歌川廣重傳[五]


『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日

 明治十五年、三世廣重(自ら二世と稱す)一世廣重の法會を執行し、一碑を隅田川の東、秋葉の社前に建てたり、碑面には、草筆にて、一世の像を畫き、上に東路の辭世を刻してあり、この時碑面の圖を一枚摺にし、建碑の報條を載す、曰く、先師立齋廣重翁は、歌川家の租豊春師の弟孫子にして、豊廣翁の高弟なり、然るに師の机邊にある僅にして、年甫十六のをり、師の先立れぬれば、夫よりふたゝひ師をもとめす、獨立別派の寫生におもひを焦し、山に登り、谷に下り、實地を採りて、眞の景色一家をなせり、己れ筆鈍く、才たらねど、そか名跡を繼けるまゝ、いかて先師か功しの程を、とこしなへに殘さはやと思ひつるを、師翁に緑故ある硯友、松本よし延ぬしをはしめ、有志の諸君、己れに力を合せて、師か辭世を石に彫り、隅田川の邊なる秋葉の社前へ建る事とはなりたるこそ、己か喜びあまりあることなり、明治十五壬午のとし四月、立齋廣重敬白
 按ずるに、此の建碑の報條は、誤り多し、信すべからず、されど一世二世のあとを繼ぎたる、廣重のかきたるものなれば世人かならず事實とせん、故に左に其の誤りを正しおくなり先師立齋廣重とあるは、誤りなり、一世廣重は、一立齋と號し、立齋と號せしことなし、かの三亭春馬が、富士三十六景の目録のはじめに、立齋とかけるは、廣重が死後なれば、法名によりて、一字を省きたるものか、しからざれば、これまた誤りなり、清水氏曰く、二世廣重まだ一立齋と號せしが、其の頃一立齋文車といへる講談師ありて、大に世に行はる、二世其の己の號と同じきをいとひ、一字を省き、更に立齋と號せしなり、三世廣重これを知らすして、一世を立齋といふ何の故を知らすと、又師の机邊にある僅にして、年甫十六のをり、師の先立れぬればといふは、誤りなり、此の誤りは、既に前に辨しおきたれば、更に其の踈漏なることをあげていはん、一世廣重が文化九月九月師名廣字を許されたる免状は、三世廣重嘗てこれを★装して、家藏となしたり、これ余が目撃せし所にして、今清水氏のの所有となる、しかして明治二十年豊廣が六十回忌の報條に、三世廣重自らしるして師翁は、文政十一年没す、本年本月六十回忘に相當せるをもて云々とあり、文化九年より文政十一年まで、其の間十有七年なり、然るにこゝには自記して、机邊にある僅なりといひ、又年甫十六のをり師の先立れぬればなどいふ、言ふ所齟齬何の故をしらず、疎漏また甚だし。
 廣重の畫の最も世に行はれたるは、東海道五十三次なり、圖をかへ出板せしこと、前後數回に至れり、中に就き横畫最も精妙なりし、(まさの紙を横になして摺りたるものなれば、浮世繪商は、これを横畫といふ、)これに次ぎては、木曾街道六十九次、諸國名所、江戸名所百景、富士三十六景等なり、三十六景は、廣重が絶筆にして、其の出板を見ずして沒せり、三亭春馬深くこれを悼み、目録に小文を掲ぐ、其の文に曰く、初代廣重翁は齢と倶に筆の老い行かざる間に、とく筆を絶て、世の塵を拂はんと言はれしこと、屡なりしが、終に筆の餘波、生前の思ひ出に、一世の筆意を揮はれたる富士三十六景の寫本をもて來て、是を彫りてよと與へ給ひしは、過る秋のはじめになんありける、そが言の葉の末の秋、長月上句某の日に、行年つもりて六十に二ッあまれば、草津といふ宿の號ならで、筆草の露を現世へ置土産、行きてかへらぬながながしき、黄泉の旅雙六の乞目にあらで六道の闇路をひとり行かれしは、實にや徃事は夢のごとし、今將思ひあはすれば、過ぐる日言はれし言の葉は、世の諺にいへるごく、虫がしらしゝものなるべし、されば妙なる筆のあと、そを追福のこゝろにて、彫摺なんとも上品に、紅葉堂の主人の意中を告まつるは、楓川の邊ちかき市中に栖、三亭春馬。
 按ずるに三亭春馬、は何人なるを詳かにせず、一世春馬は、吉原の妓樓大文字屋市兵衛にして狂歌名を加保茶元成といふ二世春馬は、吉原の繪草紙屋、蔦屋重三郎、狂歌名蔦唐丸の孫にして、弘化二年名を改めて二世十返舎一九となる、さればこの春馬、は春世ならん、猶考ふべし英人巴徳氏曰く、一立齋廣重は、彩色板下畫を作ることに妙を得たり、中に就き、其東海道の圖のごとき、遠景寫法の妙を寫すに至りては、爾他同時代における畫工の及ばざる所なりと。
 又草筆の墨畫、および鳥羽畫、狂歌發句の摺物畫等を畫く多し其の最も世に行はれしは、魚盡しの錦畫にして、寫生最も妙なり、又肉筆は、山水人物など多し、吉原の燈籠なども畫きたり、風俗美人畫は、佳なれども行はれず。
 按ずるに、武江年表安政五年の條に、浮世繪師一立齋廣重死六十二歳、安藤氏稱徳兵衛、歌川豊廣の門人なり、普通の世態畫と同じからず、善く名所山水を畫き、又動物の寫眞によし、江戸并に國々の名所を畫きて、行はれし人なり、又草畫もよろしとなり。
