ターナーの水彩畫[四]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第七十 P.4-8
明治43年12月3日

 一八二○年より一八四〇年に至る問は、ターナーの作品はスケッチは別物として殆んど全く彫刻の爲めであつた。實に彫刻の校正嚴密周到の注意を促した爲めに線の山水彫刻としては上々の作を出した。その重なるものは、”The Southern Coast”ロージャーの詩集、及イタリーバイロンの作品、スコツトの詩及散文の作品、及”Pisturequr Views in Eugland and Wales”等であある。
 一八二四年氏の作品『英國の河川』及『英國の諸港』の如き、ヨークシヤイア時代の單簡なる作品に比しては色彩の豊富にして巧妙なるものあるを見るのである。
 一八二六年には氏が線彫刻巾の傑作たる”Picturesque Views of England and Wales”を畫いた、但し賣行きが甚だ惡るかつた。氏は英吉利とウエールスの景色描寫に全力を注いだ。寺町、田舎町、古城、廢寺、山川沼澤、海岸、一日中の各時、曉、日中、日没、黄昏、月夜、氣候及空氣の種々の變化等悉くを盡した。何れも巧妙の作で、中には點綴の人物に粗雜にして如何はしき作あれども、自ら詩的なる筆致があつて、殊に搆圖色彩等良好である。余輩は少くともこの内の十二葉は風景畫の上々なるものと斷言するのである。當時ターナーはこれ等の繪一枚を六七十ギニーの稿料を得たのであるが、今日は、一枚一千ギニーより二千五百ギニーの價がある。
 一八三〇年|一八三六年の氏が水彩畫の新樣は小間繪としての小品畫の數の夥しい事である。その重な.るものはロージヤース氏の詩集及『伊太利』の挿畫である。この繪は前作に比して著しく異つて居る。運筆怪奇に頗る想像的で感想が詩的であつて、色彩が放縦で奇妙に力を入れてある。總て氏の小問畫は皆この描法を用ゐて居る。かゝる色彩の描法は彫刻の方式に關係あることは言ふまでもない。氏のこの描法の趣意如何は兎に角、この不自然なる色彩が繪畫に比してより美麗なることは事實である。
 この時代の小品(鼠色紙に描きたるものを含む)中優秀の作が多い。『佛蘭西の河川』中の、Jumieges Candebec,Saint Denis,Ronen from St.Catherime's Hill,及びThe Light Towers of the Heve(ナシヨチルギヤラリーにあり)等傑作である。ダーナー氏は晩年に到つては彫刻用畫は賣らすして、出版者にこれを貸與し、料金一枚に付通例五六ギニーを徴牧したといふ事である。而してスケッチの大部分を所持して居つた。曾て氏が『佛蘭西の河川』の畫六十枚を汚き鳶色の紙に包みてラスキン氏の許に持参し、一枚二十五ギニーに買入を求めた。一八三○年より一八三六年の問にターナー氏は小形ではあるが挿畫を殆んと三百五十枚を描いて居る。これが彫刻に付ては微細部分に至るまで校正を嚴密にしたといふことである。これと全時に一方には展覽會出品の油畫の執筆に日も足らぬ程であつた。この彫刻用畫の作製は一八三八年に筆を納めた。氏はこの當時富裕となつた故に繪を賣るの必要がない。而して靜に後世に傳ふべき大作に筆を執つて居つた。一八三八年より一八四五年に至る間は氏は健康がすぐれなかったので、多くは大陸に日を暮して居つた。この時代の氏の水彩畫の技量は最高潮を通過して居る。氏は再びヴェニスに趣いた。後に至つてヨークシヤイアがあるが、ヴヱニスは氏にとりて最も快心の地であつたのである。氏がこの町、湖水、山岳及びことにRighiをは幾度畫題に上せたが枚擧することが出來ない位である。赤のRighiがある、ブリューのそれがある濃暗のそれがある、ぺールのそれがある。其他數百の異つたものがあつて、皆その趣を異にして居る。總て氏が『喜悦の幻想』である。氏は又スウイツルランド、ピードモント及びサヴォーイの近傍にて多數の畫を作製した。
 この時代の氏の繪畫及びスケッチは總て古雅なる味があつて、加ふるに繪に厚みがあり、色彩が非常に豊富である。六十年の經驗は氏に靈妙の手腕を與ヘた。氏の畫は多くは快速の筆であるが、他方には微細部分に到るまで極念入の作もあり、傍ら具入繪具の作もあるのである。ラスキン氏の言ふ處に依ると、SwissLake,Lausame,The Seelisberg,Moonlight,Schaffhausen,Tell's Chapel,Fluelenがターチー氏の大陸に於ける終りの作品であるといふのである。
 ターナー氏最後の最困難な新發展は殊に油繪に於て自然界の純粋の光線、迅速の運動、雜然たる自然力を描くにあつたが、世人はこれを認めて居らなかつた。就中ヴェニスを畫題にとつたものゝ或物、海上雪吹雪、雨、蒸氣と速力等は全く世人に誤られ嘲笑を以て迎ヘられた。ブラツクウーヅ誌の如きポンチに加ふるにサツカレーの諷刺文を以て攻撃して居る。いふまでもなく晩年の油繪は運筆が空想に流れ色彩が極端に走つて居る。
