寄書 八幡紀行

夏月生
『みづゑ』第七十
明治43年12月3日

  予は、天長の佳節朝飯もソコソコに、宅を出で、谷村氏を誘ひて、天滿橋なる京坂電軌停留所に馳け行き、忽ち車中の人となる。
 やがて、汽笛と共に車は徐々と進行をはじめ間もなく蒲生を過ぎ、市内を遠く背に見る。此ほとり田野の彩は華やかなる、オレンヂ一色となりて、その盡くる所、信貴、生駒の諸山、煙の如く浮び出て、秋氣天地に滿てり。
 程もなく、八幡に下車して、足を淀川ヘ運ぶ。此附近風光一變して、廣漢たる淀川、洋々と流れ、八幡、山崎附近の連山、此兩岸を繞り、其の間點ずるに自帆を以てす。二三町にして河岸に達すれば對岸に一山高く横はり、その背後に連山の打重るを見る、構圖稍西白し、直ちに三脚を据ゆ、見物人の語るを聞けば、彼の中景の一山は歴史に名高き天王なりとや、予は誠に嬉しかりき、かゝる名山も予が有となると思ヘば。茲に約二時間を費し、直前なる御幸橋を渡りて、來たりし方を顧みし處思掛けなくも面白き位置を得たれば、箱を開きて、一枚を描く。是より尚進みしも、得る處なく即ち引返ヘして、再び御幸橋を渡る。此半途に於て又一枚を得、それより、一先づ八幡宮に詣でんと、山を登りしに坂路急にして、その苦しみ甚し漸く境内に達し禮拜して直ちに紅葉を寫し、進みて、鐵橋の畫を一枚描く。
 漸く短かき秋の夕日は西山に春づき、輝きし稻田は、今は早や暮靄に包まれんとしてかすかに揺らぎ、殘光高く天王山の頂を赤く染めなして居た。

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