文部省第四回展覽會の水彩畫を觀て
戸張孤雁トバリコガン(1882-1927) 作者一覧へ
戸張孤雁
『みづゑ』第六十八 P.21
明治43年11月3日
日本畫を觀て彫刻の室を一瞥すると、次は水彩畫の室である、前年は最終の室に並べられた爲め、水彩の部に來る頃は目は疲れ頭は倦む所以でもあつたらうが餘り注意なされなかつた樣であつた、のみならず、油畫に壓せられたやうな感を起さしめたが、今年は油畫の前に置かれたから觀者の注目は前年の比ではない、出品総數二十三點、三枚の油畫を同居させ一室を領し少數ながら一廓を形作つて居る、一周して先づ感ずる所は纒た作品のみであると思うと同時に、美術と寫眞の區別が明瞭で無い人が多いと云ふ事である、啻に水彩畫のみならず一般を通じて此の感がある。
自分は此の分子の一刻も早く我が藝術界に消滅せん事を望むものである、今日機械の進歩發展は實に驚くべきもので、此の勢を以て進まば天然色寫眞等の發見も近き將來にあるを斷言する事が出來る、然して夫が發明されし曉には人物、風景等を自由に影し得るのみならず、紫色を多く感ずる人には之れを多く、赤黄其他各自の望む色を各人の感ずるにまかせて強弱自由に寫し得て人の勞力を多く要せずなる、之れに逢ふ時至らば、寫眞的描寫を追ふて行く藝術家は事終れりで哀むべき最後を見るのである、彫刻に於ても同樣實物に酷似するが目的であるなれば多くの場合今日直に人力以上の結果を得る事が出來る、實物の肌より直に形をとり夫れに石膏を流さば急にして實物と寸分違はざる人力に比して遙に正格である物を得るのであらう、されば苦しんで外形寫實に努力するは駄目である、何を苦んで徒歩と汽車とが競爭するが如き愚をする必要があらうか、此所に於て美術の根本が明瞭に成る、日本水彩畫會研究所九月の例會の際講話(前號談片參照)せし所の、其の力あり氣韻ある主觀を透して客觀を捉へたるもの夫れである之が眞の美術である藝術である。
尚ほ纒つた畫といふ事に就て一言し度い、纒つたものゝ次ぎに來るは何であらうか?只破壊あるのみである、未完成の次ぎに來る可きは望みある完成である、吾人は破壊に賓せる完成よりもむしろわずかの未完成を苦にせざるものてある、展覽會を觀て痛切に感じたるは以上である。(十月二十日)