 ターナー氏の晩年の作は今日に於ても猶了解せられて居らぬ。數年以前に有名な獨逸の眼科醫が學士會院に於ての演述に、ターナーの晩年の作畫に趣端な色彩を用ひたのは、描き得べからざるものを描かんと試みたのでない。これは總てのものを黄色に見ゆる不具的の幻視を起す老眼の視覺の爲めであるといふて居る。しかし敎授リーブライヒは前説に賛成をしない、日光を充分浴びて居るものを描くには黄色を帯びることは白然の數である。しかしターナーはパレットに於て色彩の最深い調子を作製したと同時に、最淡彩の日没の景を水彩畫に描いて居る。一八三八年より一八四五年頃のスウツス、ヴェネシア其他のスケッチがそれである。この理由はいふまでもなく、氏が新目的の純粹の光線を描くには水彩顔料はメデイアムとして不適當のものであるから油繪具を用ひたのである。
 兎に角批評家の攻撃は功を奏した。晩年に到つてターナーは畫を賣ることすら困難となつて來た。今日非常に高價なるものも、その當時は立派なるものにて一枚十八ギニー位に過ぎなかつた。一八四五年以後は氏の健康が漸次に害せられて行くやうになつたが、一八五一年殆んと死期の近くまで、油繪製作を續けた。しかし今日知られて居る限りでは、氏の晩年には比較的に水彩畫が少いとしてある。
 ターナー氏の水彩畫の技巧に付て一言を費さう。これに付てはレツドグレーヴ氏著Century of PaintersVol.l.及びローゲー氏著History of Old Water Colour Societyに記してあるものがある。氏は最初よりの大革新者で、材料を撰擇し、屡習慣先例等にこだわらずして氏獨特の筆法を案出したが、皆己が目的を遂行して居るのである。畫面を小刀を以て引爬き、海綿にて擦りまたは吸取紙を使用した痕跡大概の畫にある。余の所有せる畫面には氏の親指の痕が明に現はれて居る、のがある。併しこの細工が皆好結果を來して居るのである。氏の油繪に於ては殊に一八三○年後のものにはこの細工を施したのが苦辛の痕はありながら多くは失敗して居る。唯惜しむべきことは、公設畫館もしくは私有の優麗な水彩畫が常に光線に晒されて居るために色彩が變化し廢滅して行くことである。
 さて前段に於てターナー氏の繪畫に付ての審美的批評はつとめて避けて來たのであるが、此稿を結ぶに先立つて水彩畫に於ける特長の概略を述べやう。
 氏の技巧的熟錬を措いて第一の特長は氏獨得の技術であらう。されば他の畫家にもないではないが兎に角に偉大なるものがある。この原因は説明に甚だ困難ではあるが、余はこれを氏が腦裏に詩的な幻想を無量に持して居るのに依るといひたいのである。氏は畫題が如何に單簡であるとも、それを最美麗な最ロ葺マンチツクな點から直覺的に見たのである。もしも美麗な處もローマンチツクな處もないとなれば、これに光線の光輝を浴せる、か、霧を以て覆ふか、もしくはこれを遠方から見たやうにして「無限」の神秘な感じを起さす樣にして言知らぬ魅力を現はすのである。實にターナー氏は詩人であるのである。氏はその生涯を通じて詩の讀者たりまた浩瀚なる詩の作家であったのであるが、氏が無敎育なるが爲めにこれを適當の韻文に顯はすことが出來なかつたのである。同じ理由の下に、氏が諧★の感を欠いて居る爲めに氏の繪畫殊に古典的及宗敎的の畫に完全な表情か顯はれて居らぬ。併しながら氏は烱たる詩眼を以て自然の奥秘を探り來つてこれを畫面に縦横に顯はして居るのである。
 世人がターナー氏の作品を嘆稱して措かざる所以のものは氏が自然界の壯、美の觀を深く愛した印象が畫面に浮動して居るからでなぐてはならぬ。この自然界の壯美の觀を愛した度はウォーズウォーズのそれよりも強く、シエレーのそれよりも痛切であつたのである。もし夫れ氏に自然を愛する情がなかつたならば、如何にしてかの一萬九千餘の自然界の千態萬状を描いた習作畫が出來やう筈がないのである。
 此の故に氏の畫には深淵な意味を藏して居るものがある。いふまでもなく神韻漂渺たるものであるが、これが氏が獨特の妙技であるのである。かゝる描法は近代の風景畫家の主張に依れば大いに誤れるものであるといふのである。彼等の主張は繪畫の技術は「文學的」なるべからず、また智的なるべからずといふのである。併しながら余を以て見れば、例之ばレオナルドー、ミカイルアンヂェロ、ホルベーン、レンブラン等の最高名家の作品に、智並に感情に訴えて居るものも、澤山にあるではないか。ラスキン氏も『大畫家の畫面の意味はその畫家自身の顯はさんとしたるものゝみに限るべきものではない、これより種々の意味を昧ふべきものである』といふて居る。(ダブルユー、ジー、ローリングソン稿)

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