パレット物語
シシウ生
『みづゑ』第七十
明治43年12月3日
其一
この頃僕の主人は病氣で一ケ月の餘もブラブラ遊んで居る、只さへ怠け勝ちの主人のことゝて、病氣にでも罹るとそれこそ僕なんか丸ッきし關い付けない。のベッ幕なしに外に御供をして、カンカン天日に曝されるのも遣り切れないが、矢鱈に長い間、暗い狭苦しい箱の中に燻つてるのも辛いものさ。殊に今度の主人の病氣は一時仲々酷くて、僕も心配した位であつたので、その怠け方も御話しにならない。僕もあまり退屈なので、何かこの機會を利用して、饒舌ッて見るの光榮を有したくなッた。元より僕は學者でも文士でも論客でもないから、饒舌ることに順序もなけりや統一もない。その積りで聞いてくれ給ヘ。
實はこの頃主人の話を聞いてると、近頃の「ミヅエ」に出る汀鴎光生の三脚物語は仲々振ッてる、先生の文才にも敬服した、敢て美術に趣味を持つものと言はす、誰でも大に讀むべき文字だ。マア君讃んで見給へと云つては來る人毎に吹聽して居る。汀鴎先生の三脚君とは僕も聊か知り合いでもあるので、その話を聞いて僕もッイ飛び出して見たくなッた譯さ、パレットの三脚眞似たなんて彌次ッちやいけません。僕はこれでも生れは生粋のロンドン子なんだけれども、生れ落ちそ間もなく日本に來て歸化して仕まッたので、本國の樣子はさッぱり知らない。思へば不幸な話しで、本國に居れば或は今頃サーゼントだどかマックワーターだとか云ふ豪い人に知遇を得て居ないとも限らぬ。極東の美術國ほ未ダマダ吾々を優遇して呉れない。けれども日本は自然の美に富んで居るから、これを見られる丈は幸福である。
日本に來て當分の間は東京の神田にある文房堂に落ち付いて居たが、あまり氣に入ッた家でもなし馬又、たとへ一日でもブラブラ遊んで過すのは、アングロ、サクソンの血を受けた僕の好まぬ處なので、何處か早く良い主人を得て働きたいものだと思ッて居た、すると或る日一人の若い客が來て、僕を欲しいと言ッて身體中、何度も開けたり閉めたり散々ヒネクリ廻しながら、店員に高いから今少し負けろ負けろと怒鳴ツてる。「ドウモ私の處は定價より一厘も引けませんので」と店員が頭を掻き掻き挨拶して居る、何だい、ケチな客だな、僕はそんなケチン坊の處に行くのは眞平だぜと思ひながら、一體どんな男だらうとよく見ると、荒いスコッチの古ひハンチングを仰のけに被ッて、田舎縞の手織の袷に紺飛白の青白く褪色した羽織を着た、ドス黑い顔の眞中に無闇に大きな不行儀な鼻がピラミッドの樣にどかりと座つた、二十一二のヒヨロ長い書生ッポである。なんて無細工な艶消しなスタイルだらうと感心して居ると、突然「ソレジヤ止さう」といきなり僕をテーブルの上に投り出してサッサと出て行つた。一時は僕は胸震蘯を起したかと思つた位だつた。何だつて亂暴な奴があつたものだ、金がなくて買ヘないからッて人を叩き付ける法があるものかと思つて店員の顔を見ると店員も大きに不機嫌な顔をして居た。どうせあんな焼芋腹で僕なぞを招聘することが出來るもんかい、アゝもつと氣の利いた主人が欲しいなアと思りて居ると二三經つてその客が又ヒヨックリ入つて來て、硝子棚の中から僕を引つ張り出した、オヤオヤ又遣つて來たな、矢つ張り僕に未練があるんだ。そんならサッサと買ヘばいゝに意久地なしだナァと可笑くなつた。先生又店員にグズグズ言つて居たが軈て袂から財布を出して「オイ、ソレジア此處に置くよ」、と言つて、何處で工面して來たか札や銀貨をジャラジャラと臺の上に掴み出した。アッと思つてる間に僕は古新聞に包まれてその客の懐に子ヂ込まれて仕まつた。その客が誰あらう今の大切な僕の主人さ。
其二
僕が主人の處に來たのは丁度千九百六年―明治三十九年の春だつたから、今年でもう五年目になる、今でこそ主人は柄にもない髭=無細工ながらも=なんか生して、三大節にはフロックコートで出かけるが、僕の來た時なんか隨分プーアな學生だつたね。その頃主人は牛込の原町、或る玩具屋の二階に、三つ年上の早稻田大學に行つてる兄と一處に下宿して居たがね、時々兄から焼芋屋への全權公使を命ぜられて閉口して居たこともあつた、アーア、人と生れて弟となる勿れだ」なんてこぼしながら買いに行つたこともあつた。それでも時とすると「今日は僕、喰いたくないから行ないや」なぞと恩命を辭することもあつた。そんな時には主人の兄は、眼鏡の下から眼をパチパチさせて睨め付けながら「現金な奴だナア、ヂヤア喰はさんから宜い」と云つてプンプン憤つて自分で買いに出かける、暫くすると懐を蛙のやうに膨らして歸つて來る、そして殊更に主人の前に古新聞を擴げて、甘さうな香の蒸氣がポッポと立ち昇つてる奴を其上に取り出して舌鼓を鳴らして喰ふ、サア此場合主人の態度が大に見物だと、机の上で息を殺して觀察して居ると面白い。主人はチットの間は業と知らぬ顔をして我不關焉と澄して居るが、軈て人並外れて高く突起した喉佛が上下にビクリと動く。次いて唾液が食道の中をグイグイと鳴る音が聞ヘる、暫くするとアゝと両手で頭を抱ヘてゴロリと横になる刹那、其一方の手が電光石火と閃いてパクリと一つ‥‥その早業は人をしてアッと思はせる、それと同時に霹靂一聲、コラッ!泥棒!と兄の聲!或る時は、兄さんもコッを覺ヘて主人が手を出すのを逸早く腕を捉ヘて、キュッと撚ち上げて謝罪らせたこともあつた。マア初めからみんなに主人の舊惡ばかりさらげ出しても主人の佑券に係るから芋話しは中止しやう。
その頃主人は今の水彩畫研究所が水彩畫講習所と云つて神田三崎町の日本大學の横町、汚い狭い裏通りの何とか幼稚園と云ふものゝ中に併置されてあつた時分に通つて居つた、通ふと云つても、その時の講習所は、大下先生がホンのアマチユウアを導く爲めに、ッマリいろいろな業務を有する素人で水彩畫に趣味を有し、慰み旁それを日曜毎に研究して樂しみたいと云ふ樣な人々の爲めに組織されたので、隨つて授業日は日曜日丈しかない。極めて呑氣な目的の研究所であつた。けれども主人が其處に入學したのは决してそんな悠々閑日月有と云ふ樣な理由ではなく或る一種の眞面目な野心を持つて通學して居つたのであつた。その時分の講習所は無論、規模も小さく、始まつた計りでもあり、少しも世間に存在を認められて居なかつた、而かも僅々一ヶ年の後、その少々たる講習所が一躍今の小石川に在る水彩畫研究所となり、堂々たる建物は行人の足をとどめ、隆々たる名聲は漸次天下の耳目を惹くに至つたのを想ヘば其發達の速かなるに驚くと共に又今昔の感に堪ヘないものがある。僕はこの次から少しくその時代からの記臆を述べて見やうと思ふ。