オーストラリヤの水彩畫家 ヘンリー、テビツト氏のこと
山桝生
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日
この人の繪が現代の潮流に逢つて居るかどうか知らない、けれどえらい畫家だと思ふ。私共の如き書生には修養となる節が多いから、まぐれあたりに書いて見た。その感じも意味も現われて居ないのはお耻しい次第である、右の文は英人ダブルユー、アルデンホーベン氏の論文の大意である。
私しが十六七年以前にクイースランドに行つたときに、初めてそこのブリスバ子美術院で氏の水繪の作品を拜見した。その繪の色はデリケートなもので、描法が一風變つて居た、その繪のサプゼクトが簡単明瞭で私は非常に印象された、乃で私はテビツト氏及氏の作品に知り今口ひになりたいと願つたが、其後いくばくもなく氏と共に親密な交際をはじめた。
氏の御父さんは英國人で、彼はフランスのパリで生れた。彼は商賣の方面にはいらなければならぬ運命になつたけれども、彼の望みは自分は商賣の方面に、身を委ねるものでないことを、自覺してから、直に、ヨーロツパでの一番いゝ美術學校に入つて無茶苦茶に繪をかいて見た、そして彼はイギリスや其他の國々の展覽會に作品を出品して見た、一八八二年には、ローヤル・アカデミーにザウザンプトンの水といふ題で油繪を出品して大變評判がよかつた。
彼がまだ、オーストラリヤに行かぬ内、あの國の樹林の廣大なるに深く頭を打たれた、これが彼の一生、美術家たるの生涯を始める機會てあつた。
彼は腕前としての畫家でよかつたか、人物としての畫家としてよかつたのか議論のある所であるが、とも角この場合に於て私は兩方共に秀でて居つたものと云つてよい、實に人格がえらいし又腕前が秀でて居つたと云ふとは、彼がうるさいオーストラリヤの風景と、それに非常な困難に打ち勝つことを决心して成功したことで解かる。言ひ換えればテビツト氏は、天然自然と云ふ敎師の元にある純粹なる生徒であつたと云つてよろしい。一體美術家がすぐヨーロツパからオーストラリヤに赴くには、其空氣や植物や物の色の差異からして、其國の風景の感じから脱脚するには數年間の努力を要して、まづまつ個性的の風土に馴れたものが出來てくる。
テビット氏もさうで、彼のニユーサウスウエルスに於ける最初の時代は、さういう風で、特にゆかりのある英國の故郷の景色をかいて、彼自身を滿足せしめて居つた。
さうして漸次この新らしき風土に全く慣れたときに、オーストラリヤの山川の風景の非常に大きいものを非常に熱注して描いて。私しはお世辭でもなんでもなく云ひたい、彼は全くもう絶望して捨てたと云ふ樣な所で成功したのである。
私はその一例としてニユーザウスウエルスの綠の連山の趣をあげたい、この繪には彼自身の明らかな調子を呑んで居て、遠景に於ても烈しい樣な綠色を用ひてない、只不透明な乳光的な調子で出來て居るが、それはオーストラリヤの特別な風光の表し方で、この世界の何れの景色にもない樣な風景である。
多くの畫家は、これ等の山の研究を企でても、皆んな途中ですててしまうが、テビツト氏にはその困難に打ち勝つべき運命があたつて來たのである。附言したいのは、これ等の山山は一年の内で極寒い月の間の色彩は只プルービユテイーを表はして居るのみだ而して多くの畫家の記事の中には、何れも困難と煩鎖との二つがあると記してあるが、ここに氏の大なる功績と云ふものは彼が志したらどんな對象物でも彼を思ひ止ましむる障害物はなくして從事せしめたといふことである。
オーストラリヤの森の偉大な崇高な美をもてる景色の研究、又亜熱帯地に生ずる小さな複難な草木の美に於て、彼が描きたいと思つた植物の眞の精神に接する爲めに一個の畫室を起した、一寸説明したいのは、一體に樹木はヨーロツパのとは非常に違つて、灌木は鮮やかで木の幹の色によりて見分がつき、色々の名が付けられて居る、例へば黒いブットの木とか、白いブットとか、又はマホガニーの木の種類でも無論其名は各異つてをる其の葉の色は大概單調な灰綠色であるといふことが特徴である、其特徴のある木の葉がぶらぶらさがつて、恰度この地の自然を余り早く乾かさないさまに着かざらしてある如く見える。
