春鳥畫談

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第七十 P.23
明治43年12月3日

 近頃西洋畫が非常の勢で盛んになつて來た、これは何も日本畫が衰ヘたからでは無い、敎育の普及進歩は一面に在來の不自然な繪に満足することの出來ない心を養つたのと、また物質上に於て、事々物々西洋畫風の應用から、絶えず目に馴れて來たのも原因で、其他數へあげたら種々の理由から人心が西洋畫に傾いて來たのである。
 新聞雜誌の挿繪は、西洋畫若くはそれから出た西洋畫風のものばかりである、雜誌の口繪は、婦人ものを除いては是又全部西洋畫である、書籍は申迄も無く、街頭の招牌、電車内の廣告引札のやうなもの迄も、畫といへば必ず西洋畫といふてよい位である、甚しきは日本畫の展覽會ヘ入つて見ても、必ず幾枚かの準西洋畫を見出すのである。
 現代から數歩數十歩趣味の後れてゐる婦人連は別として、苟も今日の學生で好んで日本畫を習ふ人はあまり多くは無い、繪心ある青年は、鉛筆とスケッチブックは持たうが矢立と半紙の綴ぢたのを懷中する人はあるまい。
 中學程度の學校では、いまだに日本畫の教師もあるやうだが、學生のよむ敎科書の挿繪でも、書物雜誌皆西洋畫であるため、また理科に於ける寫生の必要上から、生徒が日本畫を喜ばないので、敎師も止を得ず、西洋畫の獨案内を窃かに讀むで、鉛筆の使ひ方を稽古するといふ始末である。
 こんな風であるから、繪に志す青年の多くが、西洋畫に傾くのは當然のことで、其結果は、年々東京美術學校入學者の比例に見ても分る、即ち日本畫科は、常に募集の人員に不足を生ずるのに、西洋畫科は五倍以上の應募者があるのである。
 今の世の中は、其人の力次第で、誰れでも總理大臣にもなれやう、元帥にもなれやう、大實業家大農業家、何でも勝手次第ではあるが、明治の初年頃とは異つて、漸々それぞれ秩序が出來て來たため、一足飛には最高の地位に上れない、たゞこれあるは藝術家と相場師のみである。
 藝術家と相場師を敢て一つにするといふのではない、一は眞面目の仕事で天オに侯ち、他は不眞面目な事業で運勢による、一は名譽を得、他は富を得る、それだけの相違がある上、一は修業が必要で、他は多少の資金が入る、たゞ此二者が他の方面と異なる處は、進みゆく道、世に出る道に何等のうるさき關門が無いといふ點が似てゐるからである。
 藝術家のうちでも、文學方面は立派な作が出來ても、世に認められる方法が充分でない、無名の作家には、自由に飛躍することの出來る舞臺が無い、有つても甚だ狭いが、繪畫には各團體の展覽會は、如何に無名の人の作でもよくさヘあれば觀迎するし、また近年開かれた文部省の美術展覽會は、全く自由なる晴れの壇場として公開してある、此展覽會は、如何に有名な人の作でも、出來が惡ければ遠慮なく却けると同時に、傑作でさヘあれば、乳臭の少年にでも一二等の賞を與ふることを躊躇しない。
 出世の門戸はかく自由に開かれてあるから、其人の才分と努力は、忽ちにして第一流に上し、世間の名譽を一身に集むることも出來るのである、從つて世の畫才ある青年が、近來美術に志して集まり來るも無理の無いことである、そして年々の展覽會の成績は、これ等の青年をして西洋畫に向はしめつゝあるのである。
 繪に志す多くの青年のうちには、徹頭徹尾繪が好きで、繪さヘ描いて一生迭れたらそれで満足だといふ篤志家もあらう、自己の天才を頼んで、一番世間を驚ろかしてやらうといふ名譽心の強い野心家もあらう、多少繪心があるから、これを飯の種にしやうといふ心細い連中も少しはあらう、それ等の事柄も意識せず、何の考も無く、漫然畫家として世を送らうといふ暢氣な人もあらう、私はそれ等の人々の参考に、畫家生活の概略を述べて見やう。
 人物なり風景なりを人に依頼され、又は展覽會などで賣つて生活費を得てゆく人は、一番幸福ではあるが、それ等は殆と數ヘる程も無い、そこ。て美術家以外、所謂繪かきの領分に踏込むで、繪によつて金を取る手段としての仕事を誰れもやる。
 繪に關係した職業で一番金になるのは、肖像畫かきであらう、肖像といふたとて、一流の畫家になると、五百金千金の報酬を取るが、東京市内、又は繁華な市町に看板をかけてやつてゐる先生では、油繪十圓、絹地五圓、コンテー三圓なンといふ處だが、それでも依賴者さへ多ければ充分生計に困らない、このやうな低流の肖像畫家になるのには別に修養といふ程のことも要らず、よく似せてキレーに畫けさへすればよいのであるから、器用な人は獨習でも出來る、勿論藝術家的良心なンぞあつたものではない、老人も若く畫かうし、醜婦も美人にするだらうし、依賴者に満足を興ヘさへすればそれでよいのだ。
 横濱神戸京都日光等、外國人相手に所謂輸出畫を畫くのもよい仕事である。現今知名の大家で、其苦學時代にこの種の畫によつて救はれた人も少なくない。此畫には二種あつて、一は自己が勝手に寫生した繪のうちから外國人向のものを買つて貰ふのと、他は全然初めより外國人向に畫室で拵ヘ上げるのとある。中には有名な大家の、しかも賣口のよい圖柄の繪を數枚求めて、それを手本として絶えず摸寫をなし、落款迄も眞似て同じものを幾度も賣つてゐるのもある。
 書籍雜誌の口繪を畫く人は可なりの報酬を受くるのであるが、絶えず仕事のあるといふのでもなく、またコマ繪かきも畫いたものが不殘金に代るといふのではないから、傍で見るよりは苦しいものであらう、そして口繪やコマ繪の粗末なものを畫きつけると、自然自己の本領たる眞の製作の上に惡か影響がある、尤も所謂挿繪家としてやつてゐる人は別だ、西洋の雜誌や書物にあるやうな立派な繪をかく眞の挿繪家でなく、たゞ風潮に乗つてベタベタと畫きなぐつてゆくのなら、大した素養も要らない、却つてデッサンなど充分やつた人には出來ない藝である。
 

