなア、實際胃が惡いと元氣が無くなつてイカンよ、どうかして腹の減る工風は無いかなア』甲『譯はありやせん、間食を廢めるのよ、明日の朝飯の五六杯も食べるやうに、今夜一つ俺れが禁厭をしてやらう』
段々話の樣子では、頑強な方は軍人の子息で、優男は醫者の息子だ。性質は大ぶ相違があるが、それが却つて親密にさせるものと見えて、二人連れでこれから十和田湖邊へ往くのらしい。學校の教授の噂も出た、雇つてある馬丁や車夫の話もあつた、小説の事も談された、併し、一點婦人に關した物語の無かつたのは、今の青年としては誠に頼母しい心地がした。
八
松島には三晩泊つて、和船に乗つて、鹽竈へ往つた。幸ひに船の舳に置かれたので、四方はよく見える、可なり風が強いので、帆を右に左に操つて、迂廻して舟を進める、種々面白い島がある、船頭は一々説明する、主人は一々スケッチする、二時間あまりで鹽竈の入江に着いた。
鹽竈ホテルといふのに僕を置いて、主人は鹽竈神社へ往つて三十分程て歸つて來た、丁度仙臺行の汽車が出ろので直ぐに乗込む。
ホテルの亭主はドアの處へ來て『仙臺は何處へ御泊りです』と主人にきく、主人は極めて無いと言ふたら、それなら何卒仙臺ホテルにお泊り下さいといふ、やがて特別案内状といふのを持て來て、御名刺を戴きたいといふ、何にするといふたら、電話で申てやつてお迎をさせますといふ、大さうな事になつたもんだと思ふ。
やがて仙臺へ着いたら、果してホテルの印絆纒を着た男が待つてゐて、僕を連れてゆく。主人は躑躅ヶ岡と政岡の墓とを見にゆくといふので、車を走らせる、僕は表の西洋間に押上られた。八疊位の廣さだらう、外見は西洋間だか、中は疊が敷いてある。三方は窓で一方は床の間だ。電燈、電鈴、机も文房具も化粧道具も一切整つてゐる、ハイカラな座敷で大に氣に入った、少し焦けのきた誥襟の、汗臭い夏服を着てゐる主人には過きものだ。主人は存外平氣なもンだ、靴下に穴があいてゐやうと、俺れは天下の美術家だといふやうな顔をしてゐる、窓際にアグラをかいて、停車場前を傘さしてゆきかふ人達をスケツチしてゐる。上野を出てから十一日目の夕刻、再び上野へ歸つた。途中でチテと見た桑折邊の、緑の山の地辷はステキに佳い。忘れられない、いづれ近いうちに主人は出かける事だらう。
僕の無駄話も可なり長くなつた。いろいろお小言が出さうだから、此次はズット趣をかへて、僕が始めて主人の處へ來た時分、左樣、今から十六七年前の、美術界の有樣でも御話いたさう。