三脚物語[第七回の上]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日

 一
 『山岳』といふ雜誌の五年第二號『四方山話』に『畫家の使用する三脚といふものは畫家に限らず、床に代りとして登山旅行に携ヘるのに、最も輕便で必要なものである、それも體裁などは搆はないでいゝ、輕くて丈夫でさへあればいゝ、私は友人O氏の好意から贈られた三脚を持つてゐる、樫で製したもので、長さはものさし位、革で三本の繋ぎが留めてある、重味は金剛杖一本にも匹敵しない、去年の夏、富士登山に、初めて使用して經驗した、恰度、寳永火孔底に下りた時だ、火口底の全部は、角張つた焚石の缺片に埋められて、踏むのも痛い位であるから、尻などは到底掛けてゐられない、そのとき三脚に腰を据えて、悠ッくり火口壁の、模樣を觀察したり、記帳することが出來た、大山岳の連嶺になると、風化した古生層の岩石などが、ゴロゴロ轉がつて、立ちながち手帳を取出すやうな目に遇はされるのであるから、三脚はヤハリ必要品である、只景色を見てゐるばかりでも、土や石の上ヘ、直に据はつて眺めるより、いくら心持かいゝか解らない、それに記帳でもするときは、立ちながらゐるよりも、身體が動揺せずにぴつたりと落ちついて、膝の上にでも置けるので、具合がいゝ、山の輪廓などを、成るべく正しくスケッチしやうと思ふときには、勿論のことだと思ふ』と書いてある、此文字は、誰あらう山岳旅行で有名な烏水先生の筆になつたもンだ、僕等も、このやうな立派な方々の裏書を得たのは何と誇るべきぢやアないか。
 

小豆島坂手海岸大下藤次郎筆

 さて、今度から僕の昔話を初めるつもりでゐた處、急に諸君に報すべき出來事が起つた、それは小豆島行で、新聞にも出たし、また單行本にもなつて近々出版されるから、大よその處は解らうが、僕等でなけりや見ることも聽くことも出來ない珍聞は、世間に知れてゐない、これを大急ぎで吾が『みづゑ』愛讀の諸君に、極内々にお披露申上やうといふのだ。
 二
 十和田から田澤に廻るといふので、大曲の宿に泊つた時、東京から主人ヘ手紙が來た、小豆島ヘ往く事に極まつたから早く歸つて來いといふのだ、それが爲め僕も急に東京ヘ歸ることになつた。
 天長節の朝新橋ヘ運ばれて赤帽の手に渡された、見れば滿谷、高村、吉田、鹿子木、小杉、石井、中川の諸先生、毎日電報の牧野氏など旅装甲斐々々しく待合室に居られた、小杉先生と僕の主人は京都迄の委員で、切符だ荷物だと奔走してゐられた。網棚の上では諸先生の三脚君にもお目にかゝつた。棚から見下してゐるのも至極妙だ。
