寄書 繪畫と品性

大和の會友
『みづゑ』第六十八
明治43年11月3日

 はたしてこれが當を得て居るや否やは知ぬが僕の繪畫と品性とに對する所感を述べやう。一管の畫筆、單純なる數種の繪具を以て、ペンペラペンの一葉の紙面の上に、大自然を捕えやうとするのが繪畫の根本的目的である。他面より云はゞ、自然の表情エフエクトーを遣憾なく表すのが繪畫の大目的でなければならない。
 然して自然には例へ外見に美、醜等、あらゆる表情がありともその根本に立ち入るときは皆一にて、神聖にして人の犯し得べからざるものである。例へば無風流なる人のために風景絶佳の所に、生新らしい石垣を築かれたと假定したるとき、その一時は醜い感じを表はしたとてタイムの力にて石崩れ苔生じたるときは依然美的要素を有して居るのであらう。さなくとも、新舌を問はず如何なるものにても一度自然界に持ち出だされたるものは絶對的に自然を取り去ることが出來ぬものである。又繪畫は文章と等しく筆者の思想を發表する方便であるから、その筆者の人格、性質、心の状態等をも殘りなく表はすものである。故に忠實に自然を描寫せんとするときには、吾れ先づ自然の人とならなければならない。
 然るに自然は前記の如く神聖にして犯すべからざるものである。されば吾れ、自然の人とならんには必ず神聖の人とならなければならないのである。
 自己が神聖にて、自然に對してこそはじめて自然の感じをも圓滿に描き出すことが出來るのである。
 若し畫面に向ひて猶、心裡野心あり邪念あり、虚榮心あり、欲望を懐いて居るものが何うして、よく完全圓滿なる描寫が出來やうか、决して望み得べきことでないのである。故に何人を問はず、繪畫を描き自然を描かんと志す者は必ずや、少くとも畫面に對する間は凡ての邪念を放逐せなければならないのである。
 かくの如くにして幾月間、幾年間、時々に畫面に對して自己の下劣なる、惡徳を放棄したるときは、例へ吾人の如き者といへども何時かは高潔なる品性を有することが出來るに相違あるまい。
 或は捏造の説と云ふ人もあらう。然し僕はこれによつて僕の時々に彩筆を執る唯一の慰安として居るのである。
(四三―十―五)

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