横濱支部會員の一部

 學校の敎師も繪を職業とする一つである。時間もあり報酬も多く名譽もある美術學校の先生は別として、普通中等學校の敎師は、二十五圓から四五十圓迄の月俸を受けてゐる、最も東京が一番安く、九州とか北海道とか、氣候の惡い處や不便の地は高い。中等學校の敎員になるのには、中學卒業後、東京美術學校圖畫師範科を出るか、高等師範學校の圖畫手工科を出るか、又は毎年執行さるゝ檢定試驗を受ければよいのであつて、前二者は在學中毎月幾分かの手當さへ支給される、また檢定を受けるのには、中學校卒業後敎師に就いて三四ケ月も用器畫を敎はり、何處かの研究所で半年も鉛筆畫や圖按の大タイの稽古をすれば試驗に應ずることが出來る。
 多額の學資を注ぎ込み、數年の修業をして學士になつても初めは二十圓か二十温圓といふ世の中に、圖畫の敎師は割がよいが其代り出世のしやうがない、一旦地方の圖畫の敎師となつて、後日足を洗つて大家の列に入つた人は、今の洋畫界に僅かに三部一の員會部支濵横四人に過ぎない。
 新聞杜若くは雜誌社に雇はれてゐる人は、日曜日のほか毎日半日宛の暇があるから、志さへあれば勉強も出來るし製作も出來る、これは學校の敎師よりも優つてゐるが、さて澤山に雇はれ口が無い。
 版下書きといふのは、口繪や何かの原畫を描くのとは異つて、教科書や辭書や百科全書などの木版又は寫眞板の下繪に畫く職業である。これになると、極まつた仕事をするので、絶對に畫家としての自由を奪はれ、純然たる職人で面白味も何もあつたものではない、そして書店との關係をつけるのが容易でないから、誰れでも此職を早に入れるといふことが出來ない。
 石版の製版もよい職業の一つで、小さな石版屋の仕事を引受けてやるとか、又は大きな印刷處に雇はれるとかするので可なり口のある方だが、仕事は版下畫きよりもモット詰らぬ、此道に入るのには、一通り繪の描ける人なら大した稽古は要らない、熟練さヘ積めば上手になれやう。
 其他には、動植物の標本、又は解剖の寫生、理科農科の大學、農事試驗所、植物園、博物館等の仕事もあるが、これ等の需要は極めて僅少のものである。
 繪が好きで畫家を志した人は勿論、名譽のため生活の爲めに始めた人達でも、修業中は變りなく勉強もするだらうし、また美術書生のスタイルも出來て、皆それぞれ繪の爲めに一生を捧げる心持にもならうが、さて、美術學校なり研究所なりに、五六年も勉強して、繪の方は一人前になつた處で、中々自分の思ふやうなものを畫いてゐたのでは世間が養つてくれない。
 一通りの修業を終つて後も、學資の續く人は別として、學校を出たら生活しなければならぬ、自活するとなると、自然前記のうちのある職業に從事するのである、繪ばかり畫いてゐればよいといふ人も、活きなければならない、名譽を的としてやつた人でも、中々容易に月桂冠は來るものではない。
 どちらにしても、日本畫は知らず現今の西洋畫をやつてゐるのでは生活といふことは容易な事でないから、繪の修業を始めやうと思つたらよく考へるがよい。それでいよいよ此道に入つたなら、親から貰ふ學費はなるたけ費消せぬやうにして細く長く勉強し、學校を離れてからも當分は平氣で研究してゆけるやうにするがよい。

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