琵琶湖畔に於ける講習會に就て
紫舟生
『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日
私は昨年の春當地の學校に轉任してから、是非こゝで一度水彩畫の夏期講習會を遣つて見たいと思つて小林君と二人相談して講習會開催の計畫を立てた、そして從來の講習會と組織を更へて、春鳥會の主催でなく、吾々二人が主催となつて、凡ての責任を負ふて遣ることにした、試みに思へ、讀者諸君!今頃各地に行はれる夏期講習の、學士や博士などの講師達は、一週二三百圓宛も報酬を請求しては、各地を巡業して歩く、仲にはその金で別荘を建てたとか、建てるとか云ふ世の中ぢやないか、それとこれとを比較すると、如何に何でも、先生の方に受付係から會計係、會塲の交渉までも御願ひして、その上で御指導を仰ぐと云ふのは、あまりに虫の宜い事であるまいか。でこちらの計畫も略定つたので、大下先生に御願いして見た、處が先生の御返事に、八月の十日頃までは奥州に旅行する、それから十二日から一週間は福井で講習を遺ることになつたから、それ以後でなくては困るとのことであつた。吾等二人は勇み立つて用意を始めた。會塲は、私の中學校を借りることにした、大體の準備は全く終つたので、そして小林君と二人して、一日も早く樂しき二十一日の來れかしと待つて居た。その内、會員も段々に出來て、申込〆切日の十日には四十名に達した。然るに御承知の通り、十日頃から關東地方は驚天動地大洪水となつて、各方面の交通機關は全く杜絶したとの報を得たのである、何處も四五日で交通機關が恢復されさうもない。若し福井が延期になれば、こつちも順繰りに延はさねばならぬ、と云つて、こちらは會塲の都合でもう二十一日より延す譯に行かない。困つた、弱つた、一體どうしたものだろふと、小林君と額を突き合せて、考へて見ても妙案も浮ばず、青くなつて震つて居ると、大下先生から、久し振りに御手紙到着、飛び立つ思ひで披いて見ると、一日位遲れるかも知れぬが、終りは矢張り二十七日に切り上げるとのことであつた、これで先づ解决が着いて、二人始めて愁眉を開いた。十九日の夜になつて、先生から電報を受け取つた夜二時半頃睡い眼をコスリ乍ら、西に春く殘月の淡ひ光を便りに獨り馬塲停車場にと向つた。ブラツトホームの上に、懐しい師の姿を認めた時、私は犇と懐舊の念に打たれて涙をさへ催した、三年振りに逢つた我師は、相變らず暖いほゝゑみを浮べて、出迎への勞を謝せられた。
いよいよ八月二十一日は來た、會員諸君は續々會場に集まつて來る、然るに又主催者のマゴツクことが出來たと云ふのは、今朝に及んで、突然豫期しない會員が一時に七八名も殖へたことである、夫れが爲めに講話室の机に不足を生じた、實習室も頗る狭隘を感じて來た、次の日も又次の日も、會員が殖へた、第四日目には五十七名の多數に達した。吾等主催者はこの盛況に言ふべからざる滿足を感じた。終に樂しい一週間は愉快に過ぎて最終の日となつた、日毎日毎膳所町民の注意を牽いた、長方形の箱を擔いで、皮の着いた三本足の腰掛けを持つた自然の讃美者は、今日限りこの町から見ることが出來ない―と思へば、染々と寂しい想が湧いて來たさりながらこの一週間に於ける先生の熱心なる御指導には、何時もながら感謝の外はなかつた、次で會員諸君が吾等の不行届をも御不平なく、能く圓滿な一週間を終ることを得せしめられたのは深く謝する次第である。私は最終の日陳列された諸君の一週間に於ける成績品を見て、フト第一回の青梅講習會の時を思い出した、あの時分の成績と比べると、實に雪壌の差である、あの時分には丸で兒戯に類するものがあつたが、今日のは實にアマチュアと思はれない堂々たる作品ばかりである。私は洋畫趣味の甚しい進歩に、且つ驚き且つ欣ぶと共に、又青梅時代から今日の進歩に與つて力ある先生の前に、多大の敬意を拂はざるを得なかつた。この日午后の互別會は空前の盛況であつた、私は不幸にして俄然發病した爲めに、列席し得なかつたが、それでも隣室で氷を抱きなから、この盛況を聞いて居た。隣りに寝てる私にはよくは別らぬが、それでも動物の假音や、口上使ひを聞いた時には、歯を喰ひしばつて獨り笑つて居た、これがホントの泣き笑いだらうとツクヅク思つた。餘興の演ぜられる度毎、親しげな笑ひ聲や拍子の音がドツと起る、私はこの盛んな状況を耳にして、苦しい中にも言ふぺからざる嬉しさを感じた、そして口の中で幽かに諸君の萬歳を稱へて居た。かくて思い出多き講習會は終つたのである。(九月十四日)