日記抄

大下藤次郎
『みづゑ』第七十二 P.12-20
明治44年2月3日

 石井君が出發するといふので朝の八時新橋にて見送る。石井君は元來が日本畫趣味の人だ、洋行したからとて急に畫風も變るまいしまた著しく繪がウマくならうとも思はれないが、趣味の廣い人だから、目に觸れ耳に聽くあらゆるものから新しい知識を吸集して、君の專門以外に澤山のおミヤゲがあることゝ想像される。
 今年の一月此處で別れた三宅君を、程なくまた此處で迎へることになるであらう。君の通信によると欧洲到る處で畫堂見物と寫生に日も足らぬといふ様子だ、君も定めて澤山のおミヤゲを齎らすことであらう、白馬會の一室又は個人展覽會によつて其製作に接するの日は遠くはあるまい。
 石井君は其畫にローカルカラーを尊重する人だ、型には嵌つてゐないが其畫には一貫した石井調があつて、ローカルカラーを重く見るために自然の新し味は常に畫面に浴れてゐる、これが石井君の好評を購ひ得る原因だと思ふ。
 三宅君は常に繪の纒り繪の調子といふことに苦心されるやうに思はれる、主観が勝ち過るために新し味は缺けるが、書面がよく整つてゐるので誰れにでも好かれるのだらう。
 自分の考で物を取捨することなく自然有の儘の形ちの中から巧みに一部を切取つて其儘畫くのが石井君で、繪として調子を整へるためには雑草も芝原に變へることを厭はぬのは三宅君だ。興に乗じたなら三十分で一枚の繪も出來、厭になつたら二三日かゝつたものも放棄して了ふのは石井君で、一週間に二枚午前午後と分つて必ず規定通り製作を續けそれを仕上げられるのは三宅君だ。石井君の寫生は畫面の外に筆が走つて畫板迄も染めるが、三宅君は縁貼の紙さヘヨゴさない。
 石井君は客観的であるために、其畫風は自然から來て自然と自己との調和に成つたものだから、欧洲の種々な形式の繪を見ても從來の畫風に變化を及ぼすまいと思ふ。三宅君は主観的であるために、時に他の作家の影響を受けることがある、君が前二回の外遊歸朝當時の製作はそれを證據立てゝゐる、既に秋の展覽會『ウインゾル』を見ても今回の旅行にも其徴ありといふことが出來る、久しいうちにはまた元の三宅式に復歸するとしても當分は變つた畫風に接することゝ考へる。
 兩君が同時に出發し同時に歸朝し、そして同時に其作品を公開されたなら、趣昧あり且有益な結果を産むであらうと思ふ(四十三年十二月十日)
 横濱支部の稽古日で程ヶ谷へゆく。十名あまりの熱心な會員は既に集まつてゐる。過去一ヶ月間の製作に對して批評すること半時間、それから停車場上の畑へ往つて寫生をさせる、多くは丹澤山脈を遠景に、松原を中景、前景は麥畑、それを畫くべく筆を採つた。空はうすく曇り、西南から冷たい風が強く吹き出して一同慄へ上る。
 彩筆を手にしてから間の無い人達には無理もないが、其出來た繪を見ると、大概は根本の形に間違がある、たゞさへ纒りのつかぬ處が、それが爲めに一層取柄のないものになつて了ふ。色が充分出なくとも形さへ正しかつたなら、マヅい繪も相應に見られるものだ、何事でも基礎が大切だ、繪は第一形を正しく畫くことを心掛けて欲しいと思つた(十二月十一日)
 白峰の雪を寫生するため、二日間を無理に都合して勝沼へゆくべく、朝早く飯田町停車場へ急ぐ。汽車は出た後なり、次には可なり間がある、中野へ往つてかねて目をつけてゐた畑中の松を寫生する、十一時乗車、四時初鹿野着、日川沿への小さな宿屋の客となる。此川の奥で武田勝頼の勢が岩蔭に隠れて、すぎゆく敵を斬つた、其血が流れて三日も水が紅ゐであつたといふので、土地の人はミッカワとよんでゐる、雨は元より、西が曇つても白峰は見えない、この間中より天氣都合を見て漸く來たのだが、午後から太陽に大きな輪が出來て五彩に暈じてゐる昨夜伊豫紋の小集に、席に待した妓の一人はおナカが痛むから三日の中に屹度雪が降りますといふた、今宵の空の月を掠めて往來する白雲は明日の天氣を氣遣はぜること夥しい。
 宿は親切、寝道具もとつて置の新しいもの、快よく眠れさうなリ(十二月十三日)曇つてはゐるが後には晴れさうなり、晴れなければ何か建物でも寫さうとの考で早くから出發、一里あまり川に沿ふて下ると勝沼の藥師堂がある、其境内から見る、幸ひに白峰は頭を出してゐるが、こちらの居る處が低いので見える處は頂上だけ。後ろは雜木林の急傾斜でとても靴では登れない、暖たかさうな場處を求めて三脚を据へる。
