告別の辭
丸山晩霞
『みづゑ』第七十二
明治44年2月3日
聊感ずるとこるから再渡欧を思ひたち、一昨年の春から約ニヶ年を期して、これが準備に全力を盡す事とし、同時に『みづゑ』の筆を絶ち、研究所の方も他の人に一任して、故國なる信州の山奥に隠るゝ事になつた、然るに一昨年早春以來不幸にも病氣に侵され、これが治療に半年以上を費し、全く治癒したのは年未であつたから、この間に殆んど何も出來ないで終つた、昨年の早春から年未迄一ヶ年、二ヶ年計畫を一ヶ年で果したのだ、この一ヶ年は自分の生涯に於て尤も多く心身を勞した、殆んど畫家といふ資格を沒却して、尤も烈しい勞働者であつたのだ、如何なる勞働をしたかといふ事は今述べないで置く、唯知る人ぞ知るに委せて、こゝに一言して置くのは、今迄味はなかつた所謂世間學を學んだ事だ、世間學といふものは講を學ぶよりりも無圖かしく、又苦痛と煩悶等が伴ふ、この學問は畫家は大の禁物である、自分が若し畫家でなかつたならば、或はこれがために倒れたかもしれなかつた、畫家なる自分は終にうち克つことが出來た、それは自分の崇高してゐる大自然が補佐して、大なる慰安を與へてくれたからである。
昨一年間といふものは寸暇もなかつた、併しこの多忙の時間を裂いて、高山にも登り活火山の頂も攀ぢ、深谷叉に森林にも辿り、?湍激怒の峡谷も探り、日本アルプスの連峯を展望する水長の高原にありて、四季變遷の美を遺憾なく味はつた、併して自然の激怒ともいふべき洪水にも遭逢し、活火山の爆發をも望んだ。これ等は余に於ける靈藥で社會に如何に迫害を加へても、自然の存在は自分の存在である事を今更に悟つたのである。企圖した目的はこゝに達して、來る二月横濱出帆の汽船に搭じて渡欧の途に就く事になつた。斯道に忠なる研究所と『みづゑ』の愛讀諸君よ、★に満二ヶ年直接に間接に愚設の陳述を怠つたのはこれがためである。
自分はこれより希望に向つて猛進し、所感と消息は誌上に述ぶる事にいたします、終りに臨み諸君の健康を祈る。時は明治四十四年辛亥一月、四四は亥の猪に通じ叉4×4=16である、自分は十六歳の昔の青年に歸ヘりて彼の地に向ふのである、聊か記して告別の辭となす。