 腰掛の下から革鞄を引摺出して、其上でトランプが始まる。新聞を見るもの、雜誌をよむもの、スケッチするもの、彌次るもの、中々盛むだ。A先生は米原をコメハラと讀むで皆ンなから笑はれる、急行券を返りの切符かと思つたのも此先生で、汽車敎育といふ言葉が出來る。B先生は態々席を移して、車中の美人の顔を飽かず眺めてごさる。但、これは惡い意味にとつてはいけない、此先生は人物畫もおやりになるのだから屹度その研究なンだらう、さてさて御熱心なものだ。
 三
 京都に着いたのは夜だつた。可なり長い間俥に乗つて、やがて下されたのは三條の萬屋とかいふ家だ、例によつて二階の床の間に安置される、席には京都の都鳥、寺松、伊藤諸先生、それから當時御滞在中の河合先生も居られる、ガヤガヤベチヤベチヤ、何が何だかサッパリ解らない、大勢の聲は一團となると蜂の唸るやうなもンだ、自然の催眠歌だ、よい心持だ、先生達は何時寝るのだか知れたもンぢやァない、お先ヘ御免をと思つてゐると、お仲間が二三本そばヘ來て新京極ヘでも一しよに往かうといふ、僕は十何年か前にこの邊を歩行いた事がある、京都の町は舊態依然たるもンだ、よし御案内申さうと出掛けたが、間もなく連れの三脚君は何處へか雲かくれをしちやつた、コッチは迷兒になる氣遣はないが、先が氣がかりだ、群集を押分けてヤタラに急いだ、京極を抜けて四條の通りヘ出る、此夏僕の來た時は、醫者か辯護士だけだときいたゴム輪の俥は、可なり多く目につく、どれもこれもニッケル細骨のピカピカ光つた奴ばかりだ、まだ開けないなァと思ひながらいつか四條の橋ヘ來た、橋の袂には廣告燈がヤタラに建つてゐる、その一番大きい奴がダシヌケにピカッと光つたので驚いて目を開いたら、何の事だ、矢張もとの床の間に居て、座敷ではいま寫眞を撮つたらしく、白い煙りが濛々と天井を這つてゐた。
 四
 よく正夢といふことがあるさうだが、寫眞が濟むとそこらを散歩しやうと誰れかゞ言ひ出す、もう十一時過だといふ人がある、新京極迄往つて見やうといふ先生がある、とうとう不殘出掛けることになつた。宿のドテラに白金巾の帯、鳥打を冠つての勢揃ひだ、其ドテラたるや、太い萌黄の糸でヤタラに綴ぢてある代物だ、夜ではあるがよくあれで歩けたものと感心する。一時間ばかりして歸つて來たのは、主人の外に二人だけだ。撒いたのだか撒かせたのだか、とに角僕の夢によく似てゐる。更に二時間ばかり後に迷兒の連中も歸つて來た。ヤッチヨロマカセのヨヤマカセとかいふ踊りが素敵に面自かつたと、C先生は頻りに手眞似をしてござる。あいつは菩薩面だとD先生が仰しやる。いつの間にか鼾の聲がする。D先生のあたりで何やら寝言をいふ。C先生は何と思つたかスックと起つて、寝床を一廻りしてまたもぐり込むで了つた。
 

