伊太利の旅[四]

岡精一
『みづゑ』第七十 P.17-20
明治43年12月3日

 八月三十日雨
 今朝はSix Collectionを縦覽した、此Six collectionといふのはJan Sixといふ人の後裔でBaron J.Sixといふ人に至るまで連綿として此處に住んで居たのである、而して此Jan Sixは一六一八年に生れ一七〇二年に病歿した人で、一六九一年以降其死に至るまで、アムステルダムの區長であつた、彼れは美術愛好者で、其頃の名匠Rembradtとは親しく交際をして居た計りでなく、尚又其保護者であつた、例により同館内に陳列せられてある名畫を擧げて見やう
 Portrait of Burgoimaster Six.(Rembrandt)
 此繪は主要の顔は誠に精巧の出來で能く整頓して居る、又其感じも至極上々の出來である、而して、其他の部分は極めて粗らく描かれてあるが其處に又得易からざる老練の節が窺はれて居る、其色調が誠に心地よく温暖で、言葉を以て評の出來ぬ妙味がある。
 Portrait of Jan Six.(Rembrandt)
 これはペン畫で前の畫を作るためにぺンを以で描かれたる草稿である。
 Anna Weymer(Rembrandt)
 これはJan Sixの母の肖像畫である。
 Jan Sex.(G.Terburg)
  Dr.Ephrain Bueno(Rembrandts)
 レンブラント作畫中の最小のもので、畫の大さ僅かに八インチの油繪である。
 Forest-scene.(Hobboma)
 Landscape.(J.van Ruysdael)
 Girl Jating oysters.(Jan Steem)
 Oyster-party.(Adr.van de Velde)
 Girl writing.(G.Terburg)
 Nic Tulp.(Frans Hals)
 dean de la chambre.(Jan Velde)
 Beach-scene.(A.van de Velde)
 Street-scene.(Jan Vermeer)
 Weding procession.(Jan Steen)
 Interior.(P.de Hooch)
 Fish market.(A.van Ostode)
 Cattlo.(Paul Potter)
 Cook.(Jan Vermeer)
 尚此外にも數多の畫が陳列せられてあつて、各其妙技を窺ふことが出來る、前に記したる畫題の下に横線を劃してあるのは傑作中の尤物である。
 悠々館内を縦覽して居る中畫も過きた、或レストランで空腹を醫し、午後は再度昨日縱覽したRyks museumを見直した。
 今夕六時三十七分發の汽車でBerlinへ徃く豫定であるから、ホテルに歸り準備に取りかゝつた、偖赤毛布の氣樂さには鞄一、手提一、毛布一、これ位の引越荷物であるから出發も甚だ容易で、其の上此地には知己とてもなければ逡迎の者も來ぬ誠にノンキ至極なものであつた。
 さて時刻は來た、列車は動き始めた、此前後から雨は又盛んに、盆をくっがヘしたといふ有樣で、折々霹靂の響も聞こえる、酷暑中驟雨に連れて雷鳴を聞くのは中々爽快で興味あるものであるが、車中では一向爽快でも何でもない、車窓は開けられぬ、蒸し暑ついのと、汗臭いので隨分困つた、汽車は久數暗夜を駛走つて居たが、モゥ國境に來たと見える、此停車場はStendaといふ所であつた、汽車が着くと間もなく例の税關吏は車内に這入て來て乗客の荷物を檢査した。
 八月三十一日雨
 午前六時三十分汽車はBerlinに着いた。曾て出發前、伯林に徃つたならば日本人の常に宿泊して居る下宿屋があるからとて、或友人が深切に添書を認めて呉れたのを持つて居る、兎に角其家に徃くことゝ定めて置いたので、停車場に着くと直に馬車を命じて、指定の家に着けさせた、下宿に徃く道すがら、吾々一行の心には言ひ合さねど、此家の人々は、平素日本人に接して居るから日本人の氣心も知つて居やう、日本語は片言交り位でも解るであらふ、よし日本語を解せぬ迄も英語か佛語は少しは話せるであらふ、との空想を持つて居たのである、偖、馬車が入口に横付けにせられた、一行は馬車を降りて荷物は入口の一隅に纒め馬車賃を支拂ひ、打揃ふで二階に上がつた、入口の扉にはかねて聞いて居た姓名が眞鍮の名札に鐫りつけられてある、ベルを鳴らし案内を請ふた、間もなく、十八九にもならふと思はれる太く短かい愛嬌のある一人の下婢が出て來たから、簡單に英語で來意を語リ、かねて友人より與へられた添書を手渡した、下婢は頻りに、吾々に解らぬ獨乙語でシカモ最も早口に、何かベチヤベチャいふて居るが、雀が囀づて居るのか、驟雨の時の雨だれの音か、何んだかトテモ解らぬ、其中に下婢は添書を持つて奥へ這入て徃つたから、此次はお神かそれとも此家の誰かゞ出て來るであらふ、さうしたらば、詳しく判かるからと、待構ヘて居つた、暫時すると、再度以前の下婢が出て來て、又囀りを始めた、併し矢張り解からぬ、例令へ出來る丈け静かに落付いて話して呉れたとて解かる氣遣いはないのである、下婢もあまりわからぬ田舎漢共だと思ふたか、其儘階段を降りて表の入口を出て徃つた、サーかうなると、何がどう成つたのか少しも解からぬ、互に顔を見合せて居た、さて暫らく待つて居ると、下婢は吾々の方ヘ向つて上つて來た、續いて我同胞らしい一人のヤングゼントルマンも來られた、茲に至つて稍其眞意を了解することが出來た、これはいふ迄もなく吾々旅客は唖同然の者共であるから、同種族で獨乙語の話せる人を連れて來たならば話は悉皆解かるであらふ、と下婢が氣轉をきかせたのである、先づヤングゼントルマンは一禮の後、貴君等は何の御用で御來訪になりましたか、私は何某と申す者で、唯今此下婢が鳥渡來て呉れといふので、かねて此家は知り合でもありますから取り敢へず参りました、と、大に禮儀を以て語り出でられた、風采から見ても世慣れた立派な態度である、吾々は甚だ恐縮したが、先づ來意を告げた、すると、此ヤングゼントルマンは委細の模樣を前の下婢に通ぜられた、下婢は一切承知で部屋の都合をして呉れた、これから荷物を階上に搬こぶやら大に奔走をして呉れた主ヤングゼントルマンは、吾々の唖旅行を氣の毒に思はれ、何んでも御用かあらば御遠慮なく御話し下さい、身に叶ふことは何んでも致しませうと、地獄で佛とは全く此の如き場合をいふのであらふと思ふた、お蔭で悉皆の意味も下婢に解かつたのであるから別段お願することもないが試に此家のお神だの家族の人々は何故出て來ぬのかと問ふたれば、息子は此頃旅行中であるが兩三日の中には歸宅する筈である、又お神は早朝から用達しに出懸けたが晩景には歸つて來るといふことが詳細に判かつた、都合の惡い時はすべてこんなものである、併し此處の息子は英語が話せるといふことを聞いた時は、餘程なつかしく感ぜられた、偖ヤングゼントルマンに深く其厚意と盡力とを謝したれば、又御用があらば使をお遣しになれば何時でも参りますといふて、歸宅された。
 

