ターナーの水彩畫[五]

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第七十二 P.6-9
明治44年2月3日

 ターナーが成年に及んでから―一八〇七年以後としてある―氏の創作力は堪えず増進して居る。これが水彩畫に於てよりも油繪に於てより多く明亮である。この故は氏は水彩畫を以て挿畫を多く作製して居るからである。併し挿畫に於ても氏の創作的想像的の力を見られぬではない、例令ば★sacns and Hesperie,PeatBog,Procris and Cephals,The Losl Sailor他がそれである。然るを近世の傳記作家にターナーが効績の見るベきものはあるが、創作的の畫家でない、單に畫解的畫家であるといふて居る。この説が根蒂を深くして居る、最近の獨逸の近世美術の批評家がこの流を酌んで同説を繰返して居る。併しながらこの説は謬見の甚しきものである。The Frosty Morning,abd Crossing the Brook,Childe Harold's Pilgrimage and Ulusses Drriding Polyphemns,TheShipreck及其他の作畫家が創作的畫家でなからうか。これをしも創作的でないとするならば何れの處にか創作的風景畫家あらんやである。ボチセリ、ミカイル・アンヂエロ、ラファイル、ルーベンス、レンブラン等を誰も創作的風景畫家でないといふものはあるまい。ターナーも亦これ等と比肩すべき風景畫家であるのである。
 ターナーの水彩畫の技巧的熟錬はこゝに言ふべき要はあるまい。氏の畫中の意匠、平均、音律等の感じ即ち畫風なるものが常に表現されて居つた。この畫風なるものは、ガスパー・ボーシン、クロード其他十七世紀の名畫家の流を酌んだリチヤードウイルソンに付ての切實なる研究から得來つたのである。氏の繪畫には試作といふものがない。意匠は最初から完全なものであつた。氏の作品が?己の氣に入らぬもの、あるときはこれを棄てゝ顧みなかつた。氏は優秀の大色彩家であつた。氏の後半生に大いに色彩に思を凝らしたのであつた。氏は普通の寫眞に依つて繪畫を作ることが出來なかつたのもその故であつた。中年の頃の氏の色彩は力あり、光彩はあつたが、晩年のスケッチに比しては純粋に美麗に高尚でなかつたのである。
 ターナーの水彩畫殊に一八二〇年と一八三六年の間の製作品は意匠が徒に繁雑で畫題及光線等が複雑を極めて居る傾向のあるのは疑のない事實である。これは或程度までは此時代の英國美術の標準でもあり、また英國趣味ともいへるのである。此故に今日よりも猶この高調な作品製作を固守して居つたものがあつた、しかしターナーの作品には非常な高調なものはなかつたのである。ターナーの點景人物がまた多くは不満足のものであつた。これは氏が描き得なかつたのではない最初は精しく注意深い描き方をして居たことは氏が初期の作品に於て覗はれる。併しそれより後の作品に至ると他の美點を損せぬ限りに於て點景人物を單に光線や色彩もしくは組立の一點として受取つて居る。皆々成功しては居るが、或ものは無頓着に筆を下したものもあるので一ある。
 ターナーは印象派の創始者たり偉人たる一人であると現代風景畫派に屡推稱されて居る。或る點は無論さうであらう、しかし余を以て見ればこの印象派が現代のものと比較して性質に於て全然相違して居るのであったと思はれるのである。
 ターナーは生涯を通じて數千のスケッチを作つた、或は輕妙に或は精緻に自然界を描寫したもので、所謂「覺帖」であるが、これ等から推せば正しく印象派畫家ともいへるのである。然しながら皆これを土臺として更に氏の精確な、細微な遺漏なき自然界の研究と氏獨特の筆法とを附加ふべきものであるのである。然るに氏は癖として畫面の都合に依つて風景や建物の様を變更することが?ある――或は均齊が爲めに、或は抑揚の爲めに、或は色彩計畫の爲めにすることがある、――また畫面の意味を暗示せんが爲めにすることもあるのである。氏は風景の直寫主義には大反 で、これを「繪 作製」といふと嫌ふて居つたことは氏の書簡中に見えて居る、この書簡は今獨存して居るのである。で風景の様を變へて描爲するときには必ず何か理由がある、かゝる場合には風景全體の印象は必ず保存することに苦心して居る。この見地からナれば、ターナーは印象派畫家であつたのである。
 また氏の晩年に至つて純粋の日光の描爲を(重に油繪に於て)企てゝ居る、晩年のヴェニスの繪がそれある。また迅速な運動の描寫をも企てゝ居る、雨、速力、及蒸汽等がそれである。また自然界の偉大なる爭闘力の描爲をも企てゝ居る、氏のSnow Storm off Har wichがそれである。氏はかゝる畫題は自己の頭腦を以て描爲したのである。かのホイッスラーの如き西欧美術に一新軸を出した夜景畫もこれと同一方法で共に印象派とせられて居る。
 然しながら余を以て見れば、印象派の藝術と現今の批評家が絢爛の筆を振ふて世の稱賛を博せんことを喚起して居る近世風景畫派の藝術との間には實に雲泥の相違があると思はれる。佛國及英國の新進印象派畫家は自然を描爲するに當りて、形の漠然たるものを避け、確乎たる斷定を以て自然の通常の光景を表現するといふ自然描方の軌道を逸して居るの感がある、如何にかゝる機境があると説明せられても余の如きには唯無稽の幻視とより外には見えぬのである。又彼等に智能に訴ふる處の一種の文學であると排斥せられて居る。其描方は多少とも人の意表に出んことにのみ跼蹐して居るが、多くは光線、陰影、及び色彩を點々の傳彩としてぼつぼつに塗並べて、筆つきの粗い繪具の盛上つた、時としては參差凸凹の顔料を塗上げてある處は宛ら消火栓の噴水を見るの觀がある。確にターナーの印象派はこれ等の所謂印象派とは非常なる懸隔があるのである。故に今日の印象派風景畫の創始者であるとすることは出來ないではないか。無論その効蹟はあらうけれども。
 要するにターナーの藝術に於ける終局の位置が那邊にあるかを肯定せんとするのは尚早きに失するの嫌がある。ターナーは他の實際の大藝術家(廣義の)の如くに裁決せらるべきもので、氏の欠點や誤謬に依て裁決せらるべきものではあるまいではないか――無論氏にはこの欠點や誤謬が多かつたが――氏の到達した描畫の極致により、また後進畫家の模範を残した點から裁決せらるべきものであると思はる、のである。故に余一箇の意見としてはターナーの水彩畫が將來の時代に到つて猶褪色せずに保存せらるゝならば、油繪と共に總ての世紀と總ての畫派中の最高大家中に列すべき價値あるものとして氏に指を屈することを疑はないのである。(タブルユー、ジー、ローリングソン稿)★★完結★★

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