風景畫法 圖畫(ドローイング)

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎譯
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

 圖書は美術上の文法のやうなものである。名文は文法を骨子とする如く名畫は圖畫を基礎とする。文法でも圖畫でも是等は製作上何れも無くてはならぬ要件である。
 幸ひなことには文法でも圖畫でも習ふには大して六かしくない。一と通り敎育あるものには誰にでも出來る。尤も之は圖畫で云ヘば習つて出來るのは色彩と感想とを元とした普通の良い畫と云ふことで。無論眞の美術品たる名畫をかくやうな大家は世界にも其數僅に指を屈するに過ぎない。中にもホルバインとレオナルドの二人は古今獨歩と云はれて居る。其美しい柔かな線には非常に妙味がある。で色彩などは無い方が反つて佳いと思ふ程である。『モナリザ』を見ても分かるが色を着けて仕上げると反つて千遍一律に終はるのである。と云つてホルバインが此頃の印象派風に描いても面白くはない其特徴は線状の美であるから新派やうに描いては美が毀はれて仕舞ふ。畫には美術としての要素が悉く備はつて居なければ完全のものとは云はれないと克く云ふことであるが。此大家の畫にも幾分此憾みはあるやうだ。
 勿論風景畫では圖畫と云ふものは第二位にくる。色彩。融合。光の振動などが第一の要件ではあるが併し夫れだから圖畫はどうでも宜いと思つてはならない。風景畫の樹木や山水の輪廓は人物畫の眼や口と同じく大切なるもので。形が好く行つて居れば即ち其畫は佳いのである。圖畫の上壬は即ち技の上手と云へやう薔の妙味は往々運筆の輕快から來るものであるが之は下の輪廓が慥かでないと出來ない。形が滿足に取れぬやうでは畫に趣があらう筈が無い。
 展覽會へ行つて見ても。之は眞に佳い風景畫だと思ふ其筆者は必ず圖畫も上手な人である。必ず四五年間は專ら圖畫のみの研究をしたものであることが知れやう。四五年間でもまだ澤山とは云はれないが。併し圖畫の稽古には。風景書家でも戸外寫生よりも室内で裸體を研究する方が爲めになるのである。
 畫も亦世上の事物と同じく順路に由る者が一番早い。夫故戸外に在つては專ら色彩光の振動。融合。空氣の現象等に就て研究するので是等は他では迚ても研究することが出來ないからであるが。圖畫の稽古に戸外で榎や樫を手本として形を研究したからとて共進歩は遅からう。榎の枝が少し上に上がらうが下に下がらうが矢張り榎として間違はないが人體となると一寸違つても最早形が壊はれてゼまう。人間の裸體程完全した物は自然界にはないから此微妙の線を研究するより外には形の感念を充分に練習する途がないのである。去れば景色を寫生することも圖畫の研究にはなるが併し風景を畫いたからとて夫れで風景畫に必要なる圖畫が習はれるものではない。人體の微妙なる形で練習をすれば如何なる物でも畫けぬことはないのである。勿論風景畫は時々鉛筆寫生で山や川或は木や道などの模様を研究することも必要ではあるが併し先づ何よりも圖畫の練習が一番大事である。風景畫の寫生が充分に出來なければ一と先づ都會の地で今一層圖畫を練習すが宜い。若し又た一と通り技量はあるが好加減な畫き方をして本當にゆかぬやうな者は繪具の方は止めて力めて木炭畫の研究をするのが宜いのである。學生が圖畫の練習と云ふことを常に忘れぬやうにする爲め風景畫を敎へる各畫學校では戸外人物の研究科を置いたならば宜からうとの説が出たが。偶々西班牙の畫家ソロラ、イ、バスチダが紐育で展覽會をして南國の派手な色彩の風俗書を見せたので人々大に感服して益々此説に賛成する者が出來たが。併し自分の意見では是程分からぬ議論はあるまいと思ふ。早く上手にならうとするには何んでも一方ばかりを目懸け二兎を追はぬことである。
 戸外で人物畫を研究するとすればσ光の振動とか融合とか又た色彩明暗の工合など六かしいことが澤山ある上に人物の位置や組合はせも考へなけ.ればならぬ中々畫室内で人體を研究するやうな譯には行かない。戸外では空や周圍の明るい景色から種々な反射が來るから徐程變つて見えやう。尤もかゝる研究む毎も同じやうな方法では倦きもしやうから。時には慰半分に宜いかも知れれいが。併し何程一生懸命に初めても其勇氣と眞面目とには感心するが志す處が分からない。ソロラは二十五ヶ月年も研究して漸くあの畫に成功したのであるからそれを知らずあの遣り方を目懸けても仕方はあるまい。併し斯ふ云つて折角の熱心を冷ますのは惡るいだらう。熱心は何につけても宜いことである。
 先きにも述べた通りホルパインとレオナルド、ダヴィンチとは古今獨歩の巨匠ではあるが近世の畫術から見て其作品は眞の名畫と云ふ資格に稍や不足する處があると云つたが。線の描き方があの樣に繊巧では勢ひ畫筆の運用に輕快を缺くのも無理はない。爰に本當の畫に極適當な描き方がある。之は一と塊りづゝ大きく畫くのでミレーやウィンスロー、ホーマー又は佛國の風景畫家ハルピニーなどの遣り方を見れば分かる。元來風景畫は微妙なる色彩を一と塊りづゝ寄せ集めて出來上つて居るものであるから斯う云ふ風な描き方が一番適當するのである。之で行けば物の性状を間違なく表はすと共に大きく立派な趣が現はれてくる。眞の畫家は圖畫を描くにも常に大體を見ることが大切である。毎も云ふ通り主要なもののみを捕へて小さい不必要なるもは拾てゝ仕舞ふのが宜い。(バーヂ、ハリソン稿)

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