 さすがに甲州は寒い、日向でも水車の氷柱は終日融けぬ、そよそよ吹く風も頬を刺すやうに冷たい、しかし風除のある日當りのよい處なら冬でも寫生は出來る、冬の色にも面白味はある、一種のオチツキがあつて好もしい。
 西山連嶺の麓はいつ見てもポーッと霞むでゐる、それは釜無笛吹等の大河がその麓を繞るためだ、この霞のために景色がどれ程よく見えるか分らぬ。
 寫生二枚、歸宅夜九時(十二月十四日)
 研究所にデッサンのコンクールがあるので立會ふ。五六十枚のうちから優秀なもの二三十枚を抜く、一枚一枚見てゆくと、よい處もあり悪い處もある、多くは上半身に成功して下半身が畫き足らぬやうだ、これは時間にもよるだらうし、一週間のうちのモデルに對する興味が初めと終りとの相違にもよること、思ふ(頭から畫いて下を後にするといふ譯ではあるまいが)叉、顔や胸や目立つ處に骨を折つて、手足を重く見ぬためかも知れぬ、假りに等級を附けたやうなものゝ、一番と二番とは大して差異のあるものではない。
 多くの繪を並べて見ると、まづ色が一番目につくが、墨繪に於ては第一に形である、それで技巧の比較をする上にも、モデルの姿勢のよいのがよぽど技巧を助けてその繪をよく見せさせる、構圖といふことは决して度外視してはならぬものと思つた。』
 黒田君が帝室技藝員に任命せられた、その祀賀會が今夜五時から精養軒で開かれる。往って見ると知つた顔が澤山見えて、彼方是方集團を造つて世間噺をしてゐる、面白い、近頃英吉利から歸つた某氏は、日英博出品の日本の油繪をクサすものは日本人で外國人は何にも言はぬと話された、これを日本の油繪が進歩してゐるので外國人は悪評をせぬのだ、それをお互の間でクサすのは間違ひだと、頗る樂天的な解釋を下して喜こんでゐた人もあつた、「私はさうばかりには受取れぬ、日本から出品させて置て悪評を言ふ程禮儀私知らぬ英國人ではない、假りに外國人が日本畫を日本の展覧會に出した時、誰れも欠點は認めながらも眞面目に批評を下して褒貶をせぬのと同様で、悪評が無いから立派なものだとに少しく自惚ではあるまいか、勿論日本人の筆になつたもので、彼地のある者の作よりは優秀な繪が無いとは言はぬが、そんな低度の比較に満足しないで飽迄も技を練り進歩をばかりたいものだ(十二月十七日)
 日本水彩畫會研究所終りの月次會で午後からゆく。講師連は留守が多く、寒い故か出品畫も少ないが、熱心な生徒は四五十名集まつてゐる。去年あたりからの流行で、寫生に具入繪具を盛んに使つたので畫面がいかにも醜く、水彩だかグワッシだか分らぬものが多かつたが、近來それが無くなつて、繪にオチツイた透明の感じの出て來たのは喜ばしい現象だ(十二月十八日)
 竹の臺茶話會幹事會のため上野韻松亭へゆく。會場問題で東京府と大に爭つたが漸く落着して目出度ことだ。當時奔走の効空しからず、吾が太平洋畫會が最好期を一ヶ月使用することになつたのは一層目出度ことだ(十二月十九日)
 夜五時、太平洋畫會研究所委員會へのぞむ。研究所を開いて後進を導くといふことは容易ではない、研究所の維持方法、生徒の風紀取締、何や角やと敎授以外に雑多な問題がある、後進を導くといふても、官立學校のやうに立派にお膳だてが出來てゐて、敎師はたゞ一週一二回出て繪を見るだけなら何でもないことだが、金のない私立の研究所では、敎師が同時に經營者であつて且事務員である、そして物質上の報酬は少しもあるのではない、その勞をも思はず、研究所を營利の私學校と同様に考へて、研究を怠つたり勝手な熱を吹いて、會や敎師に迷惑をかける奴は實に沒分曉漢だ。尤も先輩は後進を誘導すべき義務といふものはたゞ徳義上に於て有するのみで、誰れからも頼まれた譯でも無いから、多少の迷惑は甘受すべきものかも知れない (一月二十三日)
 八時十分の急行で靜岡へゆき、比奈地君と冬季講習會を打合せをして、午後輕便鐵道で清水にゆき朝陽館に投じた、同行は妻と正男。
