三脚物語[第七回の中]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

 一
 一行は二階と下との二組に分れた。僕等は二階の一室に雜居してゐる。その隣りは食堂だから諸先生のお話は手に取るやうにきこえる。
 何かの行違ひで一行の豫期しない一問題が起つた、それはこの村の有志に今夜逢つて一場の挨拶をしてくれとの話であつたのが、いつの間にか講演會といふやうなものになつて、村の小學校に百人も詰かけて一行を待つてゐるとのことだ、諸先生達は商賣柄筆を持たして繪を畫かしたら達者なものだが、衆人の前に口をきかせたら片なしだ、そのくせ無駄り、駄洒り彌次ることは相應にやるが、こんな時には何の役にも立たない、今更そんな筈ではないと斷はつても、たゞ其つもりではるばる集まつて來た有志者といふ人達に御氣の毒をさせるばかり、君やれ、貴樣やれと、話は中々纒まらない、F先生は昨日の神戸牛が崇つたといふて、腹を押ヘ押へ寝床にもぐりこむ、どう相談がついたか一同又また洋服に着かへて、疲れ足を引摺りながらブツクサ言ひいひ出て往つた。
 三時間程して一行は歸つて來た、演壇に立つたのは大阪朝日の木崎氏を魁に、石井、吉田兩先生で、僕の主人が殿をしたとのことだ。
 十一月六日はよく晴れた。俥た、舟だ、人足だと、皆それぞれに出かける。主人はG、F兩先生と共に俥を連ねて坂手へ向ふ。
 僕は昨日の道を膝かけに包まれ、頭だけ出して隨行した。島の俥には多くは犬の先曳がついてゐる、和犬も洋犬も、大きいのも小さいのも、赤も黑も斑もある、梶棒が上るとキヤンキャンと高吠して、腰を押立て前へのめるやうにして滿身の力を籠めて綱を引く、車夫迄も引摺られてゆきさうな勢だ、こいつが何處迄も此勢だといゝのだが、時には右に左にそれて道草をやる、出逢つた同類と喧嘩をする、雌犬の尻を追ひ廻す、小用をする糞をする、それはそれは目まぐろしいやうに小うるさいものだ、こんな不謹愼な先曳はやめればよいと思ふが、それでも坂を上る時などかなり力になるとの話だ。
 坂手では、小高い墓地の中から海を見ての寫生が始まつた、これが僕の小豆島へ第一に足を下した處だ、ステキに暖かい日で馬鹿に心持がいゝ。間もなくA先生もC先生もやつて來た。
 宿へ歸つたのはまだ日が高かつた。他の先生達も歸つて來て繪の批評が盛んだつた。
 二
 今日は何處へゆく。俺れはこの近處だ。僕は坂手だ。またか。花壽波行は幾人だ。など口々に喧ましい。僕はまたも犬曳の俥で坂手へ往つた。昨日の處が仕上つたらしく、辮當が濟むでからノコノコ山を登り出した。
 此山の上には大きな洞穴があつて、洞雲山とよばれてゐる。其途中に隼山の觀音がある。そこへ出掛けるのだらう。岩を刻んだ細い道には石が立つてゐて丁數が記してある。初めに見たのが十二丁だ、坂手からは十六丁あるさうだ、十二丁から十一丁目迄が中々長い、どうして六十間できくものか、主人は汗を拭き拭き登つてゆく、十一丁から十丁迄も可なり長い、だんだんと數へてゆくと、六七丁位ひから急に距離が短かくなつて、石を見ると間もなく次の石がある。初めの元氣のあるうちは間を長くして疲れて來る頃から短かくするのはよい考へだ、物差しで計つて見てこそ何處も六十間即ち一丁だが、疲勞の度から言ふたら、頂上に近い程短かくてよい譯だ、小豆島の人は賢いなアと思つた。