横濱支部展覽會

 此家には不斷我同胞の二人や三人は宿泊して居られるといふことであるが、時は恰度盛夏であるから市街に住んで居る人々の多くは彼處此處と涼敷地方を擇んで旅行をして居る、此家の宿泊者も悉皆今は留守であつたから、何處なりとも好きな部屋を取れとは、下婢の御深切なる言葉であつたが、何れの部屋を見ても、室を借りて居るあるじの諸道具類は陳列せられたる儘であるから、無斷で借主のある室に闖入して居る譯だ、これは我輩等には甚敷き不愉快であつた、併し又改めて他に引移るといふのも、誠に氣の毒な感じもするから、遂に此處を一行の宿泊所に定めた、室の主人公に逢つた曉には、無斷で闖入した罪を謝することに決したのであるが、隨分心細い次第である、下婢は吾々唖同然の旅行者を氣會覽展部支濵横の毒に思ふたが、屡、部室を見舞て呉れて、何が用事かあらば足して進せようといふ樣子である、世間には鬼は居らぬ、例令片言雙語たりとも御禮の言葉を彼女に言ふて遺れば、彼女も定.めて滿足するであらふとは毎度思ふたが、噫悲矣哉、唖!宿所も漸く定だまつたので、これから齋藤君を訪間しやうと下村氏が言ひ出した(此齋藤君といふ人は有名なる勤勉家で又最も謹嚴を以て聞こえた敎育家である)から相携て同君を訪問したが、あいにく御不在であつた、それではと暫く市街の見物を始めた。
 伯林の位置だの地勢の如きは誰れでも知つて居らるゝから省いておく、又これ等のことを説くのは我輩等赤毛布者流のガラでない、兎も角市街はよく整頓して居る、交涌機關は誠に便利で、電車は四通八達である、此點は恰かも我東京市の便利なるに似通ふて居るが、人を曳き倒したり、停電したり時に荷車などに衝突したりする點は、我輩は調査した譯では無いから判然せぬが、あまり耳にしなかつた、伯林市街の中で、何處が最も廣くて美くしい通りであるかと問へば、誰れでも先づUnterden Lindenと答ヘる、このウンテルデンリンデンといふ大通りは當市大通り中でこれに匹儔するだけの廣い通りがない、又其通りの兩側に菩提樹を竝べ植えられてあるから、かく名付たのであるとは、或物知りから聞いた話である、これ等のことは我輩如き赤毛布順禮が言はずとも諸君は先刻御承知の筈である、町見物に付いても書くことは數多あるが、茲には省いて置く。
 一時間餘、最も繁華で旦最も整頓して居る此處、彼處と見物をして、再び前の齋藤君を訪ふて、暫時の間種々の談話に耽つて居たが、終にこれから動物園を縦覽しやうといふことに相談が纒まつた、此度は齋藤君が御案内をして下さるのだから朽面棒を振ることはなく誠に安神なものだ。
 動物園、一人前大枚一馬克の入場料を拂ふて動物園ヘ這入つた、此處は一八四四年に開園せられたといふ事である、世界普通の動物の種類を網羅して居るばかりではなく、珍奇なる動屬も誠に夥だしく、恐らく他の動物園内では見ることも出來ぬであらふと迄思はれたものも飼養して居る、園内は巧みに道を拓らいてあるので、順序よく見物が出來て、其上數多の縦覽者を入場せしむることが出來る、又時としては、午後は奏樂の催ふしもある、一行は其善美を盡したるに感服し悠々見物を畢ヘた、チト運動が過ぎたと見えて皆大に空腹を感して來たから日本倶樂部に往つて、久方振りで日本食を命じた、日本を出てから米、英、佛、白等の國々で日本食の馳走を受けた事も屡あつたが、鰻の蒲焼、刺身などは、未だ曾て目に觸れたこともなかつたので、其味は又格別であつた、鼓腹撃壌太平を謳ふなどゝいふのは、此邊の場合を形容していふべきであらふ。

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