小豆島大部海岸大下藤次郎筆

 五
 ガラガラと雨戸が明くと、東山がぼうつと霞むで、朝日がガラス障子の間からさしこむ。一同睡むさうな眼をこすりこすり頭をもちやげる。ゆうべ夜中に起きたのは誰だといふ、C君だ、何でも踊つてゐたといふ、證人があちらからもこちらからも出る、とうとう踊つたことにして了つた。
 朝飯が濟むと、僕等は置てけ堀の、一同關西美術會の展覽會ヘ出かける、十時には歸つて來て、夏に七條の停草塲ヘ繰込む。鹿子木先生が殘つて河合先生が加はつた。石井先生は一足お先に大阪ヘ往かれた。今度の汽車は急行ではないからノロいけれど、車中は買切同樣、またもトランプで賑やかだ。
 一時過に神戸に着いて、中央旅館といふ家に預けられた。先生達はこれから須磨の住友の別荘ヘゆくのだといふ、お供はスケッチブックの君だけだ、僕等は神妙にお歸りを待ってゐた。
 暗闇を俥で運ばれて、大きな船に乗せられ、美しい部屋に置かれたのは六時過だつたらう。ドアの間から見ると、細長い大提灯に大井川丸と筆太に書いてある、鄰りのサローンには先生方の聲がする、風も無い穏やかな航海だ。
 不圖見るとベツトの上にスケッチブック氏が居る、馴染は薄いが同じ主人に仕へてゐる身だ、今日はどうだつたときく、氏の話によると、中央旅館を出た一行は、まづ神戸の精肉をといふので、キヨロキヨロ見廻したがそれらしい家が無い、終に辻待の車夫にきいて、お上サンはゾロゾロと三ッ輪とかいふ大きな牛屋ヘ上る、一同腹は空いてゐる、人は多くて鍋は小さい、火がトロい、よく煮へる迄待遠しい、肉の奪合が始まる、松葺を箸で押ヘて、コレは俺れのだと生の内から所有權を主張する、中々大騒ぎであつたさうな、それから電車道へ出たが、停電でいくら待っても來ない、果物屋の妻君にきくと、兵庫の電車迄四丁ですといふ、四丁位ゐならと歩み出したが、四丁處か十五六丁もあつて大汗になつた、須磨寺といふ處で電車を下りて住友家へゆく、臘引の床板に危ふくもスリッパを辷らす先生もあつた、名家の繪を見て、御茶やお菓子の御馳走になり、海を見晴らしの庭で寫眞を撮つて夕刻歸つたのだといふ。
 六
 サローンでは話がはづむでゐる。E先生は船に弱い人で、前から心配してゐたが、平穩無事の航海に、いよいよ醉はぬものと自信が出來たから、當るべからざる氣焔で、僕は瀬戸内海なら船長になるなンて言ふて力むでゐられる。商船會社からは岡本氏とやらが接待のため同乗されてゐる。他の船客を斷はつて、一等室全部先生達の爲めに明けてくれたのだ。事務長やスチュアードの聲もする。石井先生の聲もする。大阪から乗られたンだらう。酒が始まつたらしい、御馳走も並んだやうだ、ナイフやフオークの音もするから洋食も出たのだな。此船は一時間何哩走ります、ノットとマイルはどう違ふのですなど、そろそろ汽船教育が始まつた。何れも御機嫌の樣子で、誰れも自分達の部屋に入るものはない。
 畫貼が出たらしい、唐紙や、色紙や、短冊も出たやうだ、柏亭、未醒兩畫伯は、さぞ健筆を揮うことだらう。滿谷先坐はキツト自畫像が出るね、吉田先生は富士さ、高村先生はタンポヽかな。
 天井の上でポー―と汽笛が鳴る、着いたなと窓かち見ると、闇の中を燈火が二三點見える。船の進行が止まると、ボーイが來て僕等を右舷につれてゆく、鐵の銷に凭れて港の方を見ると、ガヤガヤと人聲がして、紅提灯が二三十浪にゆれてこつちヘ向つて來る、先生達の歡迎船だ。洋服の人、袴羽織の人、法衣を着けた人も居た、一丁ばかりのハシケで坂手に上陸、鹿島屋といふ家に入る。ちらりと見た店の時計は十二時を過ぎてゐた。
 七
 鹿島屋では荷物は入口の物置めいた處へ積まれたが、僕だけは幸主人の手に持たれたゝめ二階ヘ一しよにゆくことが出來た、八疊に六疊二間押開きで、家も新しいし座敷も立派だ、アセチリンがキラキラ輝いてゐる。一同が上座に並ぶ、接待掛や有志の面々が下座につく、一々拶挨が始まる、何やら言ふては頭を下ること數十回、中にはだんだん尻込して、隅の方、人の背中にかくれて、挨拶の儉約をしてゐる先生も見えた。それから島の話しがある、酒が出る、睡むさうな目をする、四五人は別れて前の宿ヘゆく、床が敷かれる、例によつて例の如しで、寝靜まつたのは二時過であつたらう。
 