 又畫本類を畫く多し、中に就き狂歌江戸名所(十册)江戸土産(十册)等最も行はる、これ等の書は、閲し來れば、恰も其の境に入るが如し、即ち一部の地理書にして、童蒙これによりて各地の風景を知る、其の裨益蓋し少々にあらざるなり、かの字引を用ゐて讀み下だす、小學地理の教科書に比すれば、其の優れること萬々なるを知るべし、又手引草といへる繪本あり、魚鳥など皆割出し寸法を示して、明かなり、幼童畫學の一助として、可なるものなり。
 松田氏曰く、余は、一世廣重に面せしこと屡なり、昔時書畫會の席にては、浮世繪師は、輕蔑せられたるものなるが、廣重は、他の浮世繪師と異なり、品行も賤しからざれば、文人墨客の中に入りても、常に同等の交りを結びたり、且廣重は、席上畫に長し、よく畫きたるが、頗る妙所あるか如し、他の浮世繪師は、多く席上にて畫くことを嫌ふなり、其の頃浮世繪師にして、席畫をかきたるは、廣重と玉闌齋貞秀の二人のみなりしと。
 地本問屋某の話に、廣重は、他の畫工とことなり、約束にそむきしことなし、假令ば、東海道五十三次を囑托し、期日をさだむれば、其の期日には、かならす畫き終はりて與へたり、しかして其の畫料は、頗る低廉なりし、豊國、國芳などは、畫かざるさきに、畫料を出ださしめ、しかして猶畫かざることありて、時機を失ひしこと、屡なりしと、或人曰く、廣重は、烟草を喫し、酒を飲みたれども、頗る謹愼なりし、又劇場を好みたれども、似顔畫をかゝず、一見識あるが如し。
 綾垣氏曰く、廣重は、其の性、侠氣ありて、しかも活發なりき、業餘狂歌を好みて、狂名を東海堂歌重といふ、これをもて狂歌の摺物等の畫、多くは翁の筆になれり、甞て狂歌の友、盡語樓内匠が火炎にあふて、伸吟せしを、家に止め、暇あることに、共に狂歌を詠して、樂みしと、其の風雅おもふべし。
 按ずるに、廣重は幼ょり畫道に志し、文學は深く修めざるものゝ如し、かの族日記中にも、徃々文をなさゞる所あり、且誤字多く、文字もまた甚だ拙なり、しかれども狂歌を詠みたり。
 廣重の先妻、其の名詳かならず、早く死す、後妻其の名また詳かならず、一女を設く、廣重の沒するや、門人重宣を此の女にあはせて、家を繼がしむ、これを二世廣重とす、立祥といひ、喜齋と條す、山水花鳥を畫く多し、よく一世の筆意を守りて失はず、其の落★一世と異なることなし、故に人多くは一世二世を辨ずる能はざるなり、落合氏(芳幾)曰く、二世廣重は、好人物なり、予は屡彼に出逢ひしことありしが、性正直にして、事に處する甚だ謹愼なりし、或は世事にうとき所なきにあらざれども、畫道においては、頗る妙所あるに似たり、惜むべしと、後に故あり、家を出て横濱に赴き、再び重宣と號し、繪畫を業とせしが幾ならずして、沒せしといふ、二世の家を出づるや、同門重政代りて家を繼ぐ、これを三世廣重とす、又よく山水を畫く、嘗て伊勢、大和、大坂、京都を巡り、又常陸、下總に運び、行々山水を寫し、其の志一世の上に出でんと欲せしが、不幸にして病に罹り、明治二十六年三月廿八日沒す、惜むべし、友人清水氏後事ををさむ。
 按ずるに、三世廣重自二世と稱す、何の故を知らず、葢し理由ありしならん、過ぐる日これを聞かんとて、廣重のもとに到りしに、既に病に罹り言語不通、きくに由なく、止むを得ずして歸る、遺憾なり。
 無名氏曰く、廣重の山水錦畫は、一家の畫風にして、古人の未だ嘗て畫かざる所を畫く、絶妙と稱すべし、葢し其の畫法は、豊春、豊廣の浮畫を本となし、四條および南宗の畫法に據りたるものにして、其の彩色は、自發明する所多きがごとし、凡山水の眞景を寫すには、まづ其の位地の宜しきを撰ぶこと肝要なり、廣重は最もよく此の位地を撰ぶことに妙を得たり、これ他人の及ばざる所なり、二世廣重畫法を傳へて、よく畫きしが家を出でゝ沒し、三世廣重繼ぎて畫きしが行はれずして止む、此に至り廣重か山水の畫法を傳ふる者、全く絶えたるが如し、實に惜むべきなり、近頃廣重の山水畫、大に歐米に行はれ、輸出日に多し、故をもて現今我國に存するもの、甚乏しきに至れり、横畫の東海道五十三次、およひ魚盡しの繪畫等、最行はる、これ廣重か腕力、超凡なるを以てにあらずや。
 正誤前號廣重傳中、天保年間の條、八朔御馬進献云々は、誤なり、御馬進献は、年々八朔に、幕府より馬を朝延に進献する古例なり、天保十三年北村季文氏が作りて、幕府に奉りし、幕府年中行事歌合を閲するに、廿五番、左、馬御進献、久堅の雲のうへまて行ものは、秋の月毛のこまにぞありける、注に、馬御進献は、馬屋の中の駒を撰ばれ、八月朔日に、在京の大番頭を御使にて、内裏へまゐらせらるゝ事なり、これらは、古の駒牽のなごりにやさふらふらんとあり、駒牽の事は、公事根源などにも見えて、其の例甚古し、一説に、此の時廣重は、幕府の内命を奉じ、京都に到り、この駒牽の例式を畫きたるなり、或人この駒牽の畫巻物を藏せりと。
(廣重傳をはり)

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