水彩畫の不振

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日

 水彩畫の不振と云ふことは遺憾ながら事實で有ります。之には原因も種々あらうが要するに畫家が水彩畫を重視せぬと云ふことに歸着するようです。
 尤も日本ばかりで無く外國でも水彩畫は先づ振はないようです。水彩畫の本場とも云ふべき英國ですら此頃の流行はホイツスラーで此人の作となると印刷物でも競ふて人が珍重する。併し日本に名の聞えて居るパーソン杯は水彩畫だから大して難有がられないと近着の英國人から聞いた。英國でも今は油畫全盛期のようです。況んや他の諸國では無論水彩畫の振ふ筈が無い。
 西洋では家屋の構造や。人の氣風や。第一畫家の手の働きなどから考ヘて見ても水彩畫よりも油畫の方が一般に向きそうですが。ソンナ事は向ふのことだからドーでも宜い。先づ日本だけで見ると。水彩畫はもう少し發達しそうに思はれるのですが此頃は前よりも反つて下火になつて來たような有樣。又た實際今の水彩畫の畫風は大分油畫臭くなつて畫家の方でも油畫と云ふ日標を置いて水彩畫をかく。丁度此頃の若手の日本畫家が西洋畫と云ふものを目安に置いて日本畫をかいて居るような工合です。ソレだから斯う云ふ日本畫を見ますと不完全な西洋畫であると同時に又た不完全なる日本畫であると云ふ感想が浮びませう。
 油畫のようにかきたければ其爲めに油畫と云ふものがあるンだから御遠慮なくソレで畫いたらば宜かうと思ふ。水彩畫の材料を用ひて居ながら油畫のようにやろうと苦心するのは馬鹿げきつたことです。お役所へ呼出された人が下駄で行つたので入口で足袋跣足となり泥の上を爪立つてマゴ付いて居るのと同じ格です。
 水彩畫を畫こうと云ふ以上は水彩畫の特徴を好く認めなければいけない。油畫では到底出來ぬ長所が水彩畫には有る。又た此長所が有るから之を倍々發揮せしめて面白い物を作ろうと云ふ順序になるのです之を考ヘずに水彩畫でも油畫のように畫けないことは無い筈だ杯と見當違ひにカンで見せた處が悧巧とも思はれない。
 廣く繪畫と云ふ方から論ずれば水彩畫とか油畫とか云ふ風に句切りを付ける必要はない。從つて水彩畫專門などゝ小さく立て籠るにも當らぬことゝなりませう。又た油畫は日本家屋には適せぬとか水彩畫の方が日本人に向くとか云ふようなことも美術と云ふ大きい考から見れば些々たる消極的の論に過ぎぬことでせう。否な水彩畫家でも油畫はかく油畫專門でも水彩畫をかく。只だ水彩畫をかく時には水彩畫なるものを認めることが第一であります。此認方が段々薄弱に成ると遂に水彩畫の不振を來たす。之は水彩畫としての特徴が現はれない譯であるから勢ひ仕方が無い。
 夫故今日水彩畫の不振と云ふものは畫家が自から招いた處です。併し又た一方には水彩畫ばかりを彼是と云ふ必要もなかろうと云ふ論も有る。一般に云ヘば其通りである水彩畫と云ふも油畫と云ふも只だ之れ材料の相違に過ぎぬ。出來上つた畫は同じに見て差支へ無いことは分かつて居る。乃ち同じであるから水彩畫は水彩畫として獨立するのです。油畫を狙ふ必要は無いことゝなります。
 此考で行けば水彩畫は決して不振に陥ることは無いでせう。不振を來さぬのみならず追々と發達することだろうと思はれる。只だ水彩畫の本性を拾てゝ油畫のように重く見せようとか強くかこうとか云ふような一般の傾向は。刺身にソースを掛けて食いたいと云ふのと同じことです。水彩畫の本來の手段を用ひても油畫を蹴飛ばす程重くも強くもかける。又た水彩畫は毎も蕭洒輕妙なるが能ではない。併し油畫に渡りを付ける必要は決してないことゝ信じます。若し一々油畫を顧慮して居るようでは終に水彩畫の水彩畫らしき存在が覺束かなくなる。
 私は從來多く水彩畫をかきます。之は油畫具のような噛切れのしないものは自分の氣性に向かぬようでもあるが夫れ斗りでなく。私は從軍だとか出張だとか時間に餘裕のない旅行に多く出るので。身拵しらへの簡單なる水彩畫の方が便利である處から勢ひ油畫に疎く水彩畫に親しくなります。去るものは疎しで今では油畫とは音信不通の有樣ではあるがト云つて水彩畫を專門とする程でも無いが。永くやつて居ると段々水彩畫の面白味が分つて來て益々スキになるソコで人にも勸めるのですが之は水彩畫家は誰も皆こう云ふ考ヘだろうと思はれます。油畫を捨てた譯でもなく。將又た根據を油畫に置くのでない。全く別々であります。
 水彩畫は輕妙なるを尊ぶとも思はない。又た油畫のように重く確りと畫くが宜いとも云ヘない。是等は要するに枝葉の談で凡て畫家ののスキズキで有りませう。ウマい繪はドー畫いて有つてもウマいに違ひ無い。ダガ日本人は畫家でも素人でも一般に神經質であるから。洒落な水彩畫は薄ペラで駄目だと誰か云ひ出すと氣に懸つて溜らない素人も其氣になる。ソレで十年前の水彩畫の有樣と今日のものとを見較らべると餘程面白いのであります。之も畫家に確信が無いことにも依りますが。要するに水彩畫の本領と特性とを閑却すうと云ふに歸着するでせう。
 ソレで今後我々水彩畫はドーしたならば宜いか。此衰境を回復する方法は何で有ろうかと云ふに別に六つかしい事は無いと思ひます即ち水彩畫としての特徴を認めて之を尊重することゝ自分の思ふ通りを押通ほすことです。兎に角私は斯う考ヘるので先づ之でやつて見ようと思ひますが。間違つて居た處でコワい事は無い。命を取るとは云ふまいから呵々。

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