 隼觀音堂に着いた。正門は海に面して東の方にある、坂手から登ると南の裏口だ、此裏口の建物は土の壁に瓦屋根で、通例のもんだが、其樣式は直線的で、セセッションを應用したのかと思はるゝ程頗るハイカラなもんだ。大きな巖窟の中に小さな堂がある。四方の眺望は可なり佳い。松の面白いものもあるし、山櫻も少しはあるらしい。
 これから五丁ばかり奥へゆくと、いよいよ洞雲山だ。この巖は一層大きい、小さなお堂が穴の中にいくつもある、乾き切つた大きな杉が林をなして、其間から内海が見えて景色は中々よい。
 案内してくれる人があるのでなほ奥の方へ十丁も往つた、やはりお堂がある、是から山續きに淸瀧あたり迄住けるさうだ。
 崖の突鼻へ出て景色を見た、殆ど小豆島全體が見える、大景だ。其崖の下は絶壁で四五丈もあらう、下には松や杉の深林で、綠の梢たけ見える。前年七つになる女の兒がこゝから墜ちた、兩親は驚ろいたが何とも仕樣がない、狂氣のやうに元の道を一里近くも迂回して崖下を尋ねたら、子供は草原に平氣で遊んでゐたといふ、何處も怪戎もなく全く觀音さまの御蔭だと、非常に喜こんだと案内の人が主人に話してゐた。
 三
 宿へ歸つて間もなく、花壽波行の連中が舟で歸つて來た。今日はよほど楡快であつたらしく、銘々の氣焔は盛んなもんだ。花壽波では釣をやつた、F先生とC先生の舟は割合によく釣れる乍驚オコゼ四尾に、目の下一寸ばかりの鯛を一尾釣つた。F先生は鯛を釣つたといつて大喜びだ。一寸でも鯛に柏違ないと、一カドの漁師でもあるやうに自慢してゐる。C先生はオコゼで少々悄然たりだが、それでもまア釣れだけゑらい。A先生とJ先生の舟では一つも釣れない。やつとの思ひで一つ釣れたが、あとは更に音沙汰なしだ、向ふの舟を見るとオコゼでも何でも兎に角針にかゝる、忌々しいこと無類で、終に一度釣つたやつを又針にかけて、釣れたつれたと虚勢を張る。A先生も口惜しがつて、お辯當の中にあつた蒲鉾を針につけて、そら釣れたつれた。昔しかつたのはH君で、いくらやつても餌を取られるばかり、とうとう斷念して舟の中に大の字、そして言草が振つてゐる、僕はそんな殺生は大嫌ひだと。
 花壽波で遊んだ連中は、日暮になつたので急いで舟を返した、急いでも三里の海路だ、とうとう夜になつた。暗い海を櫓を押してゆく、舟がゆれて水が動く毎にピカリピカリと光るものがある、これは夜光蟲で何の不思儀も無いが、そこが事あれかしの連中のことだけあつて大騒ぎを惹起した。
 この朝花壽波へゆく時、A先生は海水を盃に酌むで味はつた、一杯で足りなくつて三杯迄もやつた、そして越後の海よりも甘い、銚子沖の方がもつと辛いと頻りに通を振廻はした。他の連中は誰れもまだ海水の比較研究に緯驗が無いから、ウンともスンとも申樣がない、たゞ謹聽してゐるばかりだ。
 さて夜になつて、海が光る、それも夥多しく光る。何だと船頭にきいたら細かい虫ですといふ、これを聞いたA先生は少なからず狼狽した、なに畫間でも居るか、エエ居りますとも、サア大變だ、今朝飲むだ鹽水の中にも居たらうか、盃の中だ、ほんの少しばかりだ、居やアしまいといふ。