ある批評家が氏の作品に對して評諭して居る。
『ヘンリー、テビット氏の作品は、僅かのスケッチを合せて二十ばかりある。それ等の繪は皆形や色の感しがよい、又タッチの决斷が充分ついて居るし、且つ全く自由な描法のやりかたである。諸君がそれ等の繪の前に立つときには、彼等の繪が氏の天稟の銘をうたれてあることに感ずるであらう、そして、其畫面の間に不撓不屈の精神をもつてやつたことがありありと解かる。十九世紀に於ける英國の自然崇拜の一大詩人ウオルズウオルスは言つて居る。
特に自然といふ女に限りてこれを愛するといふ其人の心をば决して誘惑して邪道は陥し入れないものだ。
ど、自然に對する氏の愛情及其描爲の心情が、彼の繪の中に表はれて居る。氏は美術家の眼を以て自然を觀察し、詩人の歌を以て自然を眺めた、だから彼の寫生は自然の表面の寫生でなく、又規則づくめの繪ではなかつた。
直感と同情とをもつて自然の隠れたる意味を明らかにし、かつそれ等の美を發輝せしめた、それは凡庸なる觀者の平凡なる、まなこで判斷が出來ない所である。
夕日の燒けつく樣な色、或は眠らんとして居る夕暮の景色に神秘的の靜かさが其全面に落ち付いて屠ること、ぴかぴか光つて居る川の鮮な形が見ゆる、其間に交つて居る枝や木の葉に光が反射して居ることなど、又は寂しき森の一塊をふくむてゐる夜の神々しき有樣など、まるで詩や歌である處を、彼の天才の腕をもつてそれを翻譯して畫いたのてある。本眞に彼は自然に對するか樣な愛情と寵撫の情とをもつて畫いたのである。
偉大なる自然は彼に非常なる能辮をもつて語つた、彼は自然のその雄辯を謹んで聞き了解したのである、そして幾度も幾度もぺンをもつて彼自身の使命を繰返して畫いたのである』と言つて居る。
右はメルボルンに於ける氏の最初の展覽會の折りにかかれたもので、ここには氏の反對派の者が居つた所であつたのである、實に彼はそこに彼の重なる作品をならべて名聲を博したのである、その内の偉大なる濠洲的の繪は氏が油でかいた逸品で、これはベンヂイゴ美術館に買ひ上げになつてゐる。又多くの美しい水繪の内で、綠の連山の如きは、其連山の意味の廣いと云うことの外、そのやり口が實にうまく出來ている。
またヌスマン海の繪は、大平洋の感しがよく表はれて居る、あの深い綠の空、あの深い青い海、その間の水平線のあたり動かぬ朦朧たる熱氣がよく見えて居る。
一體氏が此國で名をあげたのは、これ等の単調な題目の繪であつた、これが僅か十年以前のことである。
特に私の心において感ずるのは、テビット氏が美術を愛すると云ふことの熱心さが、實に遠慮ない仕方であつたから成功したのであると考へられる。もしも彼に突進するの氣慨が無かつたなら、彼は確かに商店の役員位のものとなつて、他の人々を助けたものに違ひない。
氏のやり方に就ても少し言はなければならぬことがある、それは氏は氏自身の技術を自から發見發覺したということである。
筆がどうだ、指の先がどうだ、又はパレットがどうだと云ふ使用の努力でやつたのでなく、一つの事實を碓信してやつたのである。彼の作品は、彼自身の方法から生れた結果で、機會を獲得しやうといふて、未來をまち望むと云ふ、水彩畫家達が依頼する樣な仕方ではない、氏は只彼の本來の目的を獲得して居たのである。彼はチヤイニスホワイトの姐き色は少しも用ひず、純粹な奇麗な色を用ひて居つた。
この私の親しき友達は、賞めると云ふことを絶對的にきらひて自分の實力を信頼して滿足して居つた人である。一體多くの親しき支達を見出すことは困難なことであるが、この私の交つたテピツト氏は、實にボヘミヤン的の不覇放縦なる美術家の一人であつたと信ずる。
あの人はあの人の作品と共に生き、彼の作品は永久に彼と共にながらえることである。(終り)