 夕飯前海岸の砂原で正男のために凧を揚げた、三十年の昔が想はれる。繪をかく人の一生と空に飛ぶ凧とよく似てゐる、順風であればいくらでも高く揚るが、凧自身の構造が不完全であつたなら、中途で狂ふて終には木にも絡まらう、田にも落ちやう、いくら構造がよくても境遇といふ風が無くては高揚は困難だ、あまり強風では――あまり順境に過ぎては――却つて堕落し易い、適當な軟風で油斷なくコヅかれて徐々に登つてゆくのが一番安全のやうだ二月二十九日)
 龍華寺は古來此邊で富士を見るに一番よい處としてある、富士は眞正面に見える、清見潟三保の岬皆景中のもので、江尻清水の粉壁を境として前は廣々した稻田である、大觀といへば言へやうが沖の白帆、煙吐く黒船農家松原とあまりにウルサイものが多いので引締まつた處が無い、裾野の展き工合距離等から云ふても、こゝから一里先の駒越萬象寺境内の山上から見た方がよほど壯美の觀がある。
 夕方浴室の窓から富士を見ると、空はうす紫に重く、富士は紅ゐの寳石のやうに美はしい。急いで風呂から出て、浴衣のまゝ形をとり色をつける、同じ現象は僅かに五分時、自然はなぜそんなに美はしい姿を永く見せるのを嫌ふのだらう(十二月三十日)
 早くから雨戸をあけて富士の色づくのを待つ。寫生箱は枕頭にあり、紙には淡く輪廓もとれてゐる、水の用意も出來てゐる、障子のガラスから久しく目を放たぬ。
 空は萌黄色に、地平線近く多量の紅を含むで、蒲原興津あたりの山は愛鷹と同一色に、紫にほふ初霞に包まれてゐる、東海第一峯、その天を摩する尖端の一半が、俄かに紅ゐに變ると、影の雪は一層青味を帯びて、磨きすました剣のごとく冷いやりと、自分の胸でも刺されたやうに、見たばかりでさむ氣がする。パレット布彩る繪具は早くも畫面に運ばれて、元旦の富士は吾が書嚢に一座を占めることになつた。
 朝飯後三保へゆく。神社のほとりにて河鰭氏に逢ふ。羽衣あたりから見た富士は俗て平凡だといへばそれ迄だが構圖次第で面白いものが出來さうに思はれる。こゝで三十分間程浪の寫生をする。
 東京から永地氏が來られる(四十四年一月一日)
 午前靜岡に移る。講習會員七十名程なりといふ。初めは興津清水邊で自分も寫生しながらお相手する考で、會員も漸く二三十名のつもりであつたのが、會場を靜岡に移すころから自分の寫生を思ひ捨てた、さるに七十名といふ大人數では寫生どころではない、一晝夜兼行大に働かねは追つかぬことになつた。
 寫生地下調べに淺間社へゆく。十數年前一度來たきりで當時の記臆は殆と無い。神さびた境内到る處寫生の材料がある。夜に入つて赤城氏來着、富田河合其他舊知の人々にも逢つた(一月二日)
 會場なる静岡市物産陳列場は講習に適當な建物で、こゝに新春早々七十の同好者に會するのは愉快の趣である。朝は携帯した水彩畫四十餘點の説明をなし、午後は會員の一部の靜物寫生を監督した、夜は會員合宿所で一時間餘講讀、それから茶話會に臨むで十時歸宅した。
 永地氏清水より來られた(一月三日)
 午前城内内濠寫生を見廻る。六十餘の會員が崖下水際で寫生をしてゐる、崖の上下で時間を空にすること多く、僅かに二回巡覽したのみで正午になつて仕舞つた。
 午後は靜物寫生を見、夜分は二時間講話をした、咽喉を痛めてゐるので聲が立たずもどかしい(一月四日)
 一同三保へゆく日であつたが、雨のために模様變となり淺間社へ出掛けた。雨が烈しいので皆々軒下で寫生をする。今日は部分寫生を勧めたのと、サブゼクトが長時間同一現象であつたので一般の成績が大によい。
 會員のうちのある人々は繪を見せるのを嫌ひ、また少しも質問をしない、何等の疑もなくまた繪も見て貰はなくともよいのなら遙々講習會に出るには及ばぬ譯だ、このやうな人はさうでなく、恥かしいとか極まりが悪いとか些々たる虚榮?から因循に流れるのであらう、何事でも上達進歩しやうといふのには意志が弱くては駄目だ、叩かぬ鐘は鳴らぬ、叩いても小さく叩けば小さな音しきやしない、大に叩くがよい、自分の得心のゆく迄叩くがよい、こんなことを問いたのではあまりに幼稚で笑はれはすまいかと、詰らぬ遠慮はせぬことだ。
 夜分講話二時間半、咽喉はますます痛い(一月五日)