至つて人のわるいC先生は、盃を取出して海水を酌むで見たら、闇にもしるく方一寸の天地に四ッ五ツピカピカと光つ、一杯に五ッ宛なら今朝は十五飲むだわけだと、現の證據を見せつけられてA先生は一方ならぬ恐慌だ、何でも急に顔色が變つたざうだか、幸ひ夜るで他の人には分らない、早速懐中から仁丹を出して飲み始めた、少しばかりでは効くまいといふので、一度に幾袋かお茶漬にして飲むだとの話だ、宿へ歸つてからも、可愛さうに此話が出ると、先生はグッと詰つて頻りに酒ばかりあほる、酒は毒消になるさうだ』變つた聲がきこえる、考へて見ると初めの夜坂手で逢つた村長さんだ、大ぶお酒も参ると見えて話がはずむ、坂手から海上半道ばかりに福部島といふのがある、これを坂手と堀越と田の浦の三村で領地争をした、一番近いのが領地だといふので、三村から同時刻に船を出して先着を爭つた、相圖の烽火にソレつと船を進めたが、一番近い堀越は、あまり勢がよ過て島より先に往き過たので、坂手に第一着をとられた。今でも此島は坂手分になつてゐて、それがため『堀越傳馬で行過た』といふ諺が殘つてゐて、出過者の戒めになつてゐると村長さんは話された。
 四
 十一月八日には、主人は鈴木君と共に淸瀧といふ處へ往つた。
 山道だといふので徒歩だ。安田といふ一寸賑やかな村を過ぎて山路へ入る。小豆島といふ處は至つて乾燥な地と見えて、草の上にも露といふものが無い、川にも水は少ない、木の葉に潤ひがない、綠の苔が無い、神懸の紅葉だなんて言つてもミジメなもので、僅かばかりの楓と錦木があるばかり、それも木は細くカラカラに乾いた葉が獅噛ついてゐるので、近くでこそ紅葉とも言へやう、少し離れてはたゞ黑ずんだ紅ゐのかたまりを見るばかり、紅葉ではとても關東から東北の雄大な感じは無い、盆景に過ぎない、これは必竟水蒸氣の缺乏からだらう。お蔭で主人をはじめJ先生やH君は咽喉が痛いと首へ濕布を巻いてゐる』漸く山道にかゝると例の石が立つてゐる、安田から二十五丁で清瀧といふ處へ來た、大きな巖、小さな堂、何處も同じことだ、清瀧といつたからつて瀧が在る譯ではない、瀧といふのは巖のことださうだ。こゝで危かしい處に置かれて二時間ばかり辛抱した。
 お茶の支度が出來ましたと、下の寺から村役場の人が迎ひに來た、僕もお供をする。寺の座激の見晴のよい綠側に置かれる。見ると和尚が出て來て名物の素麺を召上れといふ、安田村から役場の人がビールを以て來た、主人は酒を飲まないので閉口の體だ、御持参の辨當を開く、いつもは二重の折詰が今日は三並ある、御馳走澤山だなと見てゐると、何の事だ飯が二重ねも入つてゐる、何だつて多くしたのだらう、主人はいつも半分位ひで捨てゝ仕舞ふのに。
 食意地が張つてゐるやうで少し極まりがわるいが、辨當の中にはいつでも蒲鉾の無いことはない、朝のお菜にも夕の口取にも汁の實にも蒲鉾は屹度つくといふ程だ、誰だか小豆島一名蒲鉾島といふたが或はさうかも知れない。
 和尚は扇子を出して來て主人に何か畫けといふ、即席畫は大の不得手だ、それだのに、何と思つたか扇子を取つて下手な野菊を畫いた。坊さんには多藝な方が多い、貴僧も繪は御達者でせうと主人が言ふたら、ハイ前には習つたこともありますと和尚は答ヘた、マヅい菊を畫いた主人は下を向いて苦笑してゐた。午後から又も危ない岩の上に置かれ、前の道を夕方宿へ歸つた』明日は一同土の庄の方へゆくのだといふ。先發として今朝A先生が出掛けた。夜分土の庄からの電話に、『A先生は大さうに氣に入つた場處があつて、今日は夢中に寫生をして居られますあまり夢中であつたので、御辨當を猫に喰はれて仕舞ひました』と、さてさて電話といふものは重寳なものだ。
 

日本水彩畫會飯山支部展覽會

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