日記抄
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日
夜、大坂三越展覽會の打合せのため下谷伊豫屋にゆく。三越の人の話に、展覽會の時は學校へも案内状を出すが、日本畫の時は學生は少しも來ない、洋畫の時は随分遠方からも澤山見えますといふ。これは日本繪は見なれてゐて洋書はまだ珍らしいからでもあらうが若い人の繪に封する考が、洋畫に傾いてゐる一證とすることも出來やう。或人は、この學生達が一家の主人になつた時は、洋畫萬歳の時だといふたら、その頃には老人となつて日本謁好になるかも知れないといつた人もある。青年と洋畫はいづれにしても離れがたい關係があるやうだ(一月十五日)
山岳會有志晩餐會で、日比谷の平野屋へ往つた。不相變山にかけては少々逆上氣味の人違ばかりで、話がはずむで面白い。ある會員は、信州上高地田代池の附近の林が、今年の夏は全部伐り倒されるといふ話をきいた、會の力で何とかならぬものかと相談される。幹事諸君も、地方の無趣味な役人を相手には、どうする事も出來ぬと匙を投げてゐられる。誠に殘念な話だ。上高地のやうな僻地に在る、柳や落葉松を伐採した處で、何程の収人があるのだらう。目前の些々たる金額のために、此勝地の風光を傷けるばかりでなく、水源の荒廢は、やがて水路九十除里、日本一の長流信濃川浩岸り大損害を釀す基をなすのである。
これにつけても、一般に自然を愛するといふ心を持つてもらひたい。何でもない、たゞ役人に繪心があればよいのだ。政治などといふものは、大白然の目から見たら、實に目前の事ばかりで、永遠の計畫などいへたものではなく、また其範圍も、一局部に過ぎない○爲政者に自然を愛する心があつたなら、實益とか便利とかいふ以外に、趣味の涵養の必要なことも分つて、無暗と山の木を伐つては、年々大水を出さして、民を苦しめるやうな、そんな無謀な事はすまい。小林區の小役人でも、繪心があつたら、幾白星霜を經て漸く形つくつた深林を、一時に伐り拂ふことはすまい。一町歩の處は二町歩にして、ウロ援いて、風致を害さぬ程度に止むるであらう。m代池附近の如きは、一度立木を伐つたなら、其跡に止へるものは芒ぐらひで、それも一度大雨でもあると、忽ち石原となつて、徒らに梓川原の幅を廣くするのみである。假りに此ことなしとするも、元の如き密林になるには、あのやうな寒地では、更に幾十年幾百年を待たねばならぬ。上は内務、農商務の諸大臣より、下は小林區の小役人達迄苟も自然に深い關係のある職務を持つ方々には是非風景畫を習つて貰ひたいものだ。
私には樹を伐られる話をきくことは、自分の身を斬られるやうに辛い(一月二十一日)
研究所の新年會は、たゞに在學者のみではなく、嘗て研究所に通學した人、また關係の深い人達の爲めには、一年唯一度の懇親會である。それ故、會を盛むならしむるために、飴興の如きも、面白いものを澤山出すやうにと奨勵めて置た。そしてどんな事をやるか、少しも干渉せずに、其日の來るのを樂しむで待つてゐた。
十時ごろ研究所へ往つて見ると、織田、藤島、磯部の諸君が既に來て居られる。赤城君は、大きな紙へ、頻りと不折張の健筆を揮つてゐる。曰く薩摩琵琶、曰く喜劇何々、曰く舞踏と、番組は一枚の紙に書き切れぬ程ある。
繪が揃ったといふので下の敎場へ往つて見る。寒いのでイヂケたのか、數は少ない。並むでゐる五十枚程を一々批評をする。そのうち、眞野君が來る。永地君が來る。出品畫では、八木君の湯ケ野寫生が幅を利かしてゐた。瀧澤君の大幅も目を惹いた。奥村君、篠原君、共に前途の光明がある。其他よい作がダイブあつた。
