靜物寫生の話[十三]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日

△墨繪、即ち一色畫の靜物寫生にはドンナ材料がよいかといふに、鉛筆畫と同樣、最初は白色のものがよい併し石膏像などは複雜で六づかしからう、白いボール箱ゴム鞠など取合せて畫いたらよい。
△白色の陶器、或は一色の藥鑵のやうなものもよいが、是等は其面が滑らかであるため微妙な光澤や反射が多く見えるから少し稽古が積まぬと畫きにくい。
△紙袋、白布、足袋とか帽子とかいふものもよい材料で、果物、野菜、勝手道具なども畫くに都合がよい。
△陰陽濃淡の研究が出來るやうになつたら漸次物質の感じを現はす方に材料の選擇を變ヘてゆく。
△物質の感じといふのは、硬軟、乾濕、粗密、強弱、輕重、厚薄等の状態を現はすことをいふので、繪に於ては此研究は最も必要のものである。
△相對する一つの材料は大概その何れかを含むでゐる、豆腐と煉瓦を寫すとすると、前者は軟かで潤ひがあるそして脆弱である、後者は硬く乾燥してゐて強く重い。それ等をたゞ一色の繪具で畫き分けて、誰れが見ても其物に見えるやうにするのである。
△空氣枕と普通の枕と形は似てゐるが内容は異ふ。空虚と充實、これを描き分けるのも面白い。
△故雅邦先生は、二つの德利を出して一つには水を滿て一つは空虚にして、それを並べて生徒に寫生させる、そして其區別ある心持を寫し出せと言はれたさうな。初學の人には出來ない藝ではあるが、有効な研究法だと思ふ。
△レースや吉野紙薄用紙などもよい材料で、吉野紙で物を包むで其透けて中のものが見える状態を寫すのもよい。半紙を幾枚も無雜作に置いて、其薄い一枚々々の重なり工合を畫き、半紙の薄いものといふ感じがよく出る樣に稽古するのもよい。
△細小なるものゝ多く集まつた有樣は寫し出すに困難なものである。風景寫生でも家根の瓦の畫き方に困る、河原の石に困る、静物畫では豆や米の寫生は至極むづかしい。
△櫻桃や金柑のやうなものはとに角寫せるが、それ以下の小さなるのは面倒である。細かく筆數を多くすると却て感じが出ない、粗く畫いたのでは物質が現はれない。
△試みに、一袋の大麥、或は大豆小豆のやうなものをモデルとして寫生して見たまヘ、思ひ半に過ぎるであらう。もつと細小な粉類になれば却て仕末がよい、丁度小石の河原を寫すには困難でも、海岸の砂原は幾分かラクであるのと同じ理屈だ。
△このやうな物の感じを現はすに、たゞ實物にばかり拘泥してゐてね出來るものではない、其感じを現はすに最も有効なある物を添景として初めて目的が達せられる。
△たとヘば大豆を畫く時、袋の代りに升を置けば、升で量るものは穀類といふやうな聯想の上から、其物の感じの不足を補ふて大テイの想像がつくやうになる。
△前に擧げた豆腐と煉瓦の塲合でもさうである、前者には味噌漉とか爼板庖丁とか、後者には金槌でも置いて、其煉瓦の破片でもアシラツたなら、やゝ其感じを強める事が出來やう。
△椅子机のやうな長い脚のついたものは、中々輸廓が面倒で且機械的で寫すに面白くないものである。併し風景畫の基礎として建築物を寫すのが有効であるが如く、靜物畫にも、時にこのやうな規則正しいものを材料として寫生するのは、むしろ必要である。
△このやうな材料は、其形に於て規則的であるごとく、陰陽の關係も割合に劃然してゐるから、從つてゴマカシが出來ない、其點が初學の人に有効である。
△光澤の烈しいもの、即ち磨かれたる金屬製の器具、玻璃器、陶器のやうなものも、追々研究を試みるがよいビール罎にコツプ、このやうなものはよい材料である。
△光澤の烈しきものも、所謂高照は一の材料のうちに幾箇所もあるものではない。尤も其室に入る光線の工合で幾箇所も同じ程度の強い光りが見えない事もないが、それは工風して強い光は一ヶ所に當るやうにした方がよい。又強い光は繪の主要の點に近くあるもの一ヶ所にして、他はそれより幾分か弱くなるべきである。一つの罎でも、上を見たり下を見たりすると、頭の方も底の方も同じ度に強く光つて見えやうが眞中に注意して見ると肩の邊の光りが一番強く、他はそれよりも弱いことが知れやう。
△三ツ四ツ罎が並んでゐる際でも前の方の窓に近い處にある分が一番よく光るので、他は一寸見て同じやうに光つてゐてもそれより弱い筈である。この見分がつかないと繪に統一が無くなる。
△花瓶や甕などに横に橢圓形の光りが見える、其光りの中に幾本かの筋が現はれることがある、それは其室の窓の數、又は窓の障子の枠や骨が映るのであるから、たゞ暗い筋がある位ゐに思つて無意味に畫いてはいけない。
△必竟するに、物の感じを現はすに必要な事は、正確なる見方と描き方にある。いくら物を見る目が正しくても、それを現はす技術が進むでゐないと感じが出ない、また技術の達者な人でも、粗雜な見方をしたのではやはり不結果に陥いる。
△正確な見方といふのは、物の精神迄も見取るといふことで皮想ばかりではいけない。硬いといひ軟かいといふのも程度がある、その何故に硬いかを見、自分がそのものゝ心持になつてこそ始めて其感じも出でやう。正確な描き方といふのは、部分々々の一點一劃間違なしといふ意味ではなく、それよりも大タイの上に不必要なものはさまで力を用ひず、感じを出す上に必要のものを巧みに捕ヘるので、結局は其寫すべきものに對し同情があればよいのである。一層進むでは同化すればよいのである。

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