ワッツ論[三]
矢代幸雄抄譯
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日
現世界が美術で到達せられるには尚此外に道がある而して、ホイッスラーは是で旨くやつて、(他はいざ知らす其丈では)欠點なき方法で、優雅と美遒とを顯し得たのである。と云ふて其方法は畢竟最も偉い大家連の方法ではない、就中ベラスケズの方法ではないのだホイッスラーは人生でも世の中でも、其中で自分の意に合ふ所丈を取入れてる、尤も是は何んな美術家でもやらなければならないが、然し彼は同時にだんだん白分の目的を狭めて行ても遂には實に其落款の蝶形でシンボライズされてると云へるまでだ。彼は一體處世人、實に上を引きつける樣な、性質で氣にさはる樣な鋭い洒落を云ふことを一切避けて居ると同樣、繪を書く方でも白分の撰擇が輕快なので困難な方は先づ避けて置くと云ふ風がある、其筆に成る肖像の中で極上なのは二三ある、が中でカーライルの像、其母の像では何んな六ヶ敷い問題も堂々と相抗して堂々と解决して遺憾なく、實に傑作を出したのである、是等の畫では意匠が勝て、人物が見劣りすると云ふ弊ひなし、又色の匂ひの、効すぎて精神が負ちまう害もない。何だか荘重に製調してギリシヤ人の特長とせしかと自制がほの見えて人生の眞意義、明に此繪の中に顯るゝのである、然し時にはホイッスラー自身神経過敏の動物となつて群集が寄て來たとて縮み上り、勞働の苦勞の見苦しきに目をそらし晶々たる太陽の下では光が強過ぎるとて嫌がり、夫よりか月影のやさしきに僅かに満足して畏る畏る畫いて居る、出來上つたものは何かといふと常夜の國を寫した樣だ『河の精』を畫いたものがある其は、一群の人間で其等は皆揃ひも揃つてむら氣の凝り、出て直ぐ消えてしまいさうな者ばかりだ、『美』は認められないことはないが其『美』は實に憐れなもので確固たる所少しもなくふらついてちょいちょい眼につく(いつそのこと無ければ無いで畫に落付きがあるのに)恰度明鏡に呼吸を吹かけた樣で一時ではあるが靜平な面を破つて曇らせる。ベラスケズに到つては自家一個の見識で生命を解釋會得して居る、其方法も撰擇を逞して如何なる場合がよいかと迷ひ込むことなんか無く、或一瞬間を捕へたが最後其を基礎とし研究材料として全生命を會得するのである。さり乍ら其人の感ずる『美』とても矢張り成立つ所撰擇と精密なる實左研究とである事は依然變らないが、然し其現昼に感ずる所非常に氣高くて人の意表に出でゝ仰天させてやらうとか平等を超えし此所が好きでたまらぬと云ふ偏愛等、要するに眼球の後には頭腦がひかへ居ると云ふ形跡感情の奔る理智が居るてふ痕跡は少しも見え無いのである『實在』を見るに確固正大全局に眼を配りて居るから、綴り出す畫面には雄大の感と共に、實在世界なるもの織出されるのだ世界の物は一切表はれる而し只下卑たもの丈は何處にも見當らない美の觀念はベラスケズに及ぶ事他の人道派の畫家の迂遠なるに似もやらで速であり且直接であつて其は實に眞の實在眞の生命を只一に充分翫味し研究し思索したからである。
偖ワッツの畫を見るに、始め一寸は如何も自家獨創と云ふ點が欠けて居る樣に思はれる兎に角其製作の方法では、きつと此事が目に付く彼の畫が多種樣なので特に此『ワッツは自分の特有な主張はないのか』と云ふ感を深ふせざるを得ない一方では赤土の土偶見たいなものを二つ並べて畫いて是でも二人の赤ん坊だぞと云つてる樣な筆つきに他方では觸れなば消えん雪片と見えて、人の肉とは受取れぬ『ヴルドラ』を畫てる平氣さ加減では、誰とて斯樣思はぬものは有まい、然し一歩退いて更に考へて見給へ、此所に深き深き濁創の點が在りて存するのではあるまいか而して此獨特は其目的を達するに目に付く道を採る事をしなかつた爲斯く顯はれなかつたのである此場合其畫の形式が其畫家の人物すつかり其儘を表示するとは全く異る即ワッツなる畫家の人格ー其人の精神ーが自我を全然殘却して、自然と其作中に充滿し、風動して、斷々乎として大藝術の言葉を叫ばんとして居るのだ、曰はんとする所は只是聞いて最高感情の會得出來る藝術の言葉のみで先人誰が矢張り此斯き言葉を傳へて居るか知らないが其人に對しては同時に非常な尊敬を表はして居るのである。
斯くして吾人がワッツの構圖を見て以前見た或畫を思出し其畫は余り國民博物館氣取りに畫いてあつて到底其畫は自身は其處へ藏せられさうも無い事を思ひ浮べて來ると矢張りワッツに取つては没利己は、實に藝術の一要素にして且意味ある美に飽くまで忠實なる事が隨一に必要の事なるを思出さざるを得ない。其筆躍つて成るものは眞個の繪畫にして、単に一の思想を畫いたとは全く違ふ實物を見其靈性感動して筆端に迸つたものが其畫なのだ。彼は其畫の表はし得る色彩形體以上に見て感ずる所無くては止まないで。ある畫家によりては人がたつた獨り膳に向つて酒を飲んで居る所を畫いても、隨分見事なものを作るのもあるデカー等其一人だ、されどワッツにしては是では偉大なる畫とはならない何故と云ふと是丈では其種々な線で出來て居る繪畫としての價値と寫實主義の心理學的意昧其から常と變らぬ自然の眞を傳へる以外、何等大なる意昧も蘊蓄も無いからである其上彼は信じて居る他人のとは明々白々に異る自分の平法を得んとし而も平法のうまく表さんとするものを忘れて居るのは實に無益な念頭に置かなくてょいものである、又天地を窮め萬世に亘る大法用大眞理大思想に非ずして只ほんの一瞬間現はれて立消えて後なき少さなつまらぬ眞を、せゝこましく鵜の目鷹の目で捜して居るのも前の事に負けない位馬鹿氣た方向違ひの事だと、高尚なる『美』を求むるに甘つて傳説と云ふ精神上の眼鏡を通して眼を見張つて居る故に畫く所は自分の周圍の事物の心算で屠るが實は同時彼が心の中のものまでも畫き出してしまう彼が人情の最も高潮した場合の『愛』『生』『死』『望』『憐』に象徴を借りて畫く所源は一に皆自然の事物と、彼が心の反影にて發して申分なき人の姿肉色までが靈の洗禮を得て神聖になつた樣物思ふ眼差しの意味深きは申迄もなく添ふてある、衣服まで畫房のつきものの御定まりとは異りて同情温きハートと、機微精緻な手に畫かれては心なき皺や襞まで徒らではない樣になる、