 三保へゆく爲めに七時半軌道鐵道の靜岡停留場へ集まつた、主催者の比奈地君や赤城君が見えない、昨夜の約束では一番先に來てゐる筈であつた、どうしたのだらうと一同心配する、ピーと發車の相圖があつて、二驛ばかり來た時、突然飛乗つたのは比奈地君一行で、何でも近道を汗をふきふき馳け通したとの事だ。
 會員の失策話はまだ少しある。有名な△△君は靜岡到着早々人違ひをしたさうだ、ある家へ往つて歸る時、そこにあつた他人の品を間違へて持つて歸らうとしたさうだ、そして自分の洋傘は忘れて來たとの話だ。ある會員は三保から清水へゆく長橋の眞中で帽子を飛ばして仕舞つた、ハッと思つたが追つかない、帽子は海中に浪に弄れて今にも沈没の悲境に陥つた、幸ひなるかな近くに海苔取船があつて、漸く救ひあげて棹の先で橋の上の人に渡したとの事だ。
 三保に集まつた五十餘名は思ひ思ひに陣取つた、雨上りで富士は鮮やかに見えるが西の風が烈しい、畫架か吹飛ばす、砂は繪具箱に入る、濡れた畫面はヤスリ紙のやうになる、寒さも可なり強い、昨日は一日雨にうたれて慄へ上り、今日は又風に吹かれて縮み上る、繪をかくのも辛いものだと悲観する人もある。
 水筒の水を風の爲めに飜へして近處に水の無いので當惑してゐる人もある。豊田君の周旋でお茶にありついたやうなものゝ、茶碗が無いので困つてゐる人もある――筆洗がありといふ勿れこの中の水を捨てゝは代りが無い――子供にたのんで四五丁先の人家から水を運ばせる人もある、水筒一杯十銭位ひならいくらでも賣れさうで、一荷擔いて來やうかと際どい處で商賣氣を出す人もある。
 烈風にも恐れず銘々一二枚のスケッチを得て靜岡へ歸つたのは五時であつた。
 夜間講話二時間半(一月六日)
 午前靜物寫生、午後から成績二百餘點の批評をした。風景畫は素養のある人が多いので見られるものが少なくなかつた、榎谷、川合、島崎、山本、加藤、高橋、渡邊、富田、石井、清水、武村其他二三氏の作には敬服すべきものがあつた、靜物畫は僅かに三回なりしも、一枚毎に進歩の痕が著しく見えてゐたのは喜ばしかつた。
 夜分講話一時間、これで講習會は無事に終つて、直ちに茶話會が開かれた。餘興はあとからあとからと續出する。清水氏の謡曲、富田氏の講談――これは久し振で一同大喝釆――白鳥氏の琉球うた、榎谷氏は特に數番面白い歌や話をせられて散會したのは十一時であつた。
 冬季講習會はこの日で終つた。毎年一月の初めは一年中の安息日として、強いて繪も畫かず讀みたい書物を見たり、子供と遊むだりして暮すのが例であるが、今年はそれよりも一層愉快に且有益に暮したことを感謝せずには居られない、たゞ日數の短かいのと、豫定より會員の増したのと、咽喉の悪しかつたために、充分に働けなかつたのは多少の遺憾である。この會に比奈地君及島崎君等が一生懸命に奔走されたのは、斯道のためこれまた多大の謝意をいたさればならぬ(一月七日)
 午前九時過の汽車にて東京へ歸る(一月八日)
 美術新報の一月號には美術團體解散論がある、小さな無意味な團體の澤山あるのは望ましいことではないが、主義の異なり叉は傾向の同じからざる大きな團體は、存在してゐた方が美術界のためよい事で、互に刺戟にもなり、技術上の個人的競争以外に、更に團體的競争心は一層有力な結果を産むべく、多年の歴史あり根底ある畫會は自然の發展に任して徒らに解散や合同などなさぬ方がよいやうに考へられる。但團體でも個人間でも、競爭といふと私交上に迄悪い影を及ぼすこともないではない、また其味方を利するため陋劣な運動を爲す人もあつて多少の弊害は免れまいか、二會競爭によつて生ずる利益から見たら何でもない事で、此論は當分實行出來ぬものであらう(一月九日)雪ふる夜、表町永地邸に太平洋畫會理事會が開かれた。相談が濟むで後に、吉田君からトランプの新しいとり方を敎はつた。
 初めは何か一向分らん、併し分らぬながらも三番五番とやつてゐると、筋が知れて來る、掛引も覺えて來る、偶には勝利を得ることもある、見てゐたり話をきいたばかりでは何の益もない、實地に手を下してこそ初めて其趣味をも解し得るのである (一月十日)
 例によつて新年會の催あり、知友門下の一部來會さる、カルタに遊戯に笑ひ興じて夜十一時散會(一月十四日)

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