寄書 東尋坊紀行(下)

湯淺竹次郎
『みづゑ』第七十二
明治44年2月3日

 其處此處の巖嶋は、實に一種怪異にて、さながら長サニ尺斗りの方柱乃至六角柱の互に並行せしコークスを、丁寧に結束せしに似たり、此粘岩を指して、某君は黒砂糖の山なりと笑ひしは、好形容なりき、此見上ぐる斗りの巨怪物も、冬時、日本海の荒れ狂ふ時には、あはれ、數丈の怒濤にと打越されて、愍然なりと、舟人に語れり。
 夫れより海岸を三丁程隔て漕ぎ行く。沿岸はスマラクトグリユーン色の形よき、一齊の並木松に、藁塊の併立する樣、廣重の海道畫を見る樣なり、斯くて、一時半安東浦に着きしに、老夫も會合せり。
  浦邊より呼べば答へん距離に、一大島あり、大島と云ふ、全島倭松と雜木、周圍六七丁はありなん、美麗なる樂園なり。
 安東浦は清らかなる漁村なり、海岸高く瞰下するに、海遠淺さ、且つ、地盤悉く之れ岩石、北陸稀有の海水浴地と云ふべし、村離れの一軒茶屋にて、ドッカと腰を降ろし、各自思ひ思ひの駄菓子に澁茶を啜り、主婦と雜談休息、徐ろに勇氣を入れ、發程す、行く事幾許ならずして、松林稀粗なる處、遠く半島の帯出せるあり、余思はず東尋坊と獨語す、搬夫左なりと答ふ。
 半島は今、日を西南に浴び、フカースグリン、ニユトラルチント、ホワイトの混色から成らん島影を、其岸邊に宿し、誰が遺るにや、ヨツト一艘靜に浮ぶ、美敷とも美敷、某君は此景を直にコタック中に藏めぬ。
 道に平坦砥の如く、自轉車には誂向きなり、稍ありて、「タキあり」との小旗あり、赴き見れば、何ぞ計らん、小流の絶坂となりし處一つの樋を掛けしに過ぎず、瀧などとは片腹痛し、サハ言へ、直下に小屋を作りしは親切なり、瀧よりも、此岸邊に佇立して打眺むる蜿蜒たる變化多き面白き浦々の景趣捨て難く、側路ちせし勞を償ふて充分なり。
 再び本道へ出つれば、其處に三國港、否越前地屈指の豪家小坂屋氏の別邸あり、斯くて又、テクテクと進む、最早此わたりより、東尋坊へ入るべき路のあるべき筈と、幸、荷夫の居合せたるに聞けば、少しく行き過ごせり、石佛あり其側方より屈折すべく敎はる、石佛は絶へて見付からざるも、小徑あるに進めば、一軒家あり、屋内目下養蠶の最中にて、白髭の老人あり、如例東尋坊を口にすれば、今少しく路み戻れと指示せらる、ヲヤヲヤ。成程心付かざる位小なる石佛あり、此處此處と草を分けて行く、一定の徑路は在りながら、往還絶えて無き爲め、茨、松間の蜘蛛?共厄介至極、三丁計りにして廣濶たり‥‥自分等は東尋坊上にあり‥‥全半島總て是れ、一大岩石より形成せらるゝなるべし、硬強なる芝草一面に生ひ敷きそこ等堅隆なる岩露出す、他の諸氏は逸早く、岬頭の何れかへ影を沒せり、右望すれば、遠くは丹後の山々糢々糊々として夢よりも淡く、越前の全海岸より山脈は、野と無く、、山、家と無く、ホワイト、ライトレッド、オルトラマリンを混ぜて一刷したらん樣、四五の舶艇は、銀灰色を成せる海水との對照的に、雪白色の帆を觀ぜしも、鳴呼此一大展畫!――よしや、其處に小刀細工的何等の奇景あらずとも。
  岬頭は、峨々峻劔たる巖石の絶崖、屹然、屏風の如く直下數丈足怖慄す、四ッ匐ひして可成降下し、岩傳ひに凹みの箇處を幸ひ、裾然。
  脚下は波浪の打寄せ打退きある刹那、青色系、色彩の極美を發揮しつゝあり、ヲルトラマリン、インヂゴ、ヱメラードグリーン、フーカースグリーン、コバルトの或は單獨、或は混色に。北面すれば、足跡印せし梶浦、安東浦、崎浦、美なる大島等指顧の間に集り、涼風そゞろに吹き來りて四方の熱氣を一掃す、快絶壯絶、到底凡筆のべミユライベンし得べきにあらず。
 軈て此仙境に別れを告げ、彼の石佛の近隣にて、東尋坊との告別とて、荷物飮料の悉皆を飮み乾しき、三國港は間もあらず、路側兩傍に、海水浴舎の看板戸毎なり、重き勞足を引摺りつゝ、六時頃葦原の宿へとは歸舎しにき。(完)

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