寄書 ノートの中より

紅靜
『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日

 一、濃淡色の調子は飽くまで自然でなければならぬ。
 一、最初は成るべく部分を見ぬ樣にして、其の全體を見なければならぬ。
 一、或る場合の外は部分々々より仕上ることなく、全體を同時に仕上る樣にしなければならぬ。
 一、濃淡色彩筆趣の裡に、よく全體の感じが顯はれ、又個性の感じも見えなければならぬ。
 一、自然美は見えぬ處に澤山その分子を含むで居るから活眼して研究しなければならぬ。
 一、一點一劃の正確、又色彩の完全は倶によく自然を思はしむ。
 一、簡單な色が中々解らぬ、青くも赤くも黄なくも見える。
 一、繪具の撰擇着色の順序方法等を誤ると不結果に終るから、筆をとる前に、先づ自然の調子を呑み込み、其の畫くべき順序や方法を案じなければならぬ。
 一、執筆中は極めて平然として、頭を平等に配らなければならぬ、余り自然に惚れ過ぎて、其の結果自然の捕虜になると稽もすると無意識に筆が走ることもある樣だ。
 一、陰陽の裡には恐ろしき自然の神秘がある樣だ。
 一、さて三脚を据えて見ると、より新らしき感興を見ることがあると云ふのは、自然美の深遠崇高なるところで、素通り位の尋常の見方では見せてくれない、三脚据えてもまだ其の薀奥は中々見せてくれない、イヤ自然は見せて居るけれど、我々の信仰が足らぬから見得ないのである、見得る丈でもあたら其の恩を無にするではないか。
 一、寫生中は終始最初の印象を記憶して、寫生中に種々の原因より起る他の印象は放棄しなければならぬ、然し寫生中に、新らしき他のデリヶートな、最初より優つた印象を得ると中々棄て難いものだ、着色したる程度に依つては、新たなる印象をとつて全々最初の印象を棄てることもある。
 一、寫生中は時々目を靜養しなければならぬ、新らしき活眼を以て見ることが必要である、余り自然に拘束されて、神經に疲勞を生ずると、見得べきものをも見えす、畫面に齷齪して自然を忘れる憂がある、時々新らしき眼を以て見るときは、其の位置に於て未だ氣付かざりし美を授かることがある、其結果は大なるものである。
 一、生命ある自然を見て、機械的に光線や形や色によつて、それで自然の感じや物質を表はさふとしてもためである、ある程度までは全く自然と同化しなげればならぬ、所謂無我の境に入つて自然そのものになつて、自然の心情を輸入しなければならぬ、千里眼の樣に木皮の中に居る虫までも見る必要はない、自然を機械的に味ふと共に精紳的に味はなげれはならぬ。
 一、畫は手で畫くものでない、目ばかりで畫くものでもない、頭でかゝなければならぬ。即ち頭に感じた有樣を畫かなければならぬ。
 一、小なる誤筆は發見し難く、補筆して以て始めて其の非を解り、其の結果に驚く盲なるかな。
 一、我々は幾何學の理を知つて、其の基本たる推理の基礎たる べき公理を知らぬ樣なものだ、川の本流を知つて、其の源泉を知らぬ樣なものだ、我々は結果を知つて根元を知らぬ、自 然にも、公理となるべき、源泉ともなるべき、自然美の根元 が奥深く潜むで居る樣だ、我々は逆路をとつて、公理源泉を 尋ぬるのだ、その幾分は先輩によつて發見されて居るが、起 因すべき公理や源泉は、まだまだ澤山あるらしい、我々は信 仰の力によつてぞれらを得むとするのだ、その信仰は積むで 以て愈自然美を味ひ、絶對なる自然を眞から味ふことが出來 る樣になる。

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