畫飯が濟むと、二階へとの案内で直ぐに起つた。表面にはいつの間にか舞臺が出來てゐる。ダンダラ幕に房迄も下つてゐる。花道もある。樂屋もある。何でも昨日は、夜の稽古が濟むでから組立てたので、今朝の三時頃迄も掛つたといふ。中々熱心な事だ。
いつ集まつたか、平土間は一パイの人だ。中には去年の新年會以來顔を見ない人もある。三四年前に、日本橋の講習所へ通つてゐた人も來てゐる、恁うして古い人が來てくれるのは、涙の出る程嬉しく思はれる。去年入營した松井君の二等卒姿も、座の隅に見えた。
餘興の番數が段々進む。第一の喜劇で、借金取の文房堂は、實に眞に逼つてゐた。あの小さな身體、あの腮の出たところ、あの眼鏡のかけかた。何だか正のものがそこへ出て來たやうに思はれた。志賀君の筑前琵琶は振つたもので、最早素人藝を説してゐる。喜劇『犬』は、萬事が自由劇場式で、隣りの地主もよく出來たが、ステバンは高島屋其儘であつた。その中、渡部君、戸張君、大橋君など見えられた。
例の通り酒なしの、夕飯は辨當が出た。高島屋の藝を見て、辨松の御飯を頂くなんて、まるで久松町へ往つたやうだと、通を利かしてゐるものもある。
食後にも二三の餘興があり、藤島君の地で、磯部君が『高砂』の仕舞を一曲さし、それを打止めに、研究所の万歳を唱へて散會した。あとでは有志が殘つて、十時頃迄カルタ遊びをしたとの事だ(一月二十二日)
根岸の伊香保で開かれた、竹廼台茶話會の新年會の席で、毎日電報の牧野君に逢つた。牧野料とは、去年小豆島の歸りに、高松で別れたきりだ。其後はいかにき問ふたら、あれから八島へ徒つて、其晩酷い目に遭つたといふ、面自さうな話だ。『みづゑ』に書いて下さいと約して置た(一月二十五日)
御相談があるから、上野の精養軒へ來て欲しいとの招待状は東京勸業展覽會の會頭中野武螢氏と、東京美術學校長正木直彦氏との連名である。定刻に往つたら、吉田、滿谷、中川、の諸君が既に居られて、間もなく黑田、岡田、藤島武二君、次いで長原和田の諸君が見えられた。主人側の申野氏、正木氏、商業會議所の書記長、東京府農商課長の久保氏も席に居た。相談といふのは、今年の東京勸業展覽會に、洋畫の出品はあるかどうか、若し少數なら洋畫部を見合せやうとの考へもあるが、東京は洋畫の發祥地でもあるから、なるべく盛むに出品して欲しい、茲に集まつた諸君を委員として、何分御依頼したいとの希望であつた。即答も出來ないので、鄭重な晩餐の御馳走になつて後、客側の方だけ別室で相談をして、双方に利益あり且適當と思ふ方法を答へて置た。
東京府の展覽會は、開催については何等の異議はない。佃し、私一個の考では美術部は、美術工藝だけに止めて置て、純正美術は削つてほしい。若し奨勵といふ立場から、金を出さうといふのなら、墓礎の確實な會の出品畫を買上げたらよからう。併し、展覽會に、純正美術がないと、入場者が少ないとの心配もある、經濟の上から、假りにそれもよいとして、太平洋、白馬會、この二つの展覽會の開かるゝ春期に於ての催であつては、各會の關係者は出品が出來ないことになる。秋には文部省の大舞臺もあるし、春も兩會同時に開かるゝのであつて見れば、一點でも佳い作は放したくない、強て東京府の方ヘ出さうとすると鑑別に落第した劣等品より外に無いことになる。區々たる奨勵金位ひに釣られて、自分の金を捨てる人はないから、若し東京府の補助の下に、年々このやうな展覽會が開かれ、洋畫の部も置きたいといふのなら、會則發表前に、當事者と充分相談して、効果を収むる工風を練つたがよい。今回の如きは、眞に藝術家に對する禮としても、其當を得たものではあるが、多少時機が遲れたやうに思はれる。
