風景畫法[二] 光の振動

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎譯
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日

 十九世紀に於ける繪畫史上の一大發明として後世に遺すに足るものは光の振動を學理的に畫の上に現はす方法である。此事に就ては古大家も全く看過したる處で我々の時代に遇々此發明を見たることは大に誇りとすべきであらう。實に十五世紀の大復興期以來に於ける美術上の重要なる一進歩に相違ない。先づ此發明は近代的思想で云ふ處の風景畫なるものゝ生命であると云つても差支ヘあるまい。
 古來風景畫の中に大家も出た就中。ロイスデール。コイプ。ホベマ。サルヴアトル、ロサ。クロード。レンブラントの如きは最有名なるものであるが。是等大家が自然の風景を見るに當つて何れも光の振動と云ふことに氣が付かなかつたのは餘程不思議であると云はざるを得ない。其筆に成つた風景畫は何うであるとか云ヘば山も原も木も上の空とは何等の連絡がないのである。光りの部分よりも陰の部分の方が暖かい即ち陰は紫色では無くて褐色で畫いてある。又た光の振動と云ふことを無視した爲め其畫に對すると毎もカンバスの面が眼に着いて畫の感じが第二になるのである。
 新派の曙光は先づ英國に現はれた。コンステーブル及其門下が畫架を戸外に持出して寫生で研究した結果始めて自然の紫色の如うな調子が見えて之を畫き出したのである。
 是等の作の中で佛蘭西ヘ渡つたのがあつて。是を見たる佛蘭西の青年畫家中には最早タヴイドやドラクロアなどの舊法には倦き氣味で有つた處から。競ふて新派の下に集り盛に戸外の研究を爲したる結果は彼の偉大なるバルビゾン派の勃興と成つた。
 此後暫くして。佛蘭西印象派即ち外光派と云ふものが現はれて世界の美術壇を驚したのである。其法では空は虹のやうに種々な色で畫いてあるから見る人は之は空であると云ふことを考へてから見ないと分から無い。其他山でも川でも岩ても木でも。凡て光の部分は皆虹のように日光の分解した原色で縦横錯雜して畫いてある。之は畫家の研究の積んだ眼には斯う見えるので。黄青赤の生の色を線や點で着けてあるのだが遠方から見ると互に融和して光の趣が好く現はれるのである。
 外光★の第一回の展覽會が巴里の工藝舘の背後の小さい圓形の建物で開かれたのを私は覺ヘて居る。其時の騒ぎと云つたら大したもので批評家や舊派畫家の批難攻撃は非常なもので有つたが。外光派の畫家は之に對して毫も屈せず我所信を貫徹したる今日の有樣は如何であるか。誰も之に對して一點の不審を打つ者も無いようになつた。
 光の分解的原理を色彩上に應用することは學理から云つても正當であり藝術から見ても賞揚すべきことであり尚又た畫上に光の工合を現はそうと云ふには只法則通りのことを遣つて居たのでは迚も目的を達し得られぬことは畫家も皆等しく認むる處であるが。併し今外光派で遣るような生硬且幼稚なる方法が果して最後の手段であるや否やに至つては未だ充分研究の餘地がある。
 畫には光りの振動がなければならぬと云ふのは尤ともである。之が無いならば光の趣が現はれない。併し畫面上の感興即ち畫き振りと云ふものは畫を樂しむ上に於て離る可からざるものであるが之を毫も害ふことなくして光の振動の趣を現はすことは出來ないで有ろうか。
 之には手段は澤山あろう。一體繪畫の妙と云ふは畫家が自家特有の技能を發揮し他人には眞似られぬ處に有るのだが。一般から見て。油畫で云ヘば元より其描法には種々あるが先づ之を大別して四種の方法とすることが出來る。第一は即ち古大家の用ゐた遣り方で。初め黑と白とに少し赤を加ヘたもので全體に下塗りをやる。他の色は少しも用ゐずに此の三色のみで大體の形を畫く。之が全く乾いた時分に其上から薄く彩色して出來上るのであるが。此方法は至て安全でもあり結果も好いけれども只之では光の振動が現はれぬので近代の畫家は顧みない。