小豆島鹽濱の家大下藤次郎筆

 朝になつた。一番先に起きたのは主人だらう。やがて窓が開いた、海は目の先で、島が見えたり舟が見えたり、緑側の方には突兀たる岩山で、その下は段々畑の、景色はどちちを見ても面白い。主人は朝湯と洒落れ、ホテつた顔を風に吹かせながら、直ぐ下の地引綱のさまをスケッチブックに寫してゐる。
 そのうち一同起きる、分宿の人達も來る、今日は是から神懸山見物をするのだといふ、繪は描かないといふので、吾々はお供が出來ない、何も重いといふ程のものぢやなし、連れていつてくれゝばよいにと思つたが何て間が惡いんでしよといふて見ても詮方がない。樣子はスケッチブック氏からあとで聞くことにして待つてゐた。
 諸先生達が出發してから、程なく僕等はE先生の素敵に大きなトランク君や、手鞄君、毛布君などゝ共に、荷車のお客になつて、草壁下村の東橋庵といふ宿屋へ運ばれた。荷車の上とは申せ、道がよいので氣樂なものだ。天氣も馬鹿にいゝ。濱通りを離れて數町、右に切通のやうな所を抜けると、内海の景色だ。そこは古江とよばれて、下村行の舟の出る所で、二三十軒家がある。この邊から神懸山を見ると、岩石の形も面白く、朝の故か色も惡くはない、海は直徑一里ばかりの圓形に見えて、まるで湖水のやうだ。左の方に突出た岬には松が茂つてゐる、右の岬は龜浦とかよばれて、明るい茶色の岩が朝日に輝いてゐる、海の半程には小さな島がある、潮の干た時は一つになつて、滿潮だと大小三つになる、辨天鳥といふのだ。それ等の景色を左に見て、暫らくゆくと苗塲といふ處に出る、こゝは苗塲と書いてノーマと讀ませるさうだ、立派な家が澤山ある、名物の醤油もこゝで出來るといふ、觀月亭とかいふよい宿屋もある、田を見たり畑を見たり、鹽田を見たりしてゐるうちにいつの間にか下村へ着いて、宿の二階の六疊に押上られた。此邊の人達は僕等を見た事か無いかして、頻りに弄りものにして不思議がつてゐた。
 四時頃にドヤドヤと皆ンな歸つて來た。着物を代ヘるもの、湯に入るもの、一しきりは中々の騒ぎだ。この間にスケッチブック氏に逢つて今日の樣子をきく。
 八
 ブック氏の話では、古江から一行は二艘の船に分乗して中海を渡つた、下村に上陸後は、暑いといふので外套を預ける人もある、靴では困難だときいて俄に草履や草鞋を徴發する人もある。細い流れに沿ふて數町ゆくと上村で、それから山路にかゝつたが、道は惡くはない。C先生は一行中の輕口無駄りや野次の親芳で、銘々をいろいろのものに見立てゝ喜んでゐる、何でもE先生の長髪に茶色の外套から考へて、支那の留學生の張サンだといふ。A先生を西洋の按摩、即ちマッサージにして仕舞ふ。F先生は昔しから村長サンといふ名があるから、これは其儘で、主人は黒い帽子に長い外套、其後ろ姿から鑑定して宣敎師の稱號を頂戴したやうだ。J先生は布哇歸りだと極まるし、H君は通辯さんに見立られたさうな。
 掛茶屋のある處から、段々急になり道も細くなる、岩山は直く前に近くなる。紅雲亭といふのに一同休む、こゝで神懸餅に始めて逢つて、舌鼓を打つた下戸先生達も居た。
 種々なムヅカシイ名のついた岩が右にも左にもある、成程見れば不思儀で珍らしいが、主人は感興が起らぬかして、一向ブック君を開かなかつたさうだ、但し、老杉洞といふ奴は取わけ立派であつたゝめ、諸先生方はコレはよいと大に氣に入つたらしく、こゝでは言ひ合したやうに寫生帖を出したが、主人は不相變他人の描くのを見てゐる。
 この邊から上は道は可なり急で、靴の御方は御難澁の樣子だつた。苗場の觀月亭から運んで來た御料理の荷物や、紅い褌の美しい姉さん達と、後になり先になりして、四望頂といふ平地に着いたのは一時頃だったらう。
 四望頂は、字の如く眺望のよい處で、南は内海から四國の山々も見えるし、外は播州路を遠見にして、近くは大部の辨天島など手に取るやうで愉快な塲處だ。こゝに大きな四阿があつて、紅白の幔幕を引廻し、お辨當やお茶の御馳走がある、皆ンな愉快さうな、そして寒さうな顔をしてゐる。名物の蕎麥も出て、三四杯お代りをした先生もあつた。F先生は、昨日神戸で牛肉の競食が崇つて、今日は大に元氣が無い、食事も進まぬらしく、苦い顔をしてござらッした。
 一時間程して一同は四望頂を出發、東の石門をくくつて神懸燒を見物し、それからは大急ぎの漸く只含歸着したのだとブック氏は息をもつがず語られた。

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