セイヌ河畔

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

TO生
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日

 巴里のセーヌ河は、丁度東京の隅田川大阪の淀川のやうなもので市の中央を流るゝ大きな川である。川には一錢蒸汽が盛んに動いてゐる、また下等の風呂船などもある。橋では博覽會紀念に架せられた歴山三世橋が廣くつて立派である。上流は紳士の別荘などがあつて景色のよい處が多い。
 川上に向つて右は巴里の繁華な大通りで有名なオベラも遠くはない、凱旋門も直ぐ近くである。歴山三世橋の袂には、大サロンの會場なるグランパレーがある。市で買上た美術品の陳列場たるピツチパレーもある。少し下るとルーブル博物館が岸に臨むで嚴として、控ヘてゐる。それより猶下ると市廳がある、こゝの壁畫は大したものだ。ノートルダムは、下流の島のやうな處に高く中空を摩してゐる。左岸はナポレオンの墓所やヱッフエル塔などあつて、丁度ルーブルの對岸あたりに美術學校がある、世界の美術家はこゝに種を撒き發育するので、實も生らずに枯れてしまふのも少なからぬことだらう。口繪にある河岸店は、美術學校の在る近處、セイヌ河の岸堤防用の石垣の上に並んであるさまざまの店で、大きな箱の中に商品がある。黒い着物の女や白い髯の男が番をしてゐる。古錢もある、小道具もある、併し重に書物で、古いカタログなどよく日に晒されて表紙を反らしてゐる。呑氣な巴里人は勿論遊覽の外國人も皆足をとめる。中村不折君は、留學中は學校の往復には屹度立寄つて、堀出物がないかと目を皿にしたものだ。
 床店は夜になると箱の葢をして錠を下し、番人はテンデンの家へ歸つてしまふ。
 床店の並むでゐる石垣の後ろは海岸になつてゐて、一間程の道がある、人があまり通らぬから川や橋の寫生にはよい處である。先年三宅克己君がこゝで寫生してゐたら、石垣の上から紙屑など投つて困るので日除傘をさした、するとイタヅラ小僧が、上から傘の石突を掴むで宙に吊したといふ話もある。

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