報告
『みづゑ』第七十一
明治44年1月3日
潮畫會(會員某氏報告)
拝啓小生等當年晩春比より大に同趣味者を募集し、稍く十數名を得て潮畫會と銘し、各自努力して斯道の研究につとめ居候。何分素人のこととて、繪畫上の約束もなく頗る勝手なものを描きて傍業を致し居候、否たのしみ居候。
會員中太平洋の研究生、關西美術院の生徒等も有之候、前途益々發展さすべく計畫に有之候。
出來得べくんば明年好季を利用して講習會を開催し、深く研究なさんつもりに御座候。
小生等は只々洋畫の何たるや、當地の人々に知らしたく種々の手段を以てつとめ、一方には同好者をつのり會を強固になすべくつくし居候。
潮畫會は今夏展覽會開催致候。明年も開催いたしたく只今より熱心に寫生に出で居候。(四十三年二月)
潮畫會關係員
太平洋生徒柳田謙吉、關西美術院生徒池田治三郎、仝岡島一雄仝前川千帆、仝吉田眞里、仝田中善之助、仝國枝金藏、加古川町、主會員永江定太郎、明石町、古田皞、仝白井鶴松、仝南部金彦、仝石谷長三郎、仝伊川武次郎、仝横山新藏、仝浦田常七、仝稻見信之助、仝濱野清一郎、仝枝吉延太郎、
紫紅畫會と仝展覽會紹介(仝會)
△時は今より五年前當時中學在學中繪畫同好者四五名が集まつて一の會を創めたのが抑も『紫紅畫會』の起源である。
△その目的、抱負とする所は、要するに高尚なる趣味の人、健全なる精紳の人と爲り度い、又一般の人も可成茲に導き度いと謂ふのである。
△その精神で五星霜を打過ごして來た。時代と畫界の進歩につれ、益畫會が盛大に成て行く、そして、現下の會員には中學生會社員、高等の專門學校學生、官吏、雜誌記者、それに四五名の洋畫專攻家が居る、其數三十余名となつた。
△仙臺第一中學校教諭武田文太夫氏を會長とせる同地紫陽畫會と本會とは曩に姉妹會となつて互に協力して目的に進んで居る。
△本會の機關としては回覽雜誌『紫紅』(會員の肉筆水彩、油繪及參考とする一二冊の美術雜誌、會員の文藝等より成る)を毎月編輯して巡回する方法を採つて居る。此の外毎月寫生會を催し、或は一夕の茶話會をやる事になつてゐる。猶毎年一回成績品展覽會を催して公衆の縦覽に供して居る。
△第七回展覽會は、四十四年一月六、七、八、九の四日間、本郷弓町壹岐坂下の上宮學院に於て公衆の縦覽に供する筈です。是非御覽を乞ふ。
△もし本會に賛成の諸君は左の所へ二錢郵券封入會則送附方申込まれたし
東京市麹町區富士見町五ノ一六
川村信雄方紫紅畫會假事務所
宇都宮光風畫會設立並に展覽會報告
畫會を設立しようと同好の士數名と話しあつたのも一再ではなかつた、處が期の熟したのか明治四十二年十月宇都宮光風畫會といふものが出來た。
本會は斯道の發達を期し兼て美術の普及趣味の向上を計るのが目的であつて、其目的を達せんが爲め毎年一回展覽會を開き隔月批評會及寫生會を行ひ又別に實技會が設けてあつて毎週三回夜間主として素描の研究をして居る。
今年四月十五、六、七日の花の盛りに臨時展覽會を開催した處當地にては始めての事ぞあるにもかゝはらず非常な盛會で一日の入場者七百を數ヘた位ゐであつた。
第二回展覽會は同年十月十五、六、七日の三日間當市旭日館で開いた、出品總數九十二點の内八點は日本畫にて彫刻七點油繪三十八點水彩三十九點で、十四日午後四時頃より會場の装飾並に陳列に執りかゝつたが何分夜の事とて不便は一通りではなかつた、陳列を終つたのは夜の一時頃である。
出品は油繪廿五號を最大とし、半切十二號四つ切八號九つ切等で敢て畫面の大きな所謂大作といふものはないが、何れも忠實な苦心の餘になつたものゝみで、一枚として輕薄なものはなかつた。
陳列の方法も前回よりは稍や整頓した樣である。
三日間の入場者二千餘名で、十六日の如きは立錐の餘地もない盛况であつた。
第三回は四十四年十月開催の豫定、會員目下貮拾七名で。事務所と實技會場は宇都宮尋常高等小學校内に設けてある。以上明治四十三年十二月(光風畫會幹事報)
三越の廣告圖案募集
三越呉服店にては、四十四年春季賣出し廣告のヱビラの圖案を募集する由にて、樣式は日本畫油繪水彩畫、何でもよく直に印刷に付し得るもの、大さな幅二尺五寸縱三尺五寸、なるべく美人畫にて人の注意を惹き易きもの、賞金は一等千圓、以下五等迄あり、期限は二月二十日迄、詳細は日本橋駿河町の同店へ問合されよ。