會である。それ故、會を盛むならしむるために、飴興の如きも、面白いものを澤山出すやうにと奨勵めて置た。そしてどんな事をやるか、少しも干渉せずに、其日の來るのを樂しむで待つてゐた。
十時ごろ研究所へ往つて見ると、織田、藤島、磯部の諸君が既に來て居られる。赤城君は、大きな紙へ、頻りと不折張の健筆を揮つてゐる。曰く薩摩琵琶、曰く喜劇何々、曰く舞踏と、番組は一枚の紙に書き切れぬ程ある。
繪が揃ったといふので下の敎場へ往つて見る。寒いのでイヂケたのか、數は少ない。並むでゐる五十枚程を一々批評をする。そのうち、眞野君が來る。永地君が來る。出品畫では、八木君の湯ケ野寫生が幅を利かしてゐた。瀧澤君の大幅も目を惹いた。奥村君、篠原君、共に前途の光明がある。其他よい作がダイブあつた。
畫飯が濟むと、二階へとの案内で直ぐに起つた。表面にはいつの間にか舞臺が出來てゐる。ダンダラ幕に房迄も下つてゐる。花道もある。樂屋もある。何でも昨日は、夜の稽古が濟むでから組立てたので、今朝の三時頃迄も掛つたといふ。中々熱心な事だ。
いつ集まつたか、平土間は一パイの人だ。中には去年の新年會以來顔を見ない人もある。三四年前に、日本橋の講習所へ通つてゐた人も來てゐる、恁うして古い人が來てくれるのは、涙の出る程嬉しく思はれる。去年入營した松井君の二等卒姿も、座の隅に見えた。
餘興の番數が段々進む。第一の喜劇で、借金取の文房堂は、實に眞に逼つてゐた。あの小さな身體、あの腮の出たところ、あの眼鏡のかけかた。何だか正のものがそこへ出て來たやうに思はれた。志賀君の筑前琵琶は振つたもので、最早素人藝を説してゐる。喜劇『犬』は、萬事が自由劇場式で、隣りの地主もよく出々人たつま集く早に會年新の室畫白目來たが、ステバンは高島屋其儘であつた。その中、渡部君、戸張君、大橋君など見えられた。
例の通り酒なしの、夕飯は辨當が出た。高島屋の藝を見て、辨松の御飯を頂くなんて、まるで久松町へ往つたやうだと、通を利かしてゐるものもある。
食後にも二三の餘興があり、藤島君の地で、磯部君が『高砂』の仕舞を一曲さし、それを打止めに、研究所の万歳を唱へて散會した。あとでは有志が殘つて、十時頃迄カルタ遊びをしたとの事だ(一月二十二日)
根岸の伊香保で開かれた、竹廼台茶話會の新年會の席で、毎日電報の牧野君に逢つた。牧野料とは、去年小豆島の歸りに、高松で別れたきりだ。其後はいかにき問ふたら、あれから八島へ徒つて、其晩酷い目に遭つたといふ、面自さうな話だ。『みづゑ』に書いて下さいと約して置た(一月二十五日)
御相談があるから、上野の精養軒へ來て欲しいとの招待状は東京勸業展覽會の會頭中野武螢氏と、東京美術學校長正木直彦氏との連名である。定刻に往つたら、吉田、滿谷、中川、の諸君が既に居られて、間もなく黑田、岡田、藤島武二君、次いで長原和田の諸君が見えられた。主人側の申野氏、正木氏、商業會議所の書記長、東京府農商課長の久保氏も席に居た。相談といふのは、今年の東京勸業展覽會に、洋畫の出品はあるかどうか、若し少數なら洋畫部を見合せやうとの考へもあるが、東京は洋畫の發祥地でもあるから、なるべく盛むに出品して欲しい、茲に集まつた諸君を委員として、何分御依頼したいとの希望であつた。即答も出來ないので、鄭重な晩餐の御馳走になつて後、客側の方だけ別室で相談をして、双方に利益あり且適當と思ふ方法を答へて置た。
