寄書 下諏訪の一日

堀谷ワツトマン
『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日

 朝早く、スケツチ箱を肩に懸け、三脚を携へて宿を出で町外れを二三丁を進めば、畫尚暗き森林あり、樹木は日光を遮り、單に小鳥の啼き聲を聞く、下諏訪神社なり、境内より湖水を臨めば殆んど青疊を敷きたる如く、又た上方を望めば山嶺聳えて、恰も別天地の感あり、此處にて二三の鉛筆スケツチを爲し、更に湖畔に向ふて行くこと二三丁、この地の名物風車水車の設け點々たるを見る、畫題を採らんと四方に眼を注ぎしも、平々凡々何の得る所もなし、畷道を辿りつゝ湖畔に出づ、四圍の連山朝凪ぎの水、自然に憬れし我精神は、今俄かに海と等しき渺茫たる大觀に接し、悦ばしさ限りなし、沼地有り、蘆は茫々として、水面は微風に揺れたり、此處をと三脚に腰をすえ、連山を遠景に、水面及び蘆を近景とし九つ切に描き初む、時に一時、漸くに一枚を仕上け、有合御肴と書せる一茶店に入る、室は古代と思しく天井無く柱皆クソムソンレーキ色を爲す、畫餉を濟まし後暫時の休息寫生帖に簡單なる水繪を抽く、歸路夕陽斜めに、清流は、金色に輝きて眩き許りなり、行くこと四五丁、日は次第に西に沒し、月は頭上に淡白く現はる、肥臭き茅舎蕭疎たる間を通り過ぎ、神祠の垣の側に出で、湯の花鬻ぐ商家を餘所に見つゝ、白燈煌く頃再び三層樓の客となりぬ。

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