 他の三の方法中。一つは前のものと同樣で甚だ價値が無い。其遣り方は繪具を好く混ぜて置いてそれを滑かにカンバスヘ塗りつける。丁度ぺンキ屋が戸を塗る呼吸で至て詰らない。
 それで後に二の方法が殘つたが之は何れも良い方法であるから研究家は何方を選んでも宜しい。其一は點と線とで畫く印象派の遣り方である。之は光の工合は誠に好く現はれるけれども物の形。自然の外觀等に無理の點もあるので未だ完全の方法とは云ヘない。將來一層進歩したる方法が發見せらるゝまで臨時の遣り方であると見ても宜かろう。
 最後の方法は風景畫の大家は大抵此方法に依るのであるが。暖かい下塗の色ヘ寒い色を上から濁らぬように掛けるのである。此際下塗の色と上ヘ掛ける色とが混ざつたり又はボケ込んだりせぬように注意し尚又一面に塗潰ぶさずに途切れ途切れに下塗の色を見せるのである。斯うやると暖い色と寒い色とが互に働いて光の工合が自から現はれて來る。之は暖い色と寒い色とが両方ある爲めで。片方のみでは此感じが出ない。又た色を餘り混ぜ過ぎると鼠色が勝つて仕舞ふから面白い結果は得られない。
 此方法は理屈から云つても正當である。自然の下塗の色とも云ふは草木岩地面抔で是等は上の空から反射する光よりも色が暖く且つ強い。且又た此方法では畫家が自分の思ふが儘に筆を振ふことが出來て。位置や調子は下塗の中に充分に修正し彌々出來上つてから上に光の工合を現はす爲めに上塗りを掛けるのである。詰り畫は下塗の中に出來上がり其調子と少しも違はぬように上塗を掛けるのであるが此調子が統一せぬと空氣が出ない。之は自然でも。色彩は樣々に變化するが調子は一定したものである。
 下塗の色に就ては一定の法則は設けられ無い。畫は一枚々々皆色が違ふのである。其塲合に應じて變はり又た畫家の考に依つても變はる。只毎も動かぬのは下塗の色は上塗の色よりも暖いと云ふことゝ。下塗には褐色を含ませないと云ふことである。褐色と云ふ。ものは奇態に自然が好かぬ色と見えてぺンキ屋が褐色で家を塗つても空から灰色の反射が來て之を目立たぬようにして仕舞ふ。
 以上は分解的光線の理に依つて畫く方法の概略であるが。之には長所もあれば短所もあるから之をよく辨へて適所に適法を用ゆるようにしたい。長所は即ち生命のない繪具に生命を與ヘて燿如たる光の印象を面白く捕へるのであるから。光が強ければ倍々面白い結果が得られるけれども。光が弱くなるに伴れて其効少なく。月光の如き靜かな光になれば殆んど用に適しないことゝなる。此方法で月の光を畫けば其幽雅なる感じは悉く破壊されてしまう。
 尚其上に此方法では技巧上他に仕方がないから點や線で畫くのであるが。之は自然の微妙なる色や光の有樣に幾分似たものは出來るが。其樣な點や線は自然には見えない。云はゞ之は假用手段であるが假用である爲めに現在の儘では多少態とらしい處が有る。態とらしい處と云ふのが即ち此方法の缺點であろう之に就てミレーが『技巧は描くべき物體の背後に温順しく隠くれて居る可きものである』と云つて居るのは眞を穿つて居る。
 最後に申添ヘたいことは。光の振動と畫面の空氣とは何等の關係が無いと云ふことである。之には大分反對説もあるようだが自分は斯う斷言する。ホイッスラーの作に就て見るも空氣はよく現はれて居るが光は描いて無い。モ子ーは光は能く現はして居るが動やともすれば堅くなつて空氣が欠乏するのである。空氣を畫くには色の融合を應用するより外には途が無いのであるが。之に就ては次章に委しく述べよう
 (バーヂハリソン稿)

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