東京府の展覽會は、開催については何等の異議はない。佃し、私一個の考では美術部は、美術工藝だけに止めて置て、純正美術は削つてほしい。若し奨勵といふ立場から、金を出さうといふのなら、墓礎の確實な會の出品畫を買上げたらよからう。併し、展覽會に、純正美術がないと、入場者が少ないとの心配もある、經濟の上から、假りにそれもよいとして、太平洋、白馬會、この二つの展覽會の開かるゝ春期に於ての催であつては、各會の關係者は出品が出來ないことになる。秋には文部省の大舞臺もあるし、春も兩會同時に開かるゝのであつて見れば、一點でも佳い作は放したくない、強て東京府の方ヘ出さうとすると鑑別に落第した劣等品より外に無いことになる。區々たる奨勵金位ひに釣られて、自分の金を捨てる人はないから、若し東京府の補助の下に、年々このやうな展覽會が開かれ、洋畫の部も置きたいといふのなら、會則發表前に、當事者と充分相談して、効果を収むる工風を練つたがよい。今回の如きは、眞に藝術家に對する禮としても、其當を得たものではあるが、多少時機が遲れたやうに思はれる。
食卓の上では、いろいろ面白い話が出た。天艸騒亂頃のことであらう。長崎に山田衛門作といふ男が居て、これが蠻書を描くといふので、召捕られた。人の似顔を描かして見るに、實に上手だ。其儘獄に入れるのも惜しいといふので、爾來犯人の人相繪描きにしたとの話がある。それから、明治の初年に、工部大學の一部に洋畫や彫刻科が置かれたのは、政府自からの提案ではなくて、當時歐洲列國は、日本に向つて種々な押賣をやつた。英吉利は海軍、佛蘭西は陸軍、獨乙は醫師といふやうに、各國それぞれ特有の技術を輸入した。そこで伊太利も、他に何も無いので、無理に美術の押賣をやつたので、今日の西洋畫の發達は、それが某であると話た人があつた(一月二十七日)
程ヶ谷で稽古が濟むで後、横濱野毛の鳴門で、横濱支部の新年會があつた、出席者十五六名、來賓として磯萍水氏が見えられた。幹事は、出席申込記名順で餘興を強ひる。澁々やるのもある。
稍得意なのもある。順番の來るのを恐れてゐるのもあれば、早く來ればよいと待つてゐるらしいのもある。これが今年の終りの新年會で、面白い一夜を過した(一月二十九日)
第一高等學校内畫學會々員のために、音羽の護國寺の寫生會にゆく。會するもの十數名。小さなスケッチブックに徒ら書をしてゐるやうな人もあつたが、兎に角熱心に寫生を續けた。見るところ、水彩畫の戸外寫生に對して、其手段方法に何等の智識も持たぬ人もあるらしい。繪は目に映じた自然を、頭に感じて、手で畫くものではあるが、其物の見かた、感じ方、技の熟練、それが調和しなけれはよい繪は出來ない、畫學會の諸君の多くは、たゞ感じばかりで畫かうとしてゐるらしい。まづABCより始めよと忠告したい(一月三十日)
夜分中丸氏の訪問をうけた。氏は數年前、久しく巴里に在り、昨秋再び歐洲を廻つて、この程歸られたといふ。氏の話によると建築の樣式や、室内装飾の如きは、數年前とは殆ど變つて、恰も別世界に往つたやうな感があつたといふ。思ふに、數年間の所謂變化なるものは、吾が東京の、新橋萬世橋間に於ける變化とは趣が違はう。一の圖案年報を見ても、一度セセッションが流行すると、大きな建物の樣式は勿論、各國の粧飾、備へつけの器貝、椅子卓子の如きは勿論、掛時計の文字から、棚の上の植木鉢から、其部屋に運ぶカフヒ茶碗の模樣迄も、セセッションでなくては承知しない。少し飽くどくも思はれるが、これでこそ統一ある樣式が成立つので、模樣が活きて來るのである。但、かゝる事は經濟問題と關聯する。日本も、もつと富が増さぬ以上は、美術の發達は樂觀することは出來ない(二月一日)
寫生族行の相談のため、夕刻から駒込の吉田邸に集まつた。今度は瀬戸内海から、九州別府温泉あたりまで往かうといふので、寫生團を中國組と四國組とに分けて、高松を起點とし、八島津田の松原邊を寫してから、一は備後の靹、尾の道を經て宮島に、他は多度津、丸龜、高濱から道後を寫して、同じく宮島で合し、九州ヘ渡らうとの計畫。出發は三月五日と略ぼ極まつた。私は四國を選むだ。私の方の同行者は、高村、石川、河合、渡邊の四君の筈で、旅程は凡そ四週間のつもりである。
私は四國をよくしらぬ。昨秋、高松から琴平迄を汽車で通過したに過ぎぬ。四國は暖かい處だといふ、桃の花でも咲いてゐたら嬉しからうと思ふ。
九州の土はまだ一度も踏むだことはない。別府、大分、宇佐、あの邊の景色が、私を如何に迎えてくれるか、これも戀人に逢ふやうな樂しさを覺える(二月四日)
日暮里の滿谷邸に、太平洋畫會の理事會がある。春の展覽會の相談で、いろいろな委員を割當てた結果、昨年の如く、繪入目録を引受けることになつた。一枚刷カタログの補助もせねばならぬ。陳列委員も仰付かつた。何でもよい、出來るだけは働く。たゞ此身の、内外多忙なるをいかにせんやだ(一月八日)
白也といふ人から『みづゑ』に寄書が來た。兄は醫師になれといふ、一人の姉人もそれに賛成してゐる、自分はどんな困難に遭遇しても、畫家として世に立ちたいと、他の姉に心情を訴ヘてゐる。これは眞面目の問題である。
白也といふ人は、美術家の生涯の、必ずしも幸福でないことを皮想のみならず、可なり深く承知してゐるらしい。美術家といふものは、全體自己一身に取つては、幸福此上も無いものだ。自分の好きな繪を畫いて、一生を送れるのだから、物質上に多少の缺乏はあらうとも是程の幸福はあるまい。また自分の好きな繪を畫いて、一生送れぬ人達でも、他の職業の人と比べて、其學才や智識や境遇や地位やから比較したならば、美術家ならぬ繪かき商賣の人でも、確かに幸福だといべる。美術家自身に不幸といふことは無い。併し、苦痛はある。自己の力が、よく自己の感じた點を畫面に現はすことの出來ぬ苦痛。自己の信ずる手段方法が、他の同感を得ざる苦痛。即ち自信ある自己の技倆を、世に認められぬといふやうな苦痛はある。美術家に若し不幸といふものがあれば、此一事に過ぎない。十年其道に研磨の功を積み、眞面日な生活をしてゆくのなら、妻子を養ふ位の事は誰れでも出來る。たゞ、他の職業と異なり、兎角放縦に流れ易いため、自ら身を持崩して、生涯を酒にかくれ、放浪の極、乞食畫かきに終るのもある。但し、是等は、意志の弱い節制のない無敎育者に多いので、それを例とする事は出來ない。何れかといヘば、職業としても安全のものと言ふてよい。
併し、こゝに考へなければならぬのは、とかく美術家とか、音樂家、又は文學者にならうといふやうな青年は、神經質の感情のみ強くて、意志の弱い人が多い。天才即ち感情であるといふ人もあるが、古來天才と呼はれて成功した人達は、強い感情のほかに、強い意志があつた。私は、繪の好きな人が畫家になることを拒まぬが、意志の弱い、感情一邊の人は、見合たがよからうと勸告するを躊躇しない。
畫家にでもならうと、志を立てた人は、多少の天分はあるのであらう。人一倍の勉強をしたなら、天分の乏しいものでも、相應の成功は疑ひない。若し、君にして身體が張健で、意志が堅固で、身に繋累なく、和應の學資が得られるなら畫家になり給へ。若し止を得ずして、最後の條件を缺くとも第一第二の條件は、必ず具備せねばならぬことを覺悟したまへ。と私は、白也氏に恁う答へたいのである(一月九日)
旅日記を出版すべく、古い草稿の校訂やら、新に起草する旅行記など、いろいろの調物があるので、一週間箱根に暮すことにした。丁度二日續きの休日で、正男も山登りがしたいといふ。連てゆくことにする。正男一人では歸京の時困るので、妻も同行する。夕方宮の下に着いて、